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Re[61]: :つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/11/23(Sun) 11:07:25)
| わたしの物語りつづけるよ。
【「現象学事典」弘文堂2014】にあった「自我」からの、再掲になるけどまとめて書き出しとく。
(事典@)―――――――――――― 自我 [エゴ] [(独)Ich (ラ)ego (仏)je;moi] フッサールにおける自我とは、原則的には、意識の諸作用の同一な遂行者である。 フッサールは、われわれの意識体験の構造をエゴーコギト―コギタートゥウム(自我―意識作用―意識対象)という三項一体的な構造で捉えている。 ――――――――――――――― (事典A)—―――――――――― 『論理学研究』の初版では、自我はリアルな対象性の一つとして(つまり経験的な自我として)捉えられ、この観点から「純粋自我」という概念が批判されていたが、『イデーンT』では、ナトルプの批判などに促され、自我は「純粋自我」という面からも捉えられるようになる。 現象学的還元によってその残余として析出されるのは「純粋意識」であるが、純粋自我はその純粋意識につねに随伴する「〔意識の〕内在のなかの超越」[Ideen T]であるとされた。 ――――――――――――――― (事典B)―――――――――――― さてその自我は、そのつど流動的な生として自己を把握するだけでなく、そのつどのコギト―コギタートゥウム(意識作用―意識対象)の多様な連関を同一のものとして生き抜く自我としても自己を把握する。これが「体験の同一極」[CM 100,Hu 9.208]としての自我である。しかしこの自我は、『イデーンT』において純粋自我に関して言われていたような、それ自体としては「まったく空虚」で「記述不可能」なもの[Ideen I 160]でしかないのではなく、そのつどの思念や確信を己れのうちに沈殿させ、そこから「持続的な個性」を紡ぎだしていく「習性の基体としての自我」[CM 100, Hu 9 215]でもあり、それが核となって、社会的世界の成員であるいわゆる「人格としての自我」[Ideen II 175]が形成されるのである。 ――――――――――――――― (事典C)―――――――――――― 自我は、狭義においては、こうした意識体験の一契機(「体験の同一極としての自我」ならびに「習性の基体としての自我」)を意味するが、広義においては、こうした体験の志向的構造の全体をも意味するのであって、それが超越論的自我である。あるいはまたそれは、対象世界をも包括した具体的な自我という意味で「モナド」とも呼ばれる[CM102]。 ここで超越論的自我は超越論的主観性と同義であって、その意味では超越論的主観性の志向的・構成的分析作業としての現象学は、あらゆる構成の問題を自己のうちに含むモナド的な自我の自己解明の営みとして、「自我論」(Egologie)にほかならないことになる。言いかえると、「どんな形式であれ、超越性は、内在的な、自我の内部で構成されてくる存在性格である」[同117]から、構成する超越論的自我はいっさいの超越性を志向的に包含しており、それゆえ「外部は無意味である」ということになる。 ――――――――――――――― (事典D―――――――――――― フッサールのいう自我論、つまりモナドとしての自我における自我と世界との構造的連関全体の根源的な解明は、とりもなおさず、すべての構成の遂行者である超越論的自我自身が反省的に行う営みである。そこでは、自我が「発生の普遍的形式」において自己を時間的に構成するそのプロセスが、自我の「深さの次元」として分析される。 もっとも、反省は、すでに発生しているものの「後からの確認」[Hu 8. 89]としてしか可能ではないであるから、反省が可能であるためには、反省に先立って、自我はいつも自己自身のうちに隔たりを発生させ、同時にそれを架橋しながら、自己を(まさにたえざる自己差異化の過程のなかで)同一的なものとして構成しているのでなければならない。 「自己共同化」ともいわれるこの自己統一は、反省以前のものであるから、自我にとってはそれはいつもすでに「原受動的」に生起している。超越論的自我のなかでは、この意味での自我、つまり「原自我」(Ur-ich)が、その能動的な構成過程に先立っていつもすでに(先―)存在しているのである。 ――――――――――――――― (事典E)――――――――――― この「原自我」は、フィンクも指摘しているように、「自我と他我の区別に先立つ」ものであって、フッサールの現象学はさらに、原自我のこの未分化性の内部に間主観性が胚胎していることを示すという作業を自らに課すことになる。フッサールが「あらゆる謎のうちで最大の謎」[Krisis 82]だとした自我の問題は、こうして最終的に、フッサール全集の第13−15巻に草稿のかたちで収録さてれいるいわゆる「間主観性の現象学」の主題系に連なってゆく[Hu 15. 587 参照]。 ―――――――――――――――
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