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■33011 / inTopicNo.1)  哲学全般、仏教、科学etc 14
  
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/11(Mon) 22:00:05)
    トピ主:パニチェ


    ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、比類なき先言の<私>など哲学全般

    初期仏教、中論、唯識、華厳、大乗仏教

    脳科学、進化論、物理(相対性理論、量子力学)、科学哲学などなど

    上記でなくても何でもどうぞ♪

引用返信/返信 削除キー/
■33098 / inTopicNo.2)  『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/17(Sun) 08:53:19)
    おはようございます、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No33095に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > いやいや、この本はパニチェさんに勧められたのではなく、最初、パニチェさんがどなたかとこの本について話しておられて、私が勝手に面白そうに感じ、読んでみたいと思ったのが最初なんです。
    > なので、全く気にしないでください。
    > それに、哲学的に深いところまでは議論されてなかったのは少し残念でしたが、
    > 面白くなかったわけではありません。

    ありがとうございます。そう言っていただけると助かります。^^

    > 目下、私とパニチェさんが話をしていることと同じようなことを言っているところがいくつかあって、面白いです。
    > たとえば、何で語り得ないのにお釈迦さんは語ったんかな?みたいな話で、いや、やっぱ語りたかったんじゃないか、みたいな軽い話しかなかったのは残念でしたが(笑)

    そうでしたか(笑)
    ザビビのふくろうさんも読まれたとのことで、私も再読するきっかけになるので有難いです。

    >> 「〈仏教3.0〉を哲学する」は私にとってもあまり刺激的な本ではなかったです。共感できたのは自己とか瞑想の主体の捉え方、つまり仏道のスタート地点である「発心する私」の考察が仏教では手ぬるい、あるいはスルーされているというようなところですね。あと〈私〉が真我である、または真我にかする可能性です。これは「〈仏教3.0〉を哲学する」だけではなく、以前に数年間レス交換をした密教の行者であるゴウさんとの議論から感じ取れたことでもあります。

    > これに関して知識がなくて、あくまで仮定して少し私見を述べます。
    > (1)アートマン=ミクロコスモス(私の世界)
    > (2)ブラフマン=マクロコスモス(全体としての世界)

    > だとすると、
    > マクロコスモス=ミクロコスモス⇔ブラフマン=アートマン
    > を示す図として解釈可能と思います。

    > しかし、図5は、
    > マクロコスモス≠ミクロコスモス
    > になるので、図5に描かれた〈私〉はアートマンにはならないのではないでしょうか。

    確かに!相変わらず鋭いですね。^^
    あとハッマ図がアドヴァイタ(梵我一如)になり、図5がアドヴァイタにはならないというのは、マッハ図があるがままの光景(実相)であるのに対して、図5は客体化され且つ形象化された架空の図であるためという解釈もあるのかな、と思いました。

    > それだけ、パニチェさんが永井の考えをよく理解しているということでしょう。
    > 永井をひたすら批判する立場からすると、そういう人に相手してもらえるのは大変ありがたいです^^

    こちらこそ充実したレス交換ができており、自分の考えを見直したりまとめたりするきっかけになっており感謝です。

    あと、永井氏の考えがそれなりに理解できるのは永井氏と同様に私も幼少の頃より意識の超難問(なんで自分は自分で隣の〇〇ちゃんではないんやろ?)を抱き探究していたからだと思います。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%A7%81%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B
    上記Wikipedia文中、真偽はともかく「渡辺が日本の全国の大学生を対象として調査した結果では、およそ10人に一人に近い高率で、この種の問いが発生していた」ってことですから、私はその一人だったってことだと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■33110 / inTopicNo.3)  Re[2]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ knowingitself -(2023/09/17(Sun) 14:26:05)
    横レス的な書き込み失礼します。もちろんスルーされてかまいません。

    「仏教3・0を哲学する」については、バージョンUの方で
    内山興正の自己漫画は背景にカント哲学があると永井氏の解説がありますね。
    ここは非常興味深いと思います。

    第四図がカテゴリー的な構成、現象のことなら、第五図は物自体となりますか?

    この自己漫画図がのっている「進みと安らい」は、内山興正が気に食わないとか、行き詰まったとか、再版させなかったいわくつきの書物のようで、一般的な仏教や禅をはみ出るような要素があるのではと論評されるようですね。ネルケ無方さんなんかは行き詰まりだと。永井氏は仏教を超えるところがあるからこの書を評価するという説ですね。

    山下良道さんは、自己漫画図に出会ったことが安泰寺を選んだ大きな動機だといっていますが、永井氏のこの説明をきくまては、背景にそこまでカント哲学があることに思い至らなかったようでもあります。ここはさすが哲学者の永井氏でしょう。
引用返信/返信 削除キー/
■33121 / inTopicNo.4)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/18(Mon) 00:52:01)
    パニチェさん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。
    なかなかまとまらなくて、時間がかかりました。
    結局、まとまらなくて、長大になってしまいました(笑)
    長すぎて、一回では投稿できないようなので、2回に分けます。

    □投稿者/ パニチェ -(2023/09/16(Sat) 08:40:59)
    2023/09/16(Sat) 09:39:28 編集(投稿者)

    >おはようございます、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。
    >返信遅くなりました。

    >> うーむ。
    >> 「時間差でもってわかる」ってのが、いまいちわかんないんですよね…。
    >> どうやってわかるのか?
    >> また、そもそもそれは〈私〉なのか?〈私〉だと言えるのか?

    >他の誰でもなく私が眠っていたことが分かるから〈私〉もあったのではないかってことなんですけど、「私がある」もしくは「私があった」ところに「〈私〉もあった」と考える方が辻褄は合います。
    >逆にザビビのふくろうさんは、睡眠や意識がなくなっていたのが自分であったと、どのような根拠でもって分かりますか?それとも「私はなかった」ので、「私が意識をなくしていたのは分からない」という感覚でしょうか?

    >> 例えば、夢遊病の人が夜、眠ったままの状態で徘徊し、目が覚めたときに全くその記憶がないとします。
    >> このとき、徘徊したのが〈私〉ってわかるのでしょうか?
    >> あるいは、ジギルとハイドのような多重人格の人が、主人格が意識を失って別人格にとってかわられているときに行った殺人を全く覚えていないとすると、どうでしょう?
    >> 意識が戻ったとき、別人格の自分も〈私わ〉とわかるんでしょうか?どうやって?

    >夢遊病や解離性同一障害を私は実体験してないので、これは想像ですが。。。
    >他者の〈私〉、(本来は他者の〈私〉なんてことはありえないんですが)を>私<と表記するとして、別人格の〈私〉は>私<なんでしょうね。
    >但し、解離性同一障害には治療への協力を惜しまない全人格を把握している内的自己救済者(Inner Self Helper)という人格もあるようで、別人格の〈私〉を他者の>私<と同一視していいのかはよく分かりません。
    >
    うーん、自分から話しを振っておいて何なんですけど、この問題難しいですよね(笑)
    そもそもは、パニチェさんの考えでは、〈私〉は知覚世界と独立の実在かどうかを確かめるためにした質問だったような気がするんだけど…。

    とりあえず、これがいいか悪いかは措いて、話を簡単にするために、ここでは〈私〉を〈意識としての自己〉と解釈・仮定し、「〈私〉の世界」を「私の意識世界」て考えますね。
    この〈私〉の世界を内側から把握する限り(つまり、マッハ図の視点)、〈私〉の存在しない世界などというものは想像し得ません(自分が意識を失っているマッハ図など描けない)。
    要は〈私〉は絶対の〈存在(有)〉であり、その非存在を思考する(語る)ことは論理的に不可能であり、無意味。
    しかし、世界内存在者としての「私」がいなくなった世界は普通に想像可能です(自分が死んだ後の未来世界の想像とか)。
    同様に、私の意識世界の外側の視点に立って私を対象化し、その「「私」が眠っている世界」「「私」が眠ったまま夜の街を徘徊している」というのは想像可能です。
    そうすると、その想像された絵(「私」が眠っている心象)自体は〈私〉の表象であるが、描かれた絵の中には、「私」は存在しても、〈私〉は存在しない、と言うべきだと思うんですね。
    そうすると、やはり「眠っていた「私」は〈私〉ではない」ってことになるように思います。
    もし、パニチェさんが、この「私」も〈私〉だと考えるのであれば、私との見解の相違ということになりますが、どうでしょうかね。

