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■36819 / inTopicNo.25)  Re[35]: エピクテトス
  
□投稿者/ パニチェ -(2024/03/16(Sat) 08:39:29)
    2024/03/16(Sat) 08:57:04 編集(投稿者)

    おはようございます、akaimiさん。横レス失礼します。
    以下は反論というものではないのですが時々思うことを(動画や他の言説とは切り離し、以下の言説だけに限って)書いてみます。
    akaimiさんや時さんの意見を聞ければ有難いですが、もちろんスルーでも結構です。

    > ===
    > 出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    > むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    > そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。

    > (『提要』8)
    > ===
    > 『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p61より引用

    「人生で起こることは必然であり、それらには意味や価値がある」や、上記の「出来事が起こるように起こることを望みたまえ」という台詞の背後には神への信仰があるように思うのです。
    または苦難を乗り越えることができた勝者の言葉。

    最悪の状態で死を迎えた人、例えば一方的に無残な殺され方をした人たちにも同じことが言えるのか疑問です。
    死後世界や輪廻転生を認めれば、この価値観もひっくり返るかもしれませんが、死後や転生を無記としている(生を哲学の中心とする実存主義)私にはどうもそのように思えないんですねぇ〜。

引用返信/返信 削除キー/
■36818 / inTopicNo.26)  投稿ありがとうございました。
□投稿者/ akaimi -(2024/03/16(Sat) 08:06:41)
    2024/03/16(Sat) 08:26:32 編集(投稿者)

    時さんの考察を拝見しました。
    返信は不要とありましたので、挨拶だけ。^^
    エピクテトスの言葉に関心をもっていただいてありがとうございました。
    ストア派の思索領域は倫理面だけではなく自然科学や論理もあり、倫理面もその下支えがあって生まれたものならしいです。
    そこでストア派の思想についての本を読んでみることにしました。
    文章化できそうでしたらまた投稿にしてみます。


    後になりふと思ったことがあります。
    私は撮影した動画をXにあげる、というのをしたことはないのですが、例えばどこかで綺麗な風景を見たりしたら撮ってあげるのもいいなと思うんです。
    でも、他の方が映り込んでしまったらあげないかな。
    無断で見ず知らずの人が映り込んだ動画をあげてしまうのは善くないという価値基準が自分にあるからです。

    トラブルになっている場面を無断で撮影して投稿する、という行為は現在のSNS世界では問題ではないのかな。
    Xで削除にならず閲覧できたということは問題視されるものではないということなのですね。

    ・ ・ ・ ・ ・
    時さん、すみません。 ここから加筆追伸です。

    >Xでのポストで流れてきた動画で、バスの中で座っている若い女性の斜め後ろで老人が立っていました。その老人の後ろにいた人が座っている若い女性に対して「席を譲ってあげなさい」と言い、無言のまま若い女性が立ち上がって席を変わってあげましたが、女性の片足が義足でした。結果、その場の空気が何とも言えないものに包まれました。

    ここに書かれているのは実際にXに投稿されていた動画ですか?
    それとも、時さんが考えられた例え話?
    実際にあった投稿だと思い読んできたのですが、もしかしたら例え話なのかなとも今更ながらに思ったのです。

    もしこの投稿を読まれていたら教えていただけるとありがたいです。

引用返信/返信 削除キー/
■36808 / inTopicNo.27)  Re[36]: 考察
□投稿者/ 時 -(2024/03/15(Fri) 16:25:51)
    > 事の発端は、(結果的に分かった)義足の女性Aに対して席を譲るように促したCです。自身の思いにより外界の状況を変えようとした行為です。

    後日、Aに席を譲るべく促したCにエピクテトスが遭遇したのならという想像でのお話です。

    Cよ、当人の考えた事、またその状況をきちんと識別しないうちに判断したこと、それが良いかどうかを君はどこから知るのかね?

    出来事が、君の望むように起こることを求めてはならないよ。
    むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    なぜならば、事は、起こるべき時に起こるべくして起こるのだから。

    そうすれば、君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。
引用返信/返信 削除キー/
■36794 / inTopicNo.28)  考察
□投稿者/ 時 -(2024/03/14(Thu) 11:30:05)
    物事には、自分次第でできることとできないことがあります。きっとエピクテトスは自由人の哲学という事で、それら両者を分けて判断することを説いていたのでしょうか。

    ここで前出のバスの中の人々について考察してみます。状況は以下の通りです。

    > Xでのポストで流れてきた動画で、バスの中で座っている若い女性の斜め後ろで老人が立っていました。その老人の後ろにいた人が座っている若い女性に対して「席を譲ってあげなさい」と言い、無言のまま若い女性が立ち上がって席を変わってあげましたが、女性の片足が義足でした。結果、その場の空気が何とも言えないものに包まれました。

