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Re[33]: エピクテトス
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□投稿者/ 時 -(2024/03/13(Wed) 16:41:31)
| akaimiさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。
■No36787に返信(akaimiさんの記事)
>>著書にそれらしき答えは書かれているのでしょうか?もしもあるのであれば、教えていただければと思います。もしも書かれていないのであれば、akaimiさんのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。m(__)m
> 昨日私が本から引用させていただいた短い文章は、エピクテトスの教え子がまとめた『提要』45の一部分でした。 > 今日はまずその全文を引用してみますね。
ありがとうございます。お手数をおかけしてすみません。
> === > ある人が素早く入浴する。「彼は入浴の仕方が悪い」とは言うな。 > 「素早く入浴する」と言いなさい。 > ある人がたくさん酒を飲む。「彼は飲酒の仕方が悪い」とは言うな。 > 「たくさん酒を飲む」とだけ言いなさい。 > というのも、当人の考えをきちんと識別しないうちに、それが本当に悪いかどうかを君はどこから知るのかね。 > そのように慎重になれば、君がある事実について把握可能な心像を掴んでいながら、それとは別の事柄【価値】について同意を与える、などというおかしなことにはならないだろう。
> (『提要』45)
> === > 『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』荻野弘之 著 p145より引用
> p147に解説があります。 > === > 行為者本人が何を意図していたか、動機や目的が決定的に重要である。 > そうだとすれば、我々は他人の行動の表面だけを見て、その意図を正確に見抜くことなしに軽々と行為の善悪を判断するわけにはいかない。 > ===同書p147より引用
> === > 事実を把握するところで立ち止まれ。そこから先の、善悪の価値判断を下すには慎重であれ、と。
>>師よ、師の仰ることは間違いではないと考えますが、師が私に尋ねられた「本当に悪いかどうか」は、私は何を基準にして判断すれば良いのでしょうか? > というご質問ですね。
はい。その通りです。個人の中での善悪の判断基準の事です。
> 同書に載っている『提要』の言葉の中に、「物事の判断の基準」としてエピクテトスが、「このように判断しなさい」というような「エピクテトスが勧める一つの基準」を説いていると思われる箇所は無いように私には思えます。 > 『提要』には、この本に収められている言葉以外にもエピクテトスの言葉が収められているようなので、もしかしたらふれられている言葉もあるかもしれないですが、現状ではわかりません。
ありがとうございます。了解しました。
> 今、引用した『提要』45の文章と解説から読み取れるのは、 > 「事実を把握するところで立ち止まり、善悪の価値判断には慎重であるべき」ということだと思います。
> もちろん最終的には自分の判断ということにはなりますが、表面だけを見ずに慎重に判断することの大切さを説いていると私は捉えています。
> 私自身、共感できる言葉だなぁ、と感じてます。 > 例えば、一見乱暴でとっつきにくい言動をする人でも本当は優しい人な場合もあったりしますし。 > 価値判断への慎重さというのは他者への寛容とも関わってくると思いますから心がけたいです。
もしかすると、、ごくごくシンプルな教えのような気がします。
基本的に人には夫々で漠然とした善悪の判断基準があると思いますが、それをもって外界の事象に対して一方的に事の善悪を決めつけ、押し付けてはならない。その個人の善悪という価値判断基準を押し付けることはせずに、まずは事実のみで語りなさい。という事だと理解しました。
Xでのポストで流れてきた動画で、バスの中で座っている若い女性の斜め後ろで老人が立っていました。その老人の後ろにいた人が座っている若い女性に対して「席を譲ってあげなさい」と言い、無言のまま若い女性が立ち上がって席を変わってあげましたが、女性の片足が義足でした。結果、その場の空気が何とも言えないものに包まれました。
多分、このような事でしょうか。一見すると、バスで若者が座っており、老人が立っているので若者が老人に対して席を譲るべきだという価値基準のみを押し付けた結果、その女性は義足だったという事で気まずいことになってしまったと。義足ならば確認すれば分かるかもしれませんが、その状況(表面)だけを見て、自身の価値判断基準でそれを押し付けてはならないという事でしょう。
仮に、このシーンにエピクテトスが遭遇したとするならば、、どのような行動に出るのか?出ないのか?そこのところを知りたかったのですね。エピクテトスが老人の場合、若い女性の場合、後ろから声をかけた人の場合、それらを客観視している人の場合です。つまりはエピクテトスが自身の善悪の行為に至る場合の判断基準です。
しかし、同じバスの中で座っている若者が、立ってる老人に対して席を譲ろうとした結果「ご親切にありがとう」と快く座る方がいる反面「私はそんな年じゃない!」と逆に親切心が踏みにじられるケースもあります。
いずれにしましても瞬発的に沸き起こる親切心での行動では、お相手の心情まではくみ取れないように思いますね。
思考の結果としての行為に至る判断基準は、簡単ではなさそうです。
ご返信をありがとうございました。
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