    しかし、今、意識に立ち現われている過去に見た情景(記憶表象)というのは、〈私〉の情景であると思います(例えば、No32907で述べた夕日の情景など)。

    ということで、この問題は、このあたりにしておきましょうか?大変だし(笑)

    >> もう少し原理的に考えます。あ
    >> 〈私〉とは、ふくろうの理解では、絶対の「〈今〉,〈此処〉に,〈存在〉する」〈私〉であると思います(違っていたらご指摘ください)。

    >そうです、異論ありません。

    >> そしてこの〈私〉であれば、直知できるがゆえに不可疑な存在として確信できるのはわかりますが、覚醒した〈私〉にとって意識のない状態だった私は、過去存在であって既に直知対象ではありえず、したがってデカルト的懐疑をかけられたら疑惑を払拭することは不可能なのでは?と思います。
    >> 実際、多重人格者にとって、別人格の自分はむしろ他人なんじゃないかと思うんですけどね。

    >解離性同一障害については同意します。
    >確かに「〈私〉があったことが分かる」ってのは上記の定義からすれば矛盾してますね。
    >ただ「私があった」から「私が眠っていた」ことが分かるわけで、〈私〉はなかったが私だけがあったてのもしっくりきません。
    >私と〈私〉は不分離ですからね。
    >

    ただ、このへん、独我論を主張する場合は重要だと思います。
    特にパニチェさんのように、知覚世界の存在と〈私〉の実在というふうに分離する考え方の場合、「見るもの―見られるもの」という図5の枠組み(主観―客観図式)で捉えられていると考えられるので、「見られるもの(客観)」が失われたとき、見るもの(主観)である〈私〉は残るのか、というのは問題だと思うんですね。
    たとえば映画『マトリックス』のパニチェさんの説明(No32802)では、仮想世界と〈私〉は「存在のフィールドが異なる」と言い、「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に実在している」ともおっしゃっていたので、バーチャル世界(客観)が消滅しても〈私〉(主観)は消えないのかな、と思うんですが、どうですかね。
    この解釈では、たとえば瞑想で無念無想の境地になっても〈私〉だけは残るって感じにも思えるんですが、そういうイメージは違うかな?


    >> まあ、ショーペンハウアーは独我論者ではありませんしね。
    >> ですが、〈私〉はどうでしょう?
    >> 「そこから世界が開けてくる唯一の原点こそが、すなわち〈私〉だ」(『〈魂〉に対する態度』187頁)
    >> この〈私〉の規定も、誰にでもあてはまりますよね。
    >> この規定が永井均ただ一人に当てはまらねばならない必然性などありません。
    >> これは永井も認めていたと思いますが、それは偶然です。
    >> つまり、世界開闢の原点は誰でもありえるということです。

    >そうです。

    >> これは私の推測ですが、これについてもパニチェさんは肯定すると同時に、いわば言語化の限界として、一般化されてしまうがゆえで、本来語り得ぬものを語ることによる避けがたいズレである、と言われるかもしれません。

    >そうです。

    >> ですが、問題は、じゃあ、なぜ語り得ぬものを語るのか?ということです。
    >> 本来言語を超越しているもの――例えば神――を絵に描いたり像を作ることはまさに「偶像化」であり、『論考』でも「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」と言われています。
    >> そして「独我論が言おうとしていることは正しいが、それは語られ得ず、示されるだけである(T:5.62)」とも言われています。
    >> 独我論が言おうとしていること、すなわち「世界=私の世界(生)=私」ということは、語られ得ないのであるから、絵にも描けないわけです。
    >> そしてウィトゲンシュタイン自身は、
    >> 「T:5.62 世界が私の世界であることは、この言語(私だけが理解する言語)の限界が、私の世界の限界を意味することに示されている。」
    >> と述べています。
    >> であるにもかかわらず、なぜ、あえて、永井は絵を描こうとするのか?

    >禅宗で言うところの公案とか禅問答(禅宗の僧が悟りを開くためにおこなう問いと答えのやり取り)みたいなものですね。
    >〈私〉を理解している人には同類であることが分かるし、〈私〉について書かれた文章は自分事として読み替えることができます。
    >永井氏の〈私〉は読者からすれば、あくまでも>私<ですからね。
    >

    これ、私としては、少し違和感があるんです。
    というのも、昔の偉い禅僧の話なんかを読むと、永井に感じるような違和感はあまりないんですよ。
    何でかなと考えたら、たぶん、禅僧のいわゆる公案や禅問答は、明らかに矛盾したことやわけわからんことを言って、「語り得ない」ということを示しているように感じるからです。
    ところが、永井のは明らかに説明、語りですよね。
    ここが違うように思うんですよね
    (続く)

引用返信/返信 削除キー/
■33122 / inTopicNo.5)  Re[4]: パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/18(Mon) 01:01:08)
    >> この疑問についは、前回のレスで、パニチェさんは自分の考えをきちんと答えてくれました。
    >> これは非常に興味深い回答だったので、下であらためて取り上げたいと思います。

    >了解しました。

    >>>以下、まどろっこしい返信になりますが、自分なりに正確に返信させてもらうためにタラタラとカキコしてみます。
    >>>形象化というのを「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法と媒体によって明確な形として表現すること。(コトバンク:日本国語大辞典)」とするなら、完全同意ではないですが条件付きで同意できます。
    >>>まず図6つまりマッハ的光景の側面図なんてものはありえないです。
    >>>それは永井氏も理解はしているだろう、と、想像します。

    >> 上に述べたように、一応パニチェさんの意図は理解したと思います。
    >> 要は、語り得ぬものを語ってしまっているわけだから、真の独我論モデルではありえないことは、永井も承知の上だろうということですよね。
    >> しかし、問題は、永井が、『論考』の独我論は、こう理解されざるを得ない、としているところだと思います。
    >> つまり、あくまで『論考』の独我論の解釈としては、永井は図5を正しいモデルであると考えているということ。

    >そうですね。永井氏は独我論と〈私〉を前提とする独我論を「独在論」という表記で区別しています。何れにしても変質(頽落)してしまうのは同じなんですが。。。

    >>  「『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体としてのあり方においてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。少なくとも、そう読まれざるをえない。」(『ウィトゲンシュタイン入門』83頁)
    >> 図5としてモデル化された独我論が「一般的自我の独我論」ですよね。
    >> モデル化されたからこそ〈私〉は「一般的自我」にいわば頽落しちゃったということでしょ?

    >そうですね。

    >> でも、これ、明らかにおかしいでしょう。
    >> だって、永井の言う「一般的自我の独我論」になったのは、永井がウィトゲンシュタインの言葉に反して勝手に絵を描いた=モデル化したからですよね。
    >> 「少なくとも、そう読まれざるをえない。」などと断定してますが、それは読解力の問題にすぎません。と私は思います(笑)

    >なるほど。

    >> 「T:5.62 世界が私の世界であることは、この言語(私だけが理解する言語)の限界が、私の世界の限界を意味することに示されている。」
    >> ここで「示されている」と述べられている独我論を勝手にモデル化して解釈してしまったがゆえに、永井の言う「一般的自我の独我論」、いわゆる「語られた独我論」ってことになってしまっているわけです。
    >> つまり、本来『論考』が否定している独我論を、永井は『論考』の独我論であると主張しているってことです。というのが、私の見解です^^

    >その可能性には同意します。
    >私からすればウィトゲンシュタインに〈私〉の同類者と嗅ぎとれるのは『「個人的経験」および「感覚与件」について』や『哲学探究』からなんですね。
    >少なくとも写像理論を前提とした『論考』では嗅ぎとれない。おそらく永井氏も同じなんだと思います。
    >写像理論自体が語りえる、つまり一般化された言語考察ですよね?『論考』での「語りえないもの」とは写像としての言語の網の目をすり抜ける対象として捉えていたように(永井氏のウィトゲンシュタイン論を)私は解釈しています。
    >

    この点に関してですが、パニチェさんは、

    一般性(的)
    ⇒誰にでも当てはまる
    ⇒独我性消失=唯一性消失

    と捉えているように思います。
    だから、「写像理論自体が語り得る、つまり、一般化された言語考察ですよね?」
    と言い、写像理論が前提となる『論考』では、本当の独我性は抜け落ちている、と考えてらっしゃるように思います。
    まあ、当たっているかどうかは別として、前にも永井の根本的誤謬のひとつとして私が指摘した問題があるように思います。
    以下は、パニチェさんというより、永井の考えについて、述べます。