    ・義足の女性をA。席を譲られた老人をB。席を譲るように促した人をC。周りの乗客をDとします。

    ここで自分自身でできることを判断し行為したのは、まずは席を譲るよう促したCです。それを受けて義足の女性Aが席を譲りました。それを受けてBが席に着こうとしました。

    自分の外界に対しては思い通りの結果は基本的には期待できませんので、それを期待して発言したCの判断ミスです。しかし、義足の女性Aは外界(Cの発言)をそのまま受け入れて席を立ちました。この時、周りの乗客であるDは傍観していますので、外界に対して何も反応していません(無反応という反応とも言えます)そしてBは、自身の外界である席が空いたという事で席に着こうとしました。この場合も自らが席に座りたかったかったのであれば、その判断に間違いはないでしょう。

    外界で起こるすべての事柄は、基本的に受け入れるしかありません。なぜならば、それらは自身の思いという自由意志でのコントロールが不可能だからです。唯一コントロールが可能とするの"ならば"、自身の内界である心の持ちようだと思います。

    ここで再考察です。

    事の発端は、(結果的に分かった)義足の女性Aに対して席を譲るように促したCです。自身の思いにより外界の状況を変えようとした行為です。

    次には、自身でコントロール不可能な外界の状況を受け入れるしかない事柄に従ったのが義足の女性Aです。従っただけで外界に対して何も指示命令していません。

    そして空いた席に着こうとした老人Bも、外界に対して何も指示命令せずに起こった事象に対して従っただけの行為です。

    言うまでもなく、周りの乗客であるDもただ外界の事象を客観視していただけですので、何も指示命令していません。

    ・エピクテトス的発想での結論。

    エピクテトスの教えが必要なのは、Aに対して席を譲るように促したCだけです。

    ・エピクテトス的発想での理想形。

    この状況下での理想形は、それに気が付いた場合、義足の女性Aが後ろのご老人 Bに対して何の見返りも求めずに席を譲ることでしょう。(周りの乗客Dも同じことが言えます)

    つまりは、自身の判断でのご老人に席を譲るという見返りを求めない瞬発的判断が善という事になるのでしょうか。(この場合、そんな年じゃない!と叱られても、見返りを求めていないのですから、これは失礼しました。の一言で、問題はありませんね。)

    もしもエピクテトスがA,B,C,Dだったならば・・・

    Aの場合、多分、それに気が付けば、Bに席を譲ろうとしたでしょう。
    Bの場合、何も言わずに立っていたでしょう。
    Cの場合、何も言わずに傍観していたでしょう。
    Dの場合、同じく、何も言わずに傍観していたでしょう。

    akaimiさんとの対話においての時の疎い考察ですので、ご返信は不要です。
引用返信/返信 削除キー/
■36792 / inTopicNo.29)  Re[34]: エピクテトス
□投稿者/ akaimi -(2024/03/14(Thu) 08:38:01)
    2024/03/14(Thu) 08:39:47 編集(投稿者)

    時さん、レスありがとうございます。

    No36789に返信(時さんの記事)


    > もしかすると、、ごくごくシンプルな教えのような気がします。
    >
    > 基本的に人には夫々で漠然とした善悪の判断基準があると思いますが、それをもって外界の事象に対して一方的に事の善悪を決めつけ、押し付けてはならない。その個人の善悪という価値判断基準を押し付けることはせずに、まずは事実のみで語りなさい。という事だと理解しました。

    はい。その通りだと思います。
    それから、「当人の考えをきちんと識別する」をしての判断の大切さ、を解いているようですね。

    > Xでのポストで流れてきた動画で、バスの中で座っている若い女性の斜め後ろで老人が立っていました。その老人の後ろにいた人が座っている若い女性に対して「席を譲ってあげなさい」と言い、無言のまま若い女性が立ち上がって席を変わってあげましたが、女性の片足が義足でした。結果、その場の空気が何とも言えないものに包まれました。
    >
    > 多分、このような事でしょうか。一見すると、バスで若者が座っており、老人が立っているので若者が老人に対して席を譲るべきだという価値基準のみを押し付けた結果、その女性は義足だったという事で気まずいことになってしまったと。義足ならば確認すれば分かるかもしれませんが、その状況(表面)だけを見て、自身の価値判断基準でそれを押し付けてはならないという事でしょう。

    私はその動画を見ていないので、状況の詳細について知る由はないのですけれど、席を譲るように言われ立ち上がった女性の気持ちを想像すると辛いですね。
    それから、高齢者に席を譲るようにと言われた方がどのような心境から女性に伝えたのかも気になります。

