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No44810 の記事


■44810 / )  Re[89]: :つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/12/06(Sat) 15:45:31)
    No44795のつづき

    わたしいまだに「超越論的」の意味よく分かんないのよね。
    No44739の(P)の(2)にあるように「メルロ=ポンティもこの概念の使用をためらい、むしろ拒んでいる」っていうことみたいだから、もうかかわらなくてもいいかな、とも思ったんだけど、ひとまずわたしなりの見方を考えとこっかな、って。
    で、
    【「現象学事典」弘文堂2014】にあったのを書き写して見るね。

    (t1)―――――――――――――――――
    超越 [(独)Transzentenz ] 
    伝統的な超越の概念に、現象学的、実存論的な視点から新たな意味を与えなおしたのは前期のハイデガーであった。
    従来の伝統的な超越の概念は、たとえばプラトンのイデアや、キリスト教神学の神の概念に見られるような此岸から彼岸への超越を、あるいはカント的な超越論的哲学にみられる主体に対する物それ自体ないしは客体の超越を意味していた。
    ・・・・・・・
    ―――――――――――――――――――

    (t2)―――事項「超越論的主観性」のなかから
    西欧の近代哲学においては認識の本質はその対象からというよりも、その主観から考えられるようになる(このことは行為の目標と主体についても言えることであるが、ここでは認識を中心とする)。そのとき主観(性)の存在は己れにとって超越的な対象の存在を基礎づけるという意味で超越論的と呼ばれる。主観性の側へのこの転回の傾向はデカルトから始まって、英国経験論、カントを経て、フッサールに収斂する(フッサールの自己了解)。フッサールの主観性は終局点と見なされるだけに、終わりがまた始まりにあるように、新たな転回を含むものとなる。
    ―――――――――――――――――――

    (t3)―――――――――――――――――
    超越的/超越論的 [(独)transzendent/transzendental]

    超越的
    一般にわれわれの経験の水準あるいは枠ないし限界(たとえば感性的世界や人間的知性)を超えていることである。カントではわれわれの悟性能力を経験ないし現象の枠を超えて使用する場合である(ただしその結果は超越論的とも言われるが――超越論的仮象)。フッサールでは意識にとっての対象すべてについて言われる。意識は志向性によって己の内に所属していないものに向かっているのである。

    超越論的
    スコラ哲学ではアリストテレスの範疇を超えてすべての存在者に適用される属性(一者、存在あるいは真・善)について言われた。その意味はカントでは消えて、認識を可能にする、認識に先立つ条件、つまり認識に際してわれわれがもつアプリオリな形式や概念にかかわる。経験的認識の条件ということから先験的とも訳される。フッサールでは超越的なものの基礎づけの理論として超越論的である。還元の後ではそれまでの超越は「内在的超越」となる。いっさいの超越者が相対化された後では、真の超越者は〈超越論的〉の側に移行して、超越論的意識ないし自我が「真の究極的絶対者」となるが、しかしそれは超時間的ではなく、内在的時間意識として主観性である。

    超越的/超越論的はともに超越をもとにしているが、前者は超越の結果、状態を示して、対象的存在に当てられているのに対して、後者は超越の作用、働きを示して、既定の超越的なものをさらに超越して、それの意味を考える構成的主観に当てられている。世界への帰属性を遮断し、世界を構成することで世界から超え出ることにより、われわれは内世界的から超越論的となるのである。
    ―――――――――――――――――――
    (t4)―――――――――――――――――
    超越/内在 [(独)Transzendenz/Immanenz(英)transzandence/immanence ]
    フッサールの用いた用語で、とくに『イデーンI』の「現象学的還元」論において重要な役割を果たす。
    自己の意識体験に属するもののことを「内在的」なものとし「内在」と呼び、これに属さないものを「超越的」なもの「超越」と呼ぶ。
    したがって、事物はすべて「超越」であるが、意識体験の構成要素ではあっても他者の意識体験に属するものは「超越」とされる。
    「超越」と「内在」との相違は「存在様式の原理的相異」と「所与性様式の原理的相異」によって、すなわち自己の意識体験の「実的」成素として「内在的」に知覚するかどうかによって、また「射映する」かしないかによって説明される。
    しかし「超越」と「内在」が鋭く対立させられるのは、すべての「超越」に対する定立を遮断することによって「内在」の領野を純化して、現象学固有の領野である「純粋意識の領域」すなわち「超越論的主観性」を取り出すためである。
    「超越」の謎を解くために「内在」の領野に還帰せよ、というのがフッサール現象学の根本テーゼであり、「内在」の領野こそが「超越」について問うことを可能にする「超越論的」次元なのである。
    したがって「超越」と「内在」とを対峙させるのは「内在」の領野に還帰するために取られる方法論上の一措置であり、フッサールの真の目的は「超越」をノエマとして、すなわち意識の志向的相関者として捉えなおして、その現出の諸相と諸層を分析することにあった、ということができよう。
    ―――――――――――――――――――

    現象学事典の中から、わたしが調べて見たのはこんなところかな。

    ちなみに、(t1)のにある〔此岸と彼岸〕をネットで調べたら、
    〔仏教では元来、煩悩に満ち溢れるこの現世の世界を「此岸(しがん)」と呼びます。 それに対して、あの世の世界を「彼岸(ひがん)と呼びます。 「此岸」とは「こちら側の岸」という意味で、「彼岸」は「あちら側の岸」を意味します。」
    ってあった。
    わたし簡単に見て、〈この世とあの世〉、かな。
    こういうのって、
    No40930
    No40926の小牧さんが言ってるようなことを想い出す。


    こういようなのからのわたしの見えはまた後で。

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