    「一般性」というとき、永井は区別していないけれども、絶対に区別すべきことがあります。これは『論考』の根本思想の一つです。
    それは「経験的一般性」と「形式的一般性」の区別です。
    もちろん、これは「語り得る一般性」と「示される一般性」に対応します。
    ちょっとまとめましょう。

     経験的(実質的)一般性:形式的一般性
    =アポステリオリな一般性:アプリオリな一般性
    =経験科学的一般性:数学的(論理学的)一般性
    =語り得る一般性(経験的検証):示される一般性(証明)

    言語研究は学問である限り、当然いろんなレベルでの言語の一般的真理の研究になるでしょうが、上の区別に応じて、大きく二つに分けられます。

    =経験科学としての言語研究(言語学):数学としての言語研究(論理学)

    言うまでもなく、これらの区別は「真理」にも当然適用されます。

    =経験的真理:論理的真理(数学的真理)

    経験科学としての言語研究(以後「言語学」)では、その文法や法則を発見するにせよ、それは帰納的に発見されるものです。
    それは物理学的法則と同様です。
    それに対して、論理学的に言語を研究する場合、それは現実の言語から離れ、それから独立に命題体系を構成します。
    そこにおける法則は、もっぱら演繹的に導かれるものです。
    これはユークリッド幾何学が一種のゲームと捉えることができ、定理が現実の図形についての事実を語るものではないこと、その意味で、チェスや将棋といったゲームの駒が現実のキングや王を意味するものでないこと、定石が現実について語るものではないのと類比されます。
    『論考』の写像理論も、現代的には数学基礎論におけるモデル理論に相応します。
    つまり、「写像理論」で考察される言語とは、現実の言語ではなく、あくまで数学的に構成される抽象的な言語体系のことのわけです。
    その言語を定義したのが T:6 です。
    なので、
    >写像理論自体が語りえる、つまり一般化された言語考察ですよね?

    については、写像理論は言語の論理学的考察であり、ゆえに語られる理論ではなく、示されるべき形式的一般理論である、というのが回答になります。

    で、ここで重要なことは、ユークリッド幾何学の公理系が唯一であるのと同じ意味で、写像言語=命題の体系は、唯一である、ということです。
    つまり、世界中でユークリッド幾何学は研究されていますが、その研究者それぞれのユークリッド幾何学があるわけではありませんよね。
    まったく同様な意味で、論理学が扱う命題体系は(本来)唯一ということです。

    主観についても同様のことが言えます。
    経験的な一般的主観と、形式的一般項としての主観では、全く存在論的意味が異なるのです。
    永井は、「一般的主観」というとき、経験的一般的主観として述べます。
    それは語られる「私」、客体化された「私」です。
    つまり、図5の〈私〉なのです。
    なので、「〈私〉の世界」は、誰にも当てはまるから、人物Aの「私の世界」、人物Bの「私の世界」、……、となって、いわばモナド的なミクロコスモスがマクロコスモスの中に多数存在してしまうわけです(『〈私〉の存在の比類なさ』55頁、図18参照)。

    それに対して、形式的一般項として主観を捉えるということは、あくまでマッハ図の形式として示されている《私》として捉えるということ。
    この視座から世界を捉えることは、前掲書、図6の視座に立って、世界内存在者であるA,B,C,……,もすべて「全一同一唯一の《私》」と捉えること。
    したがって同時に、人物Aの言語も、Bの言語も、…、それぞれの言語なのではなく、全一同一唯一の写像言語=《私》の言語である、と捉えることなのです。
    よって、人物Aの世界も、Bの世界も、…、それぞれの世界(ミクロコスモス)なのではなく、
    《私》の世界(ミクロコスモス)=全一同一唯一の世界(マクロコスモス)
    ということになります。


    > **********************


    >>>では、何故「図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている」と述べ、ウィトゲンシュタインの眼の図5を元にして永井氏の独在論として形象化したのか?
    >>>これは読者に〈私〉の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた図であるってことだと思います。


    >> 実情は、繰り返しますが、そのことによって『論考』の言う、『示される独我論』がすっかり隠蔽されてしまった、ということだと私は思います。

    >>>客体化した図に表すことができないのが〈私〉です。
    >>>「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法(ウィトゲンシュタインの独我論)と媒体(眼の図)によって明確な形として表現」したのではないか?
    >>>だから、本来は永井氏も「〈私〉はけっしてこのような形をしていない」というべき図5だと思います。
    >>>まあ、これは永井氏に確認してみないと分からないことですが。。。

    >> 上に二つのパラグラフとして挙げたパニチェさんの見解は、私にはきわめて興味深いものでした。
    >> というのは、これは、『ウィトゲンシュタイン入門』(71-73頁)に永井が取り上げた、いわゆる『キャロルのパラドックス』の話と、非常によく似た構造が見て取られ得ると思われたからです。
    >> 詳しい話は同書を参照していただくことにして省略しますが、
    >> この話の要旨をむちゃくちゃ乱暴にまとめると、アキレスが、カメに推論が本当に正しいということを納得させるために、カメの要請で推論を正当化する論理法則を推論の前提として書き入れたことによって、無限背進に陥ってしまうって話です。
    >> この話から得られる教訓を、目下の問題と類比して述べますと、
    >> 本来、語り得ぬ論理法則(仮に「メタ事実」とします)を語ってしまったがゆえに無限背進に陥った、ってことになります。
    >> これは、「私は私の世界である」という語り得ぬこと(メタ事実)を、言語化(モデル化)してしまったがゆえに「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥る永井ときわめて似ています。
    >> つまり、
    >> 「これは読者に〈私〉の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた図であるってことだと思います。」
    >> という解釈の通りだとすると、次のような同型ともとれる関係が二つの話には見出せると思うのです。
    >> 「これはアキレスがカメに論理法則の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた命題であるってことだと思います。」

    >> アキレス∽永井
    >> カメ  ∽ 読者

    >> つまり、アキレスがカメを納得させるために、本来語り得ない論理法則を語ってしまって無限背進に陥ったように、
    >> 永井が読者に説明するために、本来語り得ない独我論を語って「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥ってしまったということ。

    >その可能性はあると思います。
    >一方で繰り返しになりますが『論考』には〈私〉に関する公案あるいは禅問答めいた>.文章が記されてないために一般的な独我論としたように思います

    >> もちろん、ウィトゲンシュタインは、論理法則は語り得ないということをわかっていました。

    >ここもう少し詳しく教えて下さい。
    >論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか?
    >一般化されなければ論理法則は法則になりえませんよね?

    ここも、
    一般化される=誰にでも当てはまる語り
    という前提があるように思われます。
    論理法則とは、要するに論理的真理であって、同語反復命題によってあらわされますが、これは何事も語りません。
    論理的真理は、命題自身がトートロジーであることによって真であることを示しているのです。
    つまり、論理的命題は、写像ではありません。「鏡像」と言われています。
    論理の研究はアプリオリな一般形式の研究です。

    要するに、一般的言語理論であろうと一般的主観であろうと、「経験的一般性」ではなく、「形式的一般性」であれば、唯一性は失われない、ということです。
    喩えれば、チェスの「白のキング」は世界中で唯一人であるように。
    自然数の1も、世界中で唯一です。




    > >>>>****************

    >> 〈私〉がモデルではなく、「〈私〉と世界」をどういうモデルで考えているのでしょう?という質問でした。

    >了解しました。

    >> で、ビッグバン宇宙論の特異点と宇宙ということですね。

    >そうです。あくまで空間的な側面しとして特異点ってことです。

    >> これに関しても、ここまで言ってきたように、私として疑問なのは、やはり語り得ないものを語り得るものをモデル(宇宙論)にして説明すること、ということになりますね。
    >> 実際、この宇宙開闢には、時間が含まれるんじゃないでしょうか。

    >はい、物理の特異点は時空の特異点ですから時間も含まれます。

    >> だから、門外漢でもイメージしやすいですよね。
    >> そして、いや、「世界開闢の特異点としての〈私〉」の「開闢」には時間の意味はなく、空間の開けしか含意されていない、ということなら、やはり、図5のようなモデルでしか理解できないように思います。

    こ>こも繰り返しになるんですが〈私〉を理解し、ビッグバン宇宙論を一般教養レベルで知っている人は「そうだ!」と共感できると思います。
    >だから永井氏も期せずして?たまたま?私と同じ表現「特異点」を使ったのだと思います。
    >

    しつこいようですが、やはり、そのモデルで「共感できてしまう」こと自体がまずいと思うわけです。
    というのも、
    「ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、ということ」だと思うからです。


    > ***********************
    >> ご存知かもしれませんが、参考までに、一つ補足を。
    >> 「キャロルのパラドックス」についての考察は、いろいろありますが、
    >> 目下の問題と深く関わるであろう観点から詳細に考察したものとして、次があります。
    >> 『相対主義の極北』(入不二基義)(勁草書房) (文庫がちくま文庫かなんかにあるかも)

    >> これは、入不二基義さんだけあって、私見なんですが、実は、「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」を肯定することにつながるような、『キャロルのパラドックス』についての詳しい考察があって、パニチェさんにとっても面白いかも、と思います。
    >> ただ、論理式が出てくると読む気が失せる、というタイプの人には向かないと思いますので、そこはご注意ください。
    >> 伺ったことなかったですが、パニチェさんは、どうでしょう?
    >> 『論考』でも、論理学がテーマのところは大丈夫ですか?