    > 仮に、このシーンにエピクテトスが遭遇したとするならば、、どのような行動に出るのか?出ないのか?そこのところを知りたかったのですね。エピクテトスが老人の場合、若い女性の場合、後ろから声をかけた人の場合、それらを客観視している人の場合です。つまりはエピクテトスが自身の善悪の行為に至る場合の判断基準です。

    ううん。。それは難しいですね。
    エピクテトスならどうしたでしょうか。


    > しかし、同じバスの中で座っている若者が、立ってる老人に対して席を譲ろうとした結果「ご親切にありがとう」と快く座る方がいる反面「私はそんな年じゃない!」と逆に親切心が踏みにじられるケースもあります。
    >
    > いずれにしましても瞬発的に沸き起こる親切心での行動では、お相手の心情まではくみ取れないように思いますね。
    >
    > 思考の結果としての行為に至る判断基準は、簡単ではなさそうです。

    そうですね。瞬間的な判断基準は難しいというか、どういう結果になるかはそれこそ時と場合により違いますね。
    ただ思うのは、バスで席を譲ったら「そんな年寄りじゃない!」と怒られてしまう若者がいたなら、そうしたことも人生の一つの経験かなと。
    様々な経験を通して経験値が上がっていく、というのは人生もゲームも同じかもしれません。
    それに従い、判断も円滑なものになっていく可能性があると思います。

    ===
    出来事が、君の望むように起こることを求めてはならない。
    むしろ、出来事が起こるように起こることを望みたまえ。
    そうすれば君は穏やかで幸福な生活を送れるだろう。

    (『提要』8)
    ===
    『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p61より引用

    この言葉なども、聞く時の状況次第では反感をおぼえてしまいそうな厳しい言葉だとは思うのですが、こうしたことも言っていたのだなと感慨深いような気がします。


    > ご返信をありがとうございました。


    こちらこそありがとうございました_(._.)_
引用返信/返信 削除キー/
■36789 / inTopicNo.30)  Re[33]: エピクテトス
□投稿者/ 時 -(2024/03/13(Wed) 16:41:31)
    akaimiさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No36787に返信(akaimiさんの記事)

    >>著書にそれらしき答えは書かれているのでしょうか?もしもあるのであれば、教えていただければと思います。もしも書かれていないのであれば、akaimiさんのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。m(__)m

    > 昨日私が本から引用させていただいた短い文章は、エピクテトスの教え子がまとめた『提要』45の一部分でした。
    > 今日はまずその全文を引用してみますね。

    ありがとうございます。お手数をおかけしてすみません。

    > ===
    > ある人が素早く入浴する。「彼は入浴の仕方が悪い」とは言うな。
    > 「素早く入浴する」と言いなさい。
    > ある人がたくさん酒を飲む。「彼は飲酒の仕方が悪い」とは言うな。
    > 「たくさん酒を飲む」とだけ言いなさい。
    > というのも、当人の考えをきちんと識別しないうちに、それが本当に悪いかどうかを君はどこから知るのかね。
    > そのように慎重になれば、君がある事実について把握可能な心像を掴んでいながら、それとは別の事柄【価値】について同意を与える、などというおかしなことにはならないだろう。

    > (『提要』45)

    > ===
    > 『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p145より引用

    > p147に解説があります。
    > ===
    > 行為者本人が何を意図していたか、動機や目的が決定的に重要である。
    > そうだとすれば、我々は他人の行動の表面だけを見て、その意図を正確に見抜くことなしに軽々と行為の善悪を判断するわけにはいかない。
    > ===同書p147より引用

    > ===
    > 事実を把握するところで立ち止まれ。そこから先の、善悪の価値判断を下すには慎重であれ、と。

    >>師よ、師の仰ることは間違いではないと考えますが、師が私に尋ねられた「本当に悪いかどうか」は、私は何を基準にして判断すれば良いのでしょうか?
    > というご質問ですね。

    はい。その通りです。個人の中での善悪の判断基準の事です。

    > 同書に載っている『提要』の言葉の中に、「物事の判断の基準」としてエピクテトスが、「このように判断しなさい」というような「エピクテトスが勧める一つの基準」を説いていると思われる箇所は無いように私には思えます。
    > 『提要』には、この本に収められている言葉以外にもエピクテトスの言葉が収められているようなので、もしかしたらふれられている言葉もあるかもしれないですが、現状ではわかりません。

    ありがとうございます。了解しました。

    > 今、引用した『提要』45の文章と解説から読み取れるのは、
    > 「事実を把握するところで立ち止まり、善悪の価値判断には慎重であるべき」ということだと思います。

