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Re[96]: :つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/14(Sun) 10:47:40)
| No44876のようなこと思ってるなかでちょっと想いだしたのが、 中島義道さんが、 (K-N)――― カントは、仮象を「誤った現れ」という意味に限定した。それは「錯覚」とほぼ同義であり、広く主観的にそう見える(思われる)ものを客観的だと誤って判断するときに生ずるものである。 ・・・ カントによれば、人間理性は「超越的なもの」に「仮象」(Schein)というかたちで関与するのである。つまり、「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥るが、その仮象への陥り方に関することすべてに消極的意味における「超越論的」という言葉が付される。 ―――――― って言ってるようなこと(前に書いたかもだけど)。 これをわたしなりので見て見ると、 私の外にあるもの――外的な物≒客(ob)≒神の創造物(素材そのもの)≒〈超越的なもの〉≒「物自体」――を、私の理性が捉えようとする――超越(客)を論じようとする≒客観(obje)≒超越論的――とき、誤った現れ(仮象)というかたちで関与している(超越論的の消極的意味)。カントによると、結局、私は物自体を知ることはできない。 こういうなかで、 No44076の(KK)に「人間がつくるのは、先天的な形式・型、まさに人間としての先天的な能力による組み立てであり、構成であるにすぎない。」ってあるように、私の意識における認識が外的なものを私の内で構成(総合)する能力はア・プリオリにもってる。この能力は経験的に拠るものではなく、神が人間に与えた能力(たぶんカントはこの能力を「理性」と見ている)であり、超越的なもの(客観)と見ることもできる。このようなア・プリオリで純粋な経験に拠るものではない形式(たとえば感性の形式—時間と空間、純粋悟性概念(カテゴリー)—量・質・関係・様態みたいなの)のようなものついて論じることも(積極的意味で)超越論的と呼ばれる。
カントの「超越論的」っていうの、だいたいこんな感じのじゃないかな?って。
自称現象学派のわたしとしては、「私は物自体を知ることはできない」じゃなくて、「私は“そのようにして”物そのものに接近している」っていう見方になってる。じゃ、“どのようにして”を問題にしてるのが現象学なんじゃないかな?って。
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