    >論理学関連本は何冊かは読みましたが理解はイマイチです。
    >よって『論考』の論理学がテーマのところは正確に理解できているとは思えません。^^;
    >ちなみに先の『キャロルのパラドックス』の話は理解しているつもりです。
    ****************
    実は、
    >論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか?
    について、詳しく書こうとしたのですが、長大にならざるをえないのと、それでもわかりやすいと思えないことなどで、諦めました。
    かわりに、関連するところを
    D・リー編(山田友幸他訳)『ウィトゲンシュタインの講義T ケンブリッジ1930-1932』 (勁草書房)
    から引用しておきます。飯田隆先生によるとウィトゲンシュタインがキャロルのパラドックスを知っていたとされる根拠になるところだそうです。最初の「(大まかに言って)」を除いて、カッコ内はふくろうの注です。

    帰結するという関係は(大まかに言って)それらが成立しないということが思考不可能である場合に成立する内的関係(示されるべき関係)である。命題が真であるか偽であるかということは、実在との比較によってのみ決定されうる。したがって、p∨qがp・qから帰結するということは命題ではない(何も語っていない)。それは何の役にも立たない。(示されている)内的関係を見て取ることこそが、推論を正当化するのである。推論を正当化するためには推論のルールは何ら必要ではない。というのももし必要であったならば、そのルールを正当化するために別のルールが必要であったであろうし、それは無限後退に導くだろうからである。われわれは内的関係を見て取らなければならないのである。(上掲書、108-109頁)

    そして、この内的関係を正確に示す表記法が『論考』のTF表記法だった、ということなのです。


引用返信/返信 削除キー/
■33127 / inTopicNo.6)  Re[3]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/18(Mon) 08:38:03)
    お久しぶりです、knowing itselfさん。レスありがとうございます。
    以下はもの凄い的外れなレスになりますがご容赦を。

    No33110に返信(knowingitselfさんの記事)

    > 「仏教3・0を哲学する」については、バージョンUの方で
    > 内山興正の自己漫画は背景にカント哲学があると永井氏の解説がありますね。
    > ここは非常興味深いと思います。

    > 第四図がカテゴリー的な構成、現象のことなら、第五図は物自体となりますか?

    ここもう少し詳しくお願いします。

    > この自己漫画図がのっている「進みと安らい」は、内山興正が気に食わないとか、行き詰まったとか、再版させなかったいわくつきの書物のようで、一般的な仏教や禅をはみ出るような要素があるのではと論評されるようですね。ネルケ無方さんなんかは行き詰まりだと。永井氏は仏教を超えるところがあるからこの書を評価するという説ですね。

    そうなんですね。

    > 山下良道さんは、自己漫画図に出会ったことが安泰寺を選んだ大きな動機だといっていますが、永井氏のこの説明をきくまては、背景にそこまでカント哲学があることに思い至らなかったようでもあります。ここはさすが哲学者の永井氏でしょう。

    永井氏のP189〜P209の説明って私はいるのかな?と思ってしまうのです。
    むしろ余計に〈私〉を分かりにくくしている。カントやデカルトを持ち出す必要性があるとは思えず、むしろ永井氏は何のために持ち出しているのかとさえ思ってしまいます。こねくり回しすぎというか。。。(笑)
    〈私〉や自己漫画図の理解にはデカルトやカントは必要ないですからね。^^;

引用返信/返信 削除キー/
■33130 / inTopicNo.7)  ザビビのふくろうさんへ 1
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/18(Mon) 09:24:22)
    おはようございます、ザビビのふくろうさん。丁寧なレスをありがとうございます。

    No33121に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > うーん、自分から話しを振っておいて何なんですけど、この問題難しいですよね(笑)

    確かに難しい。。。^^

    > そもそもは、パニチェさんの考えでは、〈私〉は知覚世界と独立の実在かどうかを確かめるためにした質問だったような気がするんだけど…。

    そういう文脈でしたね。

    > とりあえず、これがいいか悪いかは措いて、話を簡単にするために、ここでは〈私〉を〈意識としての自己〉と解釈・仮定し、「〈私〉の世界」を「私の意識世界」て考えますね。
    > この〈私〉の世界を内側から把握する限り(つまり、マッハ図の視点)、〈私〉の存在しない世界などというものは想像し得ません(自分が意識を失っているマッハ図など描けない)。
    > 要は〈私〉は絶対の〈存在(有)〉であり、その非存在を思考する(語る)ことは論理的に不可能であり、無意味。
    > しかし、世界内存在者としての「私」がいなくなった世界は普通に想像可能です(自分が死んだ後の未来世界の想像とか)。
    > 同様に、私の意識世界の外側の視点に立って私を対象化し、その「「私」が眠っている世界」「「私」が眠ったまま夜の街を徘徊している」というのは想像可能です。
    > そうすると、その想像された絵(「私」が眠っている心象)自体は〈私〉の表象であるが、描かれた絵の中には、「私」は存在しても、〈私〉は存在しない、と言うべきだと思うんですね。
    > そうすると、やはり「眠っていた「私」は〈私〉ではない」ってことになるように思います。
    > もし、パニチェさんが、この「私」も〈私〉だと考えるのであれば、私との見解の相違ということになりますが、どうでしょうかね。

    自分が意識を失っている間に何かしらの夢で見ているとするなら、その夢がマッハ図で描く世界になります。
    また世界内存在者としての「私」がいなくなった世界は普通に想像できますが、想像することと実体験することは違うと思います。
    夢の中で存在するのは「私」であって、その夢を見ている主体が〈私〉です。よって「私」が登場しない夢は見ることがあっても夢見る主体である〈私〉なくして夢を見ることも眠ることも不可能であるように思えるのです。
    ザビビのふくろうさんが言うように見解の相違になるんでしょうね。

    > しかし、今、意識に立ち現われている過去に見た情景(記憶表象)というのは、〈私〉の情景であると思います(例えば、No32907で述べた夕日の情景など)。
    > ということで、この問題は、このあたりにしておきましょうか?大変だし(笑)

    『翳りゆく部屋』とともに記憶された「夕日の情景」ですね。あれは名曲だと思います。
    でも、情景自体は(他者と共有可能な)客観的なものであって、その情景に『翳りゆく部屋』とともに色付けられた私秘性に記憶された情景は他者とは共有不可能な唯一無二の景色であると思います、が。
    「この問題は、このあたりにしておきましょう」に同意します。^^

    > >解離性同一障害については同意します。
    > >確かに「〈私〉があったことが分かる」ってのは上記の定義からすれば矛盾してますね。
    > >ただ「私があった」から「私が眠っていた」ことが分かるわけで、〈私〉はなかったが私だけがあったてのもしっくりきません。
    > >私と〈私〉は不分離ですからね。
    > >
    >
    > ただ、このへん、独我論を主張する場合は重要だと思います。
    > 特にパニチェさんのように、知覚世界の存在と〈私〉の実在というふうに分離する考え方の場合、「見るもの―見られるもの」という図5の枠組み(主観―客観図式)で捉えられていると考えられるので、「見られるもの(客観)」が失われたとき、見るもの(主観)である〈私〉は残るのか、というのは問題だと思うんですね。
    > たとえば映画『マトリックス』のパニチェさんの説明(No32802)では、仮想世界と〈私〉は「存在のフィールドが異なる」と言い、「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に実在している」ともおっしゃっていたので、バーチャル世界(客観)が消滅しても〈私〉(主観)は消えないのかな、と思うんですが、どうですかね。
    > この解釈では、たとえば瞑想で無念無想の境地になっても〈私〉だけは残るって感じにも思えるんですが、そういうイメージは違うかな?