    > もちろん最終的には自分の判断ということにはなりますが、表面だけを見ずに慎重に判断することの大切さを説いていると私は捉えています。

    > 私自身、共感できる言葉だなぁ、と感じてます。
    > 例えば、一見乱暴でとっつきにくい言動をする人でも本当は優しい人な場合もあったりしますし。
    > 価値判断への慎重さというのは他者への寛容とも関わってくると思いますから心がけたいです。

    もしかすると、、ごくごくシンプルな教えのような気がします。

    基本的に人には夫々で漠然とした善悪の判断基準があると思いますが、それをもって外界の事象に対して一方的に事の善悪を決めつけ、押し付けてはならない。その個人の善悪という価値判断基準を押し付けることはせずに、まずは事実のみで語りなさい。という事だと理解しました。

    Xでのポストで流れてきた動画で、バスの中で座っている若い女性の斜め後ろで老人が立っていました。その老人の後ろにいた人が座っている若い女性に対して「席を譲ってあげなさい」と言い、無言のまま若い女性が立ち上がって席を変わってあげましたが、女性の片足が義足でした。結果、その場の空気が何とも言えないものに包まれました。

    多分、このような事でしょうか。一見すると、バスで若者が座っており、老人が立っているので若者が老人に対して席を譲るべきだという価値基準のみを押し付けた結果、その女性は義足だったという事で気まずいことになってしまったと。義足ならば確認すれば分かるかもしれませんが、その状況(表面)だけを見て、自身の価値判断基準でそれを押し付けてはならないという事でしょう。

    仮に、このシーンにエピクテトスが遭遇したとするならば、、どのような行動に出るのか?出ないのか?そこのところを知りたかったのですね。エピクテトスが老人の場合、若い女性の場合、後ろから声をかけた人の場合、それらを客観視している人の場合です。つまりはエピクテトスが自身の善悪の行為に至る場合の判断基準です。

    しかし、同じバスの中で座っている若者が、立ってる老人に対して席を譲ろうとした結果「ご親切にありがとう」と快く座る方がいる反面「私はそんな年じゃない!」と逆に親切心が踏みにじられるケースもあります。

    いずれにしましても瞬発的に沸き起こる親切心での行動では、お相手の心情まではくみ取れないように思いますね。

    思考の結果としての行為に至る判断基準は、簡単ではなさそうです。

    ご返信をありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■36787 / inTopicNo.31)  Re[32]: エピクテトス
□投稿者/ akaimi -(2024/03/13(Wed) 12:14:45)
    時さん、こんにちは。
    レスありがとうございます。
    春の長雨とでもいうのでしょうか、昨日はよく雨が降りました。
    桜や春の花々、草木にとっても人間にとっても潤いの雨でした。

    No36781に返信(時さんの記事)
    > 2024/03/12(Tue) 12:47:29 編集(投稿者)
    > 2024/03/12(Tue) 12:47:19 編集(投稿者)
    > 2024/03/12(Tue) 12:16:02 編集(投稿者)

    > 仮に、エピクテトスを師とし、時が弟子と仮定したお話としてお尋ねします。
    >
    > 師よ、師の仰ることは間違いではないと考えますが、師が私に尋ねられた「本当に悪いかどうか」は、私は何を基準にして判断すれば良いのでしょうか?
    >
    > なぜならば、師の仰ることを理解するのであれば、まずは標準装備としての私の中での判断基準があった上で、お相手の考えの理解とその後の善悪の識別があると考えるからです。
    >
    > 著書にそれらしき答えは書かれているのでしょうか?もしもあるのであれば、教えていただければと思います。もしも書かれていないのであれば、akaimiさんのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。m(__)m

    昨日私が本から引用させていただいた短い文章は、エピクテトスの教え子がまとめた『提要』45の一部分でした。
    今日はまずその全文を引用してみますね。

    ===
    ある人が素早く入浴する。「彼は入浴の仕方が悪い」とは言うな。
    「素早く入浴する」と言いなさい。
    ある人がたくさん酒を飲む。「彼は飲酒の仕方が悪い」とは言うな。
    「たくさん酒を飲む」とだけ言いなさい。
    というのも、当人の考えをきちんと識別しないうちに、それが本当に悪いかどうかを君はどこから知るのかね。
    そのように慎重になれば、君がある事実について把握可能な心像を掴んでいながら、それとは別の事柄【価値】について同意を与える、などというおかしなことにはならないだろう。

    (『提要』45)

    ===
    『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p145より引用

    p147に解説があります。
    ===
    行為者本人が何を意図していたか、動機や目的が決定的に重要である。
    そうだとすれば、我々は他人の行動の表面だけを見て、その意図を正確に見抜くことなしに軽々と行為の善悪を判断するわけにはいかない。
    ===同書p147より引用

