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Re[39]: つれづれなるままに 20
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/07/11(Fri) 18:02:26)
| No43695の(K-m1)(K-m2)のようなのを、カントのいう、「感性的直観」と「純粋悟性概念」とを関係づけてるものたちのアウトラインとして見といて。
わたしのカントのわたしの物語りは、 No43690のつづきになるよ
No43516(資料Eb)の「カントの構想力論」のところから、
(Eb2)――――――――――― カントの構想力論 カテゴリーの演繹とは、現象に対するカテゴリーの客観的妥当性を基礎づけることである。 第一版の演繹論は、 (一)「直観における把捉の綜合」 (二)「構想における再生産の綜合」 (三)「概念における再認の綜合」 という三段の綜合から成り立っている。 この最初の二つの綜合は、感性的認識としての知覚の形成に対応する。 これに続く第三の綜合は、カテゴリーによる「再認」(Rekognition)と呼ばれている。 この表現から、知覚という仕方で第一次の感性的認知がすでに成立していることが読み取れる。 そして、この知覚にカテゴリーの働きが加わることで、対象の認識が「判断」という仕方で成立するとされている。 すなわち、第一版では知覚と判断のレベルが明確に区別されているのである。 ――――――――(p6)
ってあって、この(一)、(二)、(三)は、 No41672(本Ko)の、 No43412の(K1)の(3)のことだと思う。 (一)に「把捉」ってなってるけど、Apprehention「覚知」と同じだと思う。
(Eb2)に続けて、 (Eb3)――――― これに対し、第二版の演繹論は全く異なる論証方法を用いている。 すなわち、カテゴリーが既に(一)の把捉の綜合の条件であることを指摘し、第一版で三段階に分けていた綜合を「形態的綜合」という概念で一挙に説明しようとする。 「したがって、多様なものが我々の内から、あるいは、外から由来するものであっても、多様なものの綜合的統一すら、したがって、また結合も(中略)アプリオリにあらゆる把捉の綜合の条件として既にこれらの諸直観と共に(諸直観においてではなく)同時に与えられている」(B161) ――――――――(p6) ってあった。
(本Ko)の第七章は、「演繹(初版)」ってあるから、見てるところは(Eb2)のとこまでだった、っていうことになるのかな。
どうやら、第二版では様相が変わってくる?
つづく
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