    マトリックスの映画(あと「桶の中の脳(水槽の脳)」とか「一炊の夢(邯鄲の夢)」も含めて)は設定からして「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に真の人体が実在している」ということになってますので少し無念無想の境地とは異なると思いますが、強いて残るとするなら西田哲学の純粋経験みたいな主客未分の〈私〉ですかね。

    > これ、私としては、少し違和感があるんです。
    > というのも、昔の偉い禅僧の話なんかを読むと、永井に感じるような違和感はあまりないんですよ。
    > 何でかなと考えたら、たぶん、禅僧のいわゆる公案や禅問答は、明らかに矛盾したことやわけわからんことを言って、「語り得ない」ということを示しているように感じるからです。
    > ところが、永井のは明らかに説明、語りですよね。
    > ここが違うように思うんですよね

    公案や禅問答はわけわからんことを言って「語り得ない」ということを示しているのではなくて(笑)、言語化できない見性(悟り=勝義諦=真諦)に弟子が正しく向かってるか(誘導する)、あるいは体得しているかどうかを師家が確認するための質疑応答です。真諦そのものは言葉にできなくても禅問答や公案を通じて悟っている師家にはそれが分かり、弟子も悟っていたり、かすっていれば師家にそれを間接的に伝えることができるというのものです。

引用返信/返信 削除キー/
■33131 / inTopicNo.8)  ザビビのふくろうさんへ 2
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/18(Mon) 10:35:47)
    2023/09/18(Mon) 10:40:22 編集(投稿者)

    以下は論理学に疎いところがあり、分からないところはスルーして(文脈を無視して)、一部を切り取っての返信になるのをご容赦いただき、レスに値しないところは無視して下さい。
    よろしくお願いします。

    No33122に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > >写像理論自体が語りえる、つまり一般化された言語考察ですよね?『論考』での「語りえないもの」とは写像としての言語の網の目をすり抜ける対象として捉えていたように(永井氏のウィトゲンシュタイン論を)私は解釈しています。

    > この点に関してですが、パニチェさんは、
    > 一般性(的)
    > ⇒誰にでも当てはまる
    > ⇒独我性消失=唯一性消失
    > と捉えているように思います。
    > だから、「写像理論自体が語り得る、つまり、一般化された言語考察ですよね?」
    > と言い、写像理論が前提となる『論考』では、本当の独我性は抜け落ちている、と考えてらっしゃるように思います。

    そうです。

    > まあ、当たっているかどうかは別として、前にも永井の根本的誤謬のひとつとして私が指摘した問題があるように思います。
    > 以下は、パニチェさんというより、永井の考えについて、述べます。

    了解しました。

    > 「一般性」というとき、永井は区別していないけれども、絶対に区別すべきことがあります。これは『論考』の根本思想の一つです。
    > それは「経験的一般性」と「形式的一般性」の区別です。
    > もちろん、これは「語り得る一般性」と「示される一般性」に対応します。
    > ちょっとまとめましょう。

    >  経験的(実質的)一般性:形式的一般性
    > =アポステリオリな一般性:アプリオリな一般性
    > =経験科学的一般性:数学的(論理学的)一般性
    > =語り得る一般性(経験的検証):示される一般性(証明)

    > 言語研究は学問である限り、当然いろんなレベルでの言語の一般的真理の研究になるでしょうが、上の区別に応じて、大きく二つに分けられます。
    > =経験科学としての言語研究(言語学):数学としての言語研究(論理学)
    > 言うまでもなく、これらの区別は「真理」にも当然適用されます。
    > =経験的真理:論理的真理(数学的真理)

    > 経験科学としての言語研究(以後「言語学」)では、その文法や法則を発見するにせよ、それは帰納的に発見されるものです。
    > それは物理学的法則と同様です。

    > それに対して、論理学的に言語を研究する場合、それは現実の言語から離れ、それから独立に命題体系を構成します。
    > そこにおける法則は、もっぱら演繹的に導かれるものです。
    > これはユークリッド幾何学が一種のゲームと捉えることができ、定理が現実の図形についての事実を語るものではないこと、その意味で、チェスや将棋といったゲームの駒が現実のキングや王を意味するものでないこと、定石が現実について語るものではないのと類比されます。
    > 『論考』の写像理論も、現代的には数学基礎論におけるモデル理論に相応します。
    > つまり、「写像理論」で考察される言語とは、現実の言語ではなく、あくまで数学的に構成される抽象的な言語体系のことのわけです。
    > その言語を定義したのが T:6 です。

    T:6というのは「6.真理関数の一般的形式は、[記号省略]である。これは命題の一般形式である。」のことですね?

    > なので、
    > >写像理論自体が語りえる、つまり一般化された言語考察ですよね?
    > については、写像理論は言語の論理学的考察であり、ゆえに語られる理論ではなく、示されるべき形式的一般理論である、というのが回答になります。

    > で、ここで重要なことは、ユークリッド幾何学の公理系が唯一であるのと同じ意味で、写像言語=命題の体系は、唯一である、ということです。
    > つまり、世界中でユークリッド幾何学は研究されていますが、その研究者それぞれのユークリッド幾何学があるわけではありませんよね。
    > まったく同様な意味で、論理学が扱う命題体系は(本来)唯一ということです。

    例えばユークリッド幾何学の公理である「任意の2点 A, B に対して、それらを通る直線 l が少なくともひとつ存在する。」は語られているのではなく、示されているだけってことになるんでしょうか?
    ここらが私には理解できないのです。

    > 主観についても同様のことが言えます。
    > 経験的な一般的主観と、形式的一般項としての主観では、全く存在論的意味が異なるのです。
    > 永井は、「一般的主観」というとき、経験的一般的主観として述べます。
    > それは語られる「私」、客体化された「私」です。
    > つまり、図5の〈私〉なのです。

    上記の図というのは「〈私〉の存在の比類なさ P.28」の図5のことですね。
    これは図に描くこと自体が客体化した〈私〉になるので頽落しており、一般的な「私」になっています。

    ちなみに「〈仏教3.0〉を哲学するU P193」の図4なら世界の中の一人としても「私」になります。
    「私」であるなら図4の中の人物であり、図5で言うならアタマの展開する世界の中にいる一人としての(根本にあるわが生命ではなく)「私」ってことになるはずです。
    これも同様に図にしている時点で「私」と〈私〉の区別はなくなっています。

    > なので、「〈私〉の世界」は、誰にも当てはまるから、人物Aの「私の世界」、人物Bの「私の世界」、……、となって、いわばモナド的なミクロコスモスがマクロコスモスの中に多数存在してしまうわけです(『〈私〉の存在の比類なさ』55頁、図18参照)。

    よって図にしているから「〈私〉の世界」が誰にも当てはまるよいになっており、頽落した「私」になっていることから誰にも当てはまる『「私」の世界』になっているとになります。
    そもそも「〈私〉の世界」は誰にも当てはまるものではありません。

    > それに対して、形式的一般項として主観を捉えるということは、あくまでマッハ図の形式として示されている《私》として捉えるということ。
    > この視座から世界を捉えることは、前掲書、図6の視座に立って、世界内存在者であるA,B,C,……,もすべて「全一同一唯一の《私》」と捉えること。
    > したがって同時に、人物Aの言語も、Bの言語も、…、それぞれの言語なのではなく、全一同一唯一の写像言語=《私》の言語である、と捉えることなのです。
    > よって、人物Aの世界も、Bの世界も、…、それぞれの世界(ミクロコスモス)なのではなく、
    > 《私》の世界(ミクロコスモス)=全一同一唯一の世界(マクロコスモス)
    > ということになります。

    マッハ的光景も誰にでも当てはまる光景になります。
    そういう意味では図5とマッハ的光景は差異はありません。

    >>**********************

    > >ここもう少し詳しく教えて下さい。
    > >論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか?
    > >一般化されなければ論理法則は法則になりえませんよね?