    ===
    事実を把握するところで立ち止まれ。そこから先の、善悪の価値判断を下すには慎重であれ、と。
    ===同書p148より引用

    > 師よ、師の仰ることは間違いではないと考えますが、師が私に尋ねられた「本当に悪いかどうか」は、私は何を基準にして判断すれば良いのでしょうか?
    というご質問ですね。

    同書に載っている『提要』の言葉の中に、「物事の判断の基準」としてエピクテトスが、「このように判断しなさい」というような「エピクテトスが勧める一つの基準」を説いていると思われる箇所は無いように私には思えます。
    『提要』には、この本に収められている言葉以外にもエピクテトスの言葉が収められているようなので、もしかしたらふれられている言葉もあるかもしれないですが、現状ではわかりません。

    今、引用した『提要』45の文章と解説から読み取れるのは、
    「事実を把握するところで立ち止まり、善悪の価値判断には慎重であるべき」ということだと思います。

    もちろん最終的には自分の判断ということにはなりますが、表面だけを見ずに慎重に判断することの大切さを説いていると私は捉えています。

    私自身、共感できる言葉だなぁ、と感じてます。
    例えば、一見乱暴でとっつきにくい言動をする人でも本当は優しい人な場合もあったりしますし。
    価値判断への慎重さというのは他者への寛容とも関わってくると思いますから心がけたいです。





引用返信/返信 削除キー/
■36781 / inTopicNo.32)  Re[31]: エピクテトス
□投稿者/ 時 -(2024/03/12(Tue) 11:08:55)
    2024/03/12(Tue) 12:47:29 編集(投稿者)
    2024/03/12(Tue) 12:47:19 編集(投稿者)
    2024/03/12(Tue) 12:16:02 編集(投稿者)

    akaimiさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No36780に返信(akaimiさんの記事)

    > 何種類もの経典に関連するものが出ているのですね。
    > 教えていただいてありがとうございます。
    > 私は読んだことはありません。
    > 四種類の在り方については、昨日載せていただいているものと同じように現代語になっているものを、以前にネット上のどこかで見た記憶があってそれを憶えていたのかもしれません。

    了解しました。^^ "普通は"、読みませんよね(笑)

    > 当人の考えをきちんと識別しないうちに、それが本当に悪いかどうかを君はどこから知るのかね。

    仮に、エピクテトスを師とし、時が弟子と仮定したお話としてお尋ねします。

    師よ、師の仰ることは間違いではないと考えますが、師が私に尋ねられた「本当に悪いかどうか」は、私は何を基準にして判断すれば良いのでしょうか?

    なぜならば、師の仰ることを理解するのであれば、まずは標準装備としての私の中での判断基準があった上で、お相手の考えの理解とその後の善悪の識別があると考えるからです。

    著書にそれらしき答えは書かれているのでしょうか?もしもあるのであれば、教えていただければと思います。もしも書かれていないのであれば、akaimiさんのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。m(__)m

    > なぜそうなっているのか、そういうことを言ったのか、そこへの理解なしに自分なりの判断で決めてしまう、しまわれる、というのもありがちなことですよね。

    はい。そうですね。お相手が何を言っているのか?を理解できないままに、自ら妄想にとらわれないように気を付けるというのは、まずは、対話においての基本的な自身でできる最大限の事でしょうか。その為には、双方の誤解の回避の為に、分からないところを質問し、確認のために問いかけるという事が必要な場合がありますね。答える場合にも同じことで、相互理解を求めるのならば真摯に答える。という事だろうと思います。

    > 時と場合で難しいこともあるけれど、相手の話をよく聞き、またこちらの意図も上手く伝える努力をすると互いに誤解や嫌悪を抱かない話し合いがしやすいのだろうと思います。
    > そうは言ってもそれが簡単ではない、という経験が私にはたくさんあります。

    簡単ではないどころか、私の経験では、それは~ほぼ~不可能なんですね。勿論、それが可能な場合もありはしますが。多分ですが、、akaimiさんも、そういう経験が多くおありという事ですので、、ほぼ不可能なのではないだろうかという答えに行きついているのではないでしょうか。

    こちらの掲示板での少ない機会での会話ですが、私がakaimiさんとお話していて感じるのは、何の違和感もなく、聡明な方なのだろうなという事です。こちらが問いかけたことについて真摯に返答をいただける。それだけでも私にとっては十分にお話が通じ、誤魔化しのない方だろうと感じていますが。

    余談ですが、人それぞれが観ている、生きている世界は、皆違う世界なのではないかな?と過去によく考えたことがありました。なぜならば、一つの事象についても、各人によって事の善悪・美醜・好き嫌い等々が違ってくるからですね。男性には男性の、女性には女性の、子供には子供の、大人には大人の、会社員には会社員の、自営業者には自営業者の、部長には部長の、新入社員には新入社員のと言った具合にです。つまりは、、各人での共通した物事への判断基準はないのではないでしょうか。