    > ここも、
    > 一般化される=誰にでも当てはまる語り
    > という前提があるように思われます。
    > 論理法則とは、要するに論理的真理であって、同語反復命題によってあらわされますが、これは何事も語りません。
    > 論理的真理は、命題自身がトートロジーであることによって真であることを示しているのです。
    > つまり、論理的命題は、写像ではありません。「鏡像」と言われています。
    > 論理の研究はアプリオリな一般形式の研究です。

    > 要するに、一般的言語理論であろうと一般的主観であろうと、「経験的一般性」ではなく、「形式的一般性」であれば、唯一性は失われない、ということです。
    > 喩えれば、チェスの「白のキング」は世界中で唯一人であるように。
    > 自然数の1も、世界中で唯一です。

    論理的真理も公理もスタート地点がトートロジーであることは理解できます。
    上記は「語り得ること」と「根拠が説明できること」と同じ意味で用いられていますか?
    私は「語り得ること」と「根拠が説明できること」は異なると考えています。
    よって論理的真理も公理も「語り得る」と。「語り得る」から論理的真理や公理足り得る。
    一方で〈私〉は「語り得ない」から文章や命題にすらなり得ないってことになります。

    >>>>>>****************

    > しつこいようですが、やはり、そのモデルで「共感できてしまう」こと自体がまずいと思うわけです。
    > というのも、
    > 「ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、ということ」だと思うからです。

    ここも繰り返しになりますが見性しているものが師家の公案や禅問答でその真意(問われている対象が悟りであること)に「共感できる」ように、〈私〉を知っている読者には「共感できてしまう」のです。

    >>***********************

    > 帰結するという関係は(大まかに言って)それらが成立しないということが思考不可能である場合に成立する内的関係(示されるべき関係)である。命題が真であるか偽であるかということは、実在との比較によってのみ決定されうる。したがって、p∨qがp・qから帰結するということは命題ではない(何も語っていない)。それは何の役にも立たない。(示されている)内的関係を見て取ることこそが、推論を正当化するのである。推論を正当化するためには推論のルールは何ら必要ではない。というのももし必要であったならば、そのルールを正当化するために別のルールが必要であったであろうし、それは無限後退に導くだろうからである。われわれは内的関係を見て取らなければならないのである。(上掲書、108-109頁)
    > そして、この内的関係を正確に示す表記法が『論考』のTF表記法だった、ということなのです。

    今回のザビビのふくろうさんのレスで気付かされたのですが、やはり(可能性として)『論考』で言うところの語り得ない対象は〈私〉は含まれていないように思います。
    語られない次元というかフィールドが異なる。

    トートロジーになるとか、真偽とか、有意味であるとか、無意味であることに関係なく〈私〉は言語の性質上「語り得ない」ってことになる。
    そして論理や言語以前(外)に〈私〉が「今ここに存在しており」、そこから世界も論理も言語も開けるってことになる。

引用返信/返信 削除キー/
■33133 / inTopicNo.9)  なぜ私は私なのか
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/18(Mon) 10:49:45)
    こんにちは、悪魔ちゃん。以下、勝手に返信しておきますが、スルーしてもらって結構ですよ。^^

    No33116に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 他のところで、
    > 「なぜ私は私なのか」っていう問いについてなんか言ってる見たいなんだけど、そこには入り込めないので、ここで書くね。
    > ほら、わたしのは幼稚だから。
    > ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    > 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    > 「なぜ私は私なのか」(なぜわたしはわたしなのか、英:Why am I me ?)は哲学の一分野である形而上学、または心の哲学の領域で議論される問題のひとつ。この問題は様々な形で定式化されるが、最も一般的には次のような形で表される問題である。
    > 世界中に今現在、沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生まれてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。しかしそれにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?)
    > ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    > ウィッキによると、こう見たいね。そういんだとして、
    > ここの部分だけ見て、わたしが聞きたいのはね、
    > (1)「なぜ私は私なのか」っていう問い、誰が立ててるのかしら?

    特定の人が立てた問いではなく何人かに1人(Wikipediaでは渡辺が日本の全国の大学生を対象として調査した結果として10人に1人)が誰に言われたでもなく自然と抱く疑問です。

    > (2)その人にわたしが聞きたいのは、〈あなたの言う「私」っていうのはどういうの〉?

    言語表現できないところの〈私〉です。

    > (3)「沢山の人がいる」「数多くの人が生まれてきて」「これからも多数の人が生まれてきて死んでいく」っていうことから、
    > この問いの「私」っていうのは「人」っていうことでいいのかな?「私」=「人」ね。

    違います。

    > (4)だとしたら、問いは、「なぜ人は人なのか」って言う問いでもいいわけよね?

    前提が違います。〈私〉は「人」のことでも「私」のことでもありません。

    > (5)あと、「なぜ人は他の誰かではなく、この人物なのか?」とか、「なぜ人は他の誰かではなく、この私物なのか?」って言うことでもいいのかな?

    前提が違います。

引用返信/返信 削除キー/
■33141 / inTopicNo.10)  Re[5]: なぜ私は私なのか
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/09/18(Mon) 12:08:37)
    ■33133、パニさん、ありがとございます。

    >特定の人が立てた問いではなく何人かに1人(Wikipediaでは渡辺が日本の全国の大学生を対象として調査した結果として10人に1人)が誰に言われたでもなく自然と抱く疑問です。<
    わかりました。
    ってすると、「なぜ私は私なのか」っていう問いは、自問っていうことみたいなのかな。

    >言語表現できないところの〈私〉です<
    なんか、よくわかんない。

    わたしそんな疑問抱かない方だから、そういう疑問が自然と抱かれた人におまかせすることにしま〜す。





引用返信/返信 削除キー/
■33168 / inTopicNo.11)  パニチェさんへ 1
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/18(Mon) 20:30:37)
    パニチェさん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。
    とりあえず、前半を返します ^^


    No33130に返信(パニチェさんの記事)
    > おはようございます、ザビビのふくろうさん。丁寧なレスをありがとうございます。
    >
    > ■No33121に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>うーん、自分から話しを振っておいて何なんですけど、この問題難しいですよね(笑)
    >
    > 確かに難しい。。。^^
    >
    >>そもそもは、パニチェさんの考えでは、〈私〉は知覚世界と独立の実在かどうかを確かめるためにした質問だったような気がするんだけど…。
    >
    > そういう文脈でしたね。
    >
    >>とりあえず、これがいいか悪いかは措いて、話を簡単にするために、ここでは〈私〉を〈意識としての自己〉と解釈・仮定し、「〈私〉の世界」を「私の意識世界」て考えますね。
    >>この〈私〉の世界を内側から把握する限り(つまり、マッハ図の視点)、〈私〉の存在しない世界などというものは想像し得ません(自分が意識を失っているマッハ図など描けない)。
    >>要は〈私〉は絶対の〈存在(有)〉であり、その非存在を思考する(語る)ことは論理的に不可能であり、無意味。
    >>しかし、世界内存在者としての「私」がいなくなった世界は普通に想像可能です(自分が死んだ後の未来世界の想像とか)。
    >>同様に、私の意識世界の外側の視点に立って私を対象化し、その「「私」が眠っている世界」「「私」が眠ったまま夜の街を徘徊している」というのは想像可能です。
    >>そうすると、その想像された絵(「私」が眠っている心象)自体は〈私〉の表象であるが、描かれた絵の中には、「私」は存在しても、〈私〉は存在しない、と言うべきだと思うんですね。
    >>そうすると、やはり「眠っていた「私」は〈私〉ではない」ってことになるように思います。
    >>もし、パニチェさんが、この「私」も〈私〉だと考えるのであれば、私との見解の相違ということになりますが、どうでしょうかね。
    >
    > 自分が意識を失っている間に何かしらの夢で見ているとするなら、その夢がマッハ図で描く世界になります。
    > また世界内存在者としての「私」がいなくなった世界は普通に想像できますが、想像することと実体験することは違うと思います。
    > 夢の中で存在するのは「私」であって、その夢を見ている主体が〈私〉です。よって「私」が登場しない夢は見ることがあっても夢見る主体である〈私〉なくして夢を見ることも眠ることも不可能であるように思えるのです。
    > ザビビのふくろうさんが言うように見解の相違になるんでしょうね。
    >