    例えば、人は命を賭しても守るべきものがある。という事で戦争をはじめ、命よりも尊いものはない。という事で戦争を終わらせたりします。

    私の人生哲学で、長年その答えが出なかった事なのですが、では何を基準にすればよいのか?ですが、、自身の世界観での自身の善悪での判断で良いと私はなりました。

    そこで冒頭の、師よ、師の仰ることは間違いではないと考えますが、師が私に尋ねられた「本当に悪いかどうか」は、私は何を基準にしてどのように判断すれば良いのでしょうか?

    akaimiさんは、どのようにお考えになられるでしょうか?
引用返信/返信 削除キー/
■36780 / inTopicNo.33)  Re[30]: エピクテトス
□投稿者/ akaimi -(2024/03/12(Tue) 08:38:21)
    2024/03/12(Tue) 09:05:02 編集(投稿者)

    時さん、おはようございます。
    レスありがとうございます。

    No36779に返信(時さんの記事)

    > >>・自ら悩み苦しむ者。
    > >>・他者を悩まし苦しめる者。
    > >>・自ら悩み苦しみ、他者を悩まし苦しめる者。
    > >>・自ら悩まず苦しまず、他者を悩まさず苦しめない者。
    >
    > >>あなたは、上記のどの人が良いですか?というものも他経典にあります。

    >>なんという経典ですか?
    >>よかったら教えてください。_(._.)_
    >
    > ・中部51経「カンダラカ経」・中部60経「無戯論経」・中部94経「ゴータムカ経」・長部33経「合誦経」・増支部4-198「自苦行経」あたりでしょうか。どれかご覧になられたことありますでしょうか?

    何種類もの経典に関連するものが出ているのですね。
    教えていただいてありがとうございます。
    私は読んだことはありません。
    四種類の在り方については、昨日載せていただいているものと同じように現代語になっているものを、以前にネット上のどこかで見た記憶があってそれを憶えていたのかもしれません。

    > >>・自ら悩まず苦しまず、他者を悩まさず苦しめない者。
    >
    >>四番目のこちらが理想の在り方を示しているのだろうと思うのですが、合ってますでしょうか?
    >
    > はい。正解です。^^

    ありがとうございます。_(._.)_


    > そうですね。事実は事実として受け止め心を乱さないようにする。というのはその通りだと思います。ですが、、事実を事実としてという思い、私自身の中で認識している事実とお相手の中で認識している事実とのギャップを感じることが過去によくありました。まぁ、大抵はお相手の妄想からくる言動により、引っ込みがつかなくなってのギャップだと思いますが。それで一応の表面上の解決を見たとしても、なぜか不思議だったのですが、後で妬まれたり恨まれたりと・・ありました。
    >
    > 何かトラブルになっての事実確認を双方でできるのであれば、そしてそれを冷静に認識できるようなお相手ならば解決しやすくなるとは思うのですが、、最初から怒りをぶつけてくるような方、妄想を事実だと言い張るような方は、冷静な眼や耳の持ち主ではないと私は判断しますかね。そして、冷静な心の眼や耳を持つ方同志ならば、最初からトラブルにはなりえないように思います。
    >
    > 以前、少しお話しました医者も、いきなり顔を赤らめて、なんなんですか!でしたから、彼は何か妄想(事実ではないこと)を見ていたのだろうと思います。素人の患者の単なる質問に対して声を荒げてしまった副院長という立場の人間に、冷静な私の声が届くとは思えませんでしたしね。
    >
    > この場合の”事実”とは、質問したらお相手が怒りをぶつけてきた。です。
    >
    > ですので、相手を非難するという意図等は全くなく 「あなたの言葉は、あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。」 です。
    >
    > 一応このようなことが、私が学んだことの実践・応用なのですね。


    体験談としてのお話をありがとうございます。


    ===
    当人の考えをきちんと識別しないうちに、それが本当に悪いかどうかを君はどこから知るのかね。
    (『提要』45)
    ===
    『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p144より引用

    なぜそうなっているのか、そういうことを言ったのか、そこへの理解なしに自分なりの判断で決めてしまう、しまわれる、というのもありがちなことですよね。
    時と場合で難しいこともあるけれど、相手の話をよく聞き、またこちらの意図も上手く伝える努力をすると互いに誤解や嫌悪を抱かない話し合いがしやすいのだろうと思います。
    そうは言ってもそれが簡単ではない、という経験が私にはたくさんあります。
    なんでもない時に思いすぎて自分を追い詰めてもしかたないですので、いざという時にこそそれができればと。
引用返信/返信 削除キー/
■36779 / inTopicNo.34)  Re[29]: エピクテトス
□投稿者/ 時 -(2024/03/11(Mon) 23:04:28)
    akaimiさんへ。こんばんは。返信をありがとうございます。

    No36778に返信(akaimiさんの記事)

    >>・自ら悩み苦しむ者。
    >>・他者を悩まし苦しめる者。
    >>・自ら悩み苦しみ、他者を悩まし苦しめる者。
    >>・自ら悩まず苦しまず、他者を悩まさず苦しめない者。

    >>あなたは、上記のどの人が良いですか?というものも他経典にあります。

    > ええと。。どこかで見聞きしたような気はするんですが、そんな気がするだけかな。。
    > なんという経典ですか?
    > よかったら教えてください。_(._.)_

    ・中部51経「カンダラカ経」・中部60経「無戯論経」・中部94経「ゴータムカ経」・長部33経「合誦経」・増支部4-198「自苦行経」あたりでしょうか。どれかご覧になられたことありますでしょうか?

    >>・自ら悩まず苦しまず、他者を悩まさず苦しめない者。

    > 四番目のこちらが理想の在り方を示しているのだろうと思うのですが、合ってますでしょうか?

    はい。正解です。^^

    > この四番目に書かれている内容と共通性を感じる言葉がエピクテトスにもあるんです。
    > 引用してみますね。

    > 自分自身が不幸な場合に、そのことの原因となった他人を非難することは、無教養な者のすることである。
    > 自分自身を非難するのは教養の初心者のすることである。
    > 他人をも自分をも非難しないのが教養のできた者のすることである。

    > 『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p165より引用

    > この言葉の解説として、

    > いったん感情は脇において、事実は事実として受け止め一喜一憂しない。
    > その境地に至るための第一歩として「他人をも自分をも非難しない」というエピクテトスの助言を活かしたい。
    > ===p167より引用
    > とあります。

    引用をありがとうございます。m(__)m

    > 恨み、憎しみ、悲しみといった感情に支配され、相手や自分を感情的に非難したり責めたりするのではなく、事実は事実として受け止め心を乱さないようにする。
    > そうした大切さを説いている言葉なのだと思います。
    > また、そうすることで実際に問題解決がしやすくなる、速まるというのも十分あるように思います。

    そうですね。事実は事実として受け止め心を乱さないようにする。というのはその通りだと思います。ですが、、事実を事実としてという思い、私自身の中で認識している事実とお相手の中で認識している事実とのギャップを感じることが過去によくありました。まぁ、大抵はお相手の妄想からくる言動により、引っ込みがつかなくなってのギャップだと思いますが。それで一応の表面上の解決を見たとしても、なぜか不思議だったのですが、後で妬まれたり恨まれたりと・・ありました。

    何かトラブルになっての事実確認を双方でできるのであれば、そしてそれを冷静に認識できるようなお相手ならば解決しやすくなるとは思うのですが、、最初から怒りをぶつけてくるような方、妄想を事実だと言い張るような方は、冷静な眼や耳の持ち主ではないと私は判断しますかね。そして、冷静な心の眼や耳を持つ方同志ならば、最初からトラブルにはなりえないように思います。

    以前、少しお話しました医者も、いきなり顔を赤らめて、なんなんですか!でしたから、彼は何か妄想(事実ではないこと)を見ていたのだろうと思います。素人の患者の単なる質問に対して声を荒げてしまった副院長という立場の人間に、冷静な私の声が届くとは思えませんでしたしね。

    この場合の”事実”とは、質問したらお相手が怒りをぶつけてきた。です。

    ですので、相手を非難するという意図等は全くなく 「あなたの言葉は、あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。」 です。

    一応このようなことが、私が学んだことの実践・応用なのですね。
引用返信/返信 削除キー/
■36778 / inTopicNo.35)  Re[28]: エピクテトス
□投稿者/ akaimi -(2024/03/11(Mon) 20:42:31)
    2024/03/11(Mon) 20:48:32 編集(投稿者)

    No36771に返信(時さんの記事)
    > akaimiさんへ。こんにちは。

    時さん、こんばんは! 投稿ありがとうございます。

    > ■No36736に返信(akaimiさんの記事)
    >
    >>もし罵る者に罵りを、怒る者に怒りを、言い争う者に言い争いを返したならば、その人は相手からの食事を受け取り、同じものを食べたことになる。
    >>わたしはあなたが差し出すものを受け取らない。
    >>あなたの言葉は、あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。
    >
    > この続きで、怒りに対して怒りで還さない人への一般的な見え方が書かれているようです。
    >
    > ・しかし自身と相手方双方の治療者の事を、法を知らない人々は「愚者」だと考える。と。
    >
    > 実際に私も過去、このようなことを経験していますが、互いの見解の主張の仕合から口論となり、やがては怒りに任せて・・喧嘩別れなどという事はよくありそうです。しかしこの段階で現代でいうところのスルースキル、そのお相手との同じ土俵に上がらないという事がもしも自然に日常的にできたとしたら、自らは悩まず苦しみませんね。
    >
    > しかしこの情景を見ていた周りの人々は、この法を知りませんので、言い返さない人(悩まず苦しんでいない人)に対して、言い返せない(返さない)ので愚か者と考えます。という事だと思いますが、当然、これもナチュラルにスルーです。(笑)