    ん?
    ここは誤解があるんじゃないでしょうか?。
    夢の中に登場する私は「私」でしょうが、
    夢それ自体は、もちろん「〈私〉の夢」ですね。
    これはいわば「夢の限界」としての《私》だと思いますよ。
    私としては「夢見る主体」という表現は、「表象する主観」を意味するように思うので、避けたいところですが。

    >>しかし、今、意識に立ち現われている過去に見た情景(記憶表象)というのは、〈私〉の情景であると思います(例えば、No32907で述べた夕日の情景など)。
    >>ということで、この問題は、このあたりにしておきましょうか?大変だし(笑)
    >
    > 『翳りゆく部屋』とともに記憶された「夕日の情景」ですね。あれは名曲だと思います。
    > でも、情景自体は(他者と共有可能な)客観的なものであって、その情景に『翳りゆく部屋』とともに色付けられた私秘性に記憶された情景は他者とは共有不可能な唯一無二の景色であると思います、が。
    > 「この問題は、このあたりにしておきましょう」に同意します。^^
    >

    わかりました。
    唯一つだけ。
    「情景自体は(他者と共有可能な)客観的なものであって」
    っていうのは、私としてはちょっと受け入れがたいですね。



    >>>解離性同一障害については同意します。
    >>>確かに「〈私〉があったことが分かる」ってのは上記の定義からすれば矛盾してますね。
    >>>ただ「私があった」から「私が眠っていた」ことが分かるわけで、〈私〉はなかったが私だけがあったてのもしっくりきません。
    >>>私と〈私〉は不分離ですからね。
    >>>
    >>
    >>ただ、このへん、独我論を主張する場合は重要だと思います。
    >>特にパニチェさんのように、知覚世界の存在と〈私〉の実在というふうに分離する考え方の場合、「見るもの―見られるもの」という図5の枠組み(主観―客観図式)で捉えられていると考えられるので、「見られるもの(客観)」が失われたとき、見るもの(主観)である〈私〉は残るのか、というのは問題だと思うんですね。
    >>たとえば映画『マトリックス』のパニチェさんの説明(No32802)では、仮想世界と〈私〉は「存在のフィールドが異なる」と言い、「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に実在している」ともおっしゃっていたので、バーチャル世界(客観)が消滅しても〈私〉(主観)は消えないのかな、と思うんですが、どうですかね。
    >>この解釈では、たとえば瞑想で無念無想の境地になっても〈私〉だけは残るって感じにも思えるんですが、そういうイメージは違うかな?
    >
    > マトリックスの映画(あと「桶の中の脳(水槽の脳)」とか「一炊の夢(邯鄲の夢)」も含めて)は設定からして「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に真の人体が実在している」ということになってますので少し無念無想の境地とは異なると思いますが、強いて残るとするなら西田哲学の純粋経験みたいな主客未分の〈私〉ですかね。
    >

    なるほど。パニチェさんの認識は一応わかったと思います。
    私としては、『マトリックス』のパニチェさん的解釈は、永井の図5と同じく私を外側から把握するものと思いますので、西田の純粋経験と同じようなものとするのは、無理ではないかな、と思います。すんませんm(__)m

    >>これ、私としては、少し違和感があるんです。
    >>というのも、昔の偉い禅僧の話なんかを読むと、永井に感じるような違和感はあまりないんですよ。
    >>何でかなと考えたら、たぶん、禅僧のいわゆる公案や禅問答は、明らかに矛盾したことやわけわからんことを言って、「語り得ない」ということを示しているように感じるからです。
    >>ところが、永井のは明らかに説明、語りですよね。
    >>ここが違うように思うんですよね
    >
    > 公案や禅問答はわけわからんことを言って「語り得ない」ということを示しているのではなくて(笑)、言語化できない見性(悟り=勝義諦=真諦)に弟子が正しく向かってるか(誘導する)、あるいは体得しているかどうかを師家が確認するための質疑応答です。真諦そのものは言葉にできなくても禅問答や公案を通じて悟っている師家にはそれが分かり、弟子も悟っていたり、かすっていれば師家にそれを間接的に伝えることができるというのものです。
    >

    そうですか(笑)
    まあ、私、禅問答や公案をよく知りませんし、もう少し勉強してからまた出直します^^
引用返信/返信 削除キー/
■33170 / inTopicNo.12)  パニチェさんへ 2
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/18(Mon) 21:35:13)
    No33131に返信(パニチェさんの記事)
    > 2023/09/18(Mon) 10:40:22 編集(投稿者)
    >
    > 以下は論理学に疎いところがあり、分からないところはスルーして(文脈を無視して)、一部を切り取っての返信になるのをご容赦いただき、レスに値しないところは無視して下さい。
    > よろしくお願いします。
    >

    了解しました。

    > ■No33122に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>>写像理論自体が語りえる、つまり一般化された言語考察ですよね?『論考』での「語りえないもの」とは写像としての言語の網の目をすり抜ける対象として捉えていたように(永井氏のウィトゲンシュタイン論を)私は解釈しています。
    >
    >>この点に関してですが、パニチェさんは、
    >>一般性(的)
    >>⇒誰にでも当てはまる
    >>⇒独我性消失=唯一性消失
    >>と捉えているように思います。
    >>だから、「写像理論自体が語り得る、つまり、一般化された言語考察ですよね?」
    >>と言い、写像理論が前提となる『論考』では、本当の独我性は抜け落ちている、と考えてらっしゃるように思います。
    >
    > そうです。
    >
    >>まあ、当たっているかどうかは別として、前にも永井の根本的誤謬のひとつとして私が指摘した問題があるように思います。
    >>以下は、パニチェさんというより、永井の考えについて、述べます。
    >
    > 了解しました。
    >
    >>「一般性」というとき、永井は区別していないけれども、絶対に区別すべきことがあります。これは『論考』の根本思想の一つです。
    >>それは「経験的一般性」と「形式的一般性」の区別です。
    >>もちろん、これは「語り得る一般性」と「示される一般性」に対応します。
    >>ちょっとまとめましょう。
    >
    >> 経験的(実質的)一般性:形式的一般性
    >>=アポステリオリな一般性:アプリオリな一般性
    >>=経験科学的一般性:数学的(論理学的)一般性
    >>=語り得る一般性(経験的検証):示される一般性(証明)
    >
    >>言語研究は学問である限り、当然いろんなレベルでの言語の一般的真理の研究になるでしょうが、上の区別に応じて、大きく二つに分けられます。
    >>=経験科学としての言語研究(言語学):数学としての言語研究(論理学)
    >>言うまでもなく、これらの区別は「真理」にも当然適用されます。
    >>=経験的真理:論理的真理(数学的真理)
    >
    >>経験科学としての言語研究(以後「言語学」)では、その文法や法則を発見するにせよ、それは帰納的に発見されるものです。
    >>それは物理学的法則と同様です。
    >
    >>それに対して、論理学的に言語を研究する場合、それは現実の言語から離れ、それから独立に命題体系を構成します。
    >>そこにおける法則は、もっぱら演繹的に導かれるものです。
    >>これはユークリッド幾何学が一種のゲームと捉えることができ、定理が現実の図形についての事実を語るものではないこと、その意味で、チェスや将棋といったゲームの駒が現実のキングや王を意味するものでないこと、定石が現実について語るものではないのと類比されます。
    >>『論考』の写像理論も、現代的には数学基礎論におけるモデル理論に相応します。
    >>つまり、「写像理論」で考察される言語とは、現実の言語ではなく、あくまで数学的に構成される抽象的な言語体系のことのわけです。
    >>その言語を定義したのが T:6 です。
    >
    > T:6というのは「6.真理関数の一般的形式は、[記号省略]である。これは命題の一般形式である。」のことですね?
    >

    そうです。
    はっきり言って不十分なんですが、いわば自然数を定義したペアノの公理のようなものですね。
    ウィトゲンシュタインが『論考』で示した論理的記号法は、現在でも研究されています。それを実際に構成する試みもなされているようです。

    >>なので、
    >>>写像理論自体が語りえる、つまり一般化された言語考察ですよね?
    >>については、写像理論は言語の論理学的考察であり、ゆえに語られる理論ではなく、示されるべき形式的一般理論である、というのが回答になります。
    >
    >>で、ここで重要なことは、ユークリッド幾何学の公理系が唯一であるのと同じ意味で、写像言語=命題の体系は、唯一である、ということです。
    >>つまり、世界中でユークリッド幾何学は研究されていますが、その研究者それぞれのユークリッド幾何学があるわけではありませんよね。
    >>まったく同様な意味で、論理学が扱う命題体系は(本来)唯一ということです。
    >
    > 例えばユークリッド幾何学の公理である「任意の2点 A, B に対して、それらを通る直線 l が少なくともひとつ存在する。」は語られているのではなく、示されているだけってことになるんでしょうか?
    > ここらが私には理解できないのです。
    >

    パニチェさんは、科学的命題と、数学的命題の違いってなんだと考えていますか?
    ウィトゲンシュタインの考えでは、論理的命題や数学的命題は何も語りません。(下に再掲されていますが、前回引用した講義録の文にも書いてあります。)


    T:6.1 論理学の命題はトートロジーである。
    T:6.11 論理学の命題は何も語らない。(それは分析的命題である)。
    T:6.2 数学は論理的方法である。
        数学の命題は等式であるから、疑似命題である。
    T:6.21 数学の命題は、思想を表現していない。

    >>主観についても同様のことが言えます。
    >>経験的な一般的主観と、形式的一般項としての主観では、全く存在論的意味が異なるのです。
    >>永井は、「一般的主観」というとき、経験的一般的主観として述べます。
    >>それは語られる「私」、客体化された「私」です。
    >>つまり、図5の〈私〉なのです。
    >
    > 上記の図というのは「〈私〉の存在の比類なさ P.28」の図5のことですね。

    そうです。
    No32917に私が添付した図と同じものですが、できたら私、これを「ショーペンハウアー図」と呼びたいんですよね。
    パニチェさんはご自由でかまいませんが、私がこう言ったら、永井の図5と同じNo32917だと受け取ってくださいm(__)m


    > これは図に描くこと自体が客体化した〈私〉になるので頽落しており、一般的な「私」になっています。
    >
    同意します。

    > ちなみに「〈仏教3.0〉を哲学するU P193」の図4なら世界の中の一人としても「私」になります。
    > 「私」であるなら図4の中の人物であり、図5で言うならアタマの展開する世界の中にいる一人としての(根本にあるわが生命ではなく)「私」ってことになるはずです。

    同意します。

    > これも同様に図にしている時点で「私」と〈私〉の区別はなくなっています。
    >

    これはちょっと違って、図5に描かれた世界全体が世界の「限界としての《私》の世界」であって、中に涙型に描かれた視野世界の中にいるのが「私」であり、左端に書かれた黒丸が表象する主体の〈私〉になる感じですかね。


    >>なので、「〈私〉の世界」は、誰にも当てはまるから、人物Aの「私の世界」、人物Bの「私の世界」、……、となって、いわばモナド的なミクロコスモスがマクロコスモスの中に多数存在してしまうわけです(『〈私〉の存在の比類なさ』55頁、図18参照)。
    >
    > よって図にしているから「〈私〉の世界」が誰にも当てはまるよいになっており、頽落した「私」になっていることから誰にも当てはまる『「私」の世界』になっているとになります。
    > そもそも「〈私〉の世界」は誰にも当てはまるものではありません。
    >
    >>それに対して、形式的一般項として主観を捉えるということは、あくまでマッハ図の形式として示されている《私》として捉えるということ。
    >>この視座から世界を捉えることは、前掲書、図6の視座に立って、世界内存在者であるA,B,C,……,もすべて「全一同一唯一の《私》」と捉えること。
    >>したがって同時に、人物Aの言語も、Bの言語も、…、それぞれの言語なのではなく、全一同一唯一の写像言語=《私》の言語である、と捉えることなのです。
    >>よって、人物Aの世界も、Bの世界も、…、それぞれの世界(ミクロコスモス)なのではなく、
    >>《私》の世界(ミクロコスモス)=全一同一唯一の世界(マクロコスモス)
    >>ということになります。
    >
    > マッハ的光景も誰にでも当てはまる光景になります。
    > そういう意味では図5とマッハ的光景は差異はありません。
    >

    うーん、ですから、私が述べているのは、その「誰にでも当てはまる」=「一般的」ということに、経験的一般性(偶然的一般性)と、アプリオリ(必然的)な一般性があって、これを区別しないということは、マッハ図とショーペンハウアー図を同一視することで、これはまずいですよ、ってことなんです…。

    まあ、パニチェさんとしてはどうして納得できないようなので、とりあえず、これは違いの確認ということで置いておきましょうか?

    > >>**********************
    >
    >>>ここもう少し詳しく教えて下さい。
    >>>論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか?
    >>>一般化されなければ論理法則は法則になりえませんよね?
    >
    >>ここも、
    >>一般化される=誰にでも当てはまる語り
    >>という前提があるように思われます。
    >>論理法則とは、要するに論理的真理であって、同語反復命題によってあらわされますが、これは何事も語りません。
    >>論理的真理は、命題自身がトートロジーであることによって真であることを示しているのです。
    >>つまり、論理的命題は、写像ではありません。「鏡像」と言われています。
    >>論理の研究はアプリオリな一般形式の研究です。
    >
    >>要するに、一般的言語理論であろうと一般的主観であろうと、「経験的一般性」ではなく、「形式的一般性」であれば、唯一性は失われない、ということです。
    >>喩えれば、チェスの「白のキング」は世界中で唯一人であるように。
    >>自然数の1も、世界中で唯一です。
    >
    > 論理的真理も公理もスタート地点がトートロジーであることは理解できます。
    > 上記は「語り得ること」と「根拠が説明できること」と同じ意味で用いられていますか?
    > 私は「語り得ること」と「根拠が説明できること」は異なると考えています。
    > よって論理的真理も公理も「語り得る」と。「語り得る」から論理的真理や公理足り得る。
    > 一方で〈私〉は「語り得ない」から文章や命題にすらなり得ないってことになります。
    >

    うーん、このパニチェさんの用法は、明らかに『論考』と異なりますね。
    上に引用しましたが、T:6.1番台にあるのを見てもらうのがいいかな。
    とにかく、論理的真理は、命題自身が同語反復命題(トートロジー)であることによって示されるものであって、語られるものではないんですよ。だから、分析的命題なんです。


    > >>>>>>****************
    >
    >>しつこいようですが、やはり、そのモデルで「共感できてしまう」こと自体がまずいと思うわけです。
    >>というのも、
    >>「ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、ということ」だと思うからです。
    >
    > ここも繰り返しになりますが見性しているものが師家の公案や禅問答でその真意(問われている対象が悟りであること)に「共感できる」ように、〈私〉を知っている読者には「共感できてしまう」のです。
    >

    とりあえず、それがパニチェさんのお考えだとして、了解しました。

    > >>***********************
    >
    >>帰結するという関係は(大まかに言って)それらが成立しないということが思考不可能である場合に成立する内的関係(示されるべき関係)である。命題が真であるか偽であるかということは、実在との比較によってのみ決定されうる。したがって、p∨qがp・qから帰結するということは命題ではない(何も語っていない)。それは何の役にも立たない。(示されている)内的関係を見て取ることこそが、推論を正当化するのである。推論を正当化するためには推論のルールは何ら必要ではない。というのももし必要であったならば、そのルールを正当化するために別のルールが必要であったであろうし、それは無限後退に導くだろうからである。われわれは内的関係を見て取らなければならないのである。(上掲書、108-109頁)
    >>そして、この内的関係を正確に示す表記法が『論考』のTF表記法だった、ということなのです。
    >
    > 今回のザビビのふくろうさんのレスで気付かされたのですが、やはり(可能性として)『論考』で言うところの語り得ない対象は〈私〉は含まれていないように思います。
    > 語られない次元というかフィールドが異なる。
    >

    ふむふむ。

    > トートロジーになるとか、真偽とか、有意味であるとか、無意味であることに関係なく〈私〉は言語の性質上「語り得ない」ってことになる。
    > そして論理や言語以前(外)に〈私〉が「今ここに存在しており」、そこから世界も論理も言語も開けるってことになる。
    >

    わかりました。
    繰り返しになりますが、とりあえず、それがパニチェさんのお考えということですね。
    私も本来言うべきことがあるんですが、なかなかそれも大変なんで、一応ここいらでストップしましょうか?
    もし、パニチェさんに質問などあったら、言ってください。

    それと、あと、『仏教3.0を哲学する』については、また改めて、少しレスしたいと思っています。

    ありがとうございました。
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