    怒りをぶつけてくる人に対して言い返さない人というのは、ブッダの教えを知らない人にとっては愚者に見える、というのが、私が引用したものに続いているのですね。
    教えていただいてありがとうございます。


    > ・自ら悩み苦しむ者。
    > ・他者を悩まし苦しめる者。
    > ・自ら悩み苦しみ、他者を悩まし苦しめる者。
    > ・自ら悩まず苦しまず、他者を悩まさず苦しめない者。
    >
    > あなたは、上記のどの人が良いですか?というものも他経典にあります。

    ええと。。どこかで見聞きしたような気はするんですが、そんな気がするだけかな。。
    なんという経典ですか?
    よかったら教えてください。_(._.)_

    > ・自ら悩まず苦しまず、他者を悩まさず苦しめない者。

    四番目のこちらが理想の在り方を示しているのだろうと思うのですが、合ってますでしょうか?

    この四番目に書かれている内容と共通性を感じる言葉がエピクテトスにもあるんです。
    引用してみますね。

    ===
    自分自身が不幸な場合に、そのことの原因となった他人を非難することは、無教養な者のすることである。
    自分自身を非難するのは教養の初心者のすることである。
    他人をも自分をも非難しないのが教養のできた者のすることである。
    ===
    『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p165より引用

    この言葉の解説として、

    ===
    いったん感情は脇において、事実は事実として受け止め一喜一憂しない。
    その境地に至るための第一歩として「他人をも自分をも非難しない」というエピクテトスの助言を活かしたい。
    ===p167より引用

    とあります。

    恨み、憎しみ、悲しみといった感情に支配され、相手や自分を感情的に非難したり責めたりするのではなく、事実は事実として受け止め心を乱さないようにする。
    そうした大切さを説いている言葉なのだと思います。
    また、そうすることで実際に問題解決がしやすくなる、速まるというのも十分あるように思います。

引用返信/返信 削除キー/
■36771 / inTopicNo.36)  Re[27]: エピクテトス
□投稿者/ 時 -(2024/03/11(Mon) 11:55:56)
    akaimiさんへ。こんにちは。

    No36736に返信(akaimiさんの記事)

    > もし罵る者に罵りを、怒る者に怒りを、言い争う者に言い争いを返したならば、その人は相手からの食事を受け取り、同じものを食べたことになる。
    > わたしはあなたが差し出すものを受け取らない。
    > あなたの言葉は、あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。

    この続きで、怒りに対して怒りで還さない人への一般的な見え方が書かれているようです。

    ・しかし自身と相手方双方の治療者の事を、法を知らない人々は「愚者」だと考える。と。

    実際に私も過去、このようなことを経験していますが、互いの見解の主張の仕合から口論となり、やがては怒りに任せて・・喧嘩別れなどという事はよくありそうです。しかしこの段階で現代でいうところのスルースキル、そのお相手との同じ土俵に上がらないという事がもしも自然に日常的にできたとしたら、自らは悩まず苦しみませんね。

    しかしこの情景を見ていた周りの人々は、この法を知りませんので、言い返さない人(悩まず苦しんでいない人)に対して、言い返せない(返さない)ので愚か者と考えます。という事だと思いますが、当然、これもナチュラルにスルーです。(笑)

    ・自ら悩み苦しむ者。
    ・他者を悩まし苦しめる者。
    ・自ら悩み苦しみ、他者を悩まし苦しめる者。
    ・自ら悩まず苦しまず、他者を悩まさず苦しめない者。

    あなたは、上記のどの人が良いですか?というものも他経典にあります。

    しかし、怒り(瞋恚)の根絶も簡単ではないようです。なぜならば、随眠する怒りが突如として瞬間的に現出してしまうからです。これをも根絶するには、その根を根こそぎ根絶やしにするしかありません。それが、四禅定といわれる瞑想の実践です。教えを頭でわかっているだけでは足りないという事だと思います。

    やや話題からそれたと思いますので、スルーという事でお願いします。

    > この他にも似ていると思う言葉があります。
    > また次回、両者を共に引用してみます。

    楽しみにしています^^
引用返信/返信 削除キー/

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