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■33319 / inTopicNo.25)  Re[8]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
  
□投稿者/ knowingitself -(2023/09/21(Thu) 16:42:54)
    ザビビのふくろうさん レスありがとうございます

    >藤田さんは、永井の哲学で自分たちの経験を言語化できる期待をもっておられるような気もしましたが。

    山下さんも藤田さんも、そういう期待をもっていることは間違いないと思います。

    藤田さんは、相当の多読家ですね。古東哲明さんとの対談を収録した著作もあります。永井均さんと共に古東さんの著作も以前から愛読していたそうです。彼の「ハイデガー=存在神秘の哲学」講談社現代新書はわたしも好きで読んでますが(笑)

    山下さんは、昔わたしが「一法庵」におじゃましたとき、簡素な部屋に井筒俊彦の著書がおいてあったのが印象的ですね、
引用返信/返信 削除キー/
■33322 / inTopicNo.26)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/21(Thu) 17:01:58)
    パニチェさん、こんにちは。

    実は、これまで説明しようと思っては機会を失っていたことがあります。
    ですが、ある意味、目下の我々の考察に最も重要な意義があると言っても過言ではないことなので、遅ればせながら、ちょっと長くなると思いますが、ここで述べてみたいと思います。

    以下に引用する内容は、私が前提としている哲学上の基本的知識にあたるもので、ショーペンハウアー図とマッハ図の論理的違いについて、パニチェさんの理解が得られないのも、この知識の共有ができていないことも原因として考えられるのかなとも思います。
    それは、「表象」と「現象」の学術用語としての意味です。
    これについて、以前、悪魔ちゃんが中島義道さんの著書からか引用されていた文章があり、大変参考になりますので、再掲させてもらいます。悪魔ちゃん、ありがとうございます。
    あともうひとつ、辞典から坂部先生による「表象」の説明も引用しておきます。

    なお、この投稿についても特に返信は不要です。
    ただ、上記用語の意味については、理解しておくことはパニチェさんにとってもプラスになると思いますので、長いですが、目を通していただきたく思いますm(__)m
    ***************************
    No27106
    中島義道さんの「現象・表象」の。
    No26793に前に一部書いたけど、このさいだから、全部書き写しておきます。

    (資料2)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    現象・仮象     中島義道

    現象と仮象という両概念は、哲学的にはカントの時代まで正確に区別されることはなかったが、それも当然である。なぜなら、ドイツ語における「現象」(Erscheinung)には「真」という意味が含まれておらず、また「仮象」(Schein)も「仮」という意味を特に担っていないからである。“Erscheinung”も“Schein”も「現れ」であって、ここに真偽ないし正誤の問題はもともと入っていない。ドイツ語では成績表も紙幣も身分証も“Schein”と呼ぶ。これらは「誤った現れ」ではなく、むしろ何ものかの「真の現れ」なのだ。こうした文脈において、カントと彼の同時代人ランベルトとを比べると、両概念がまったく異なった方向に彫琢(宝石などを加工研磨すること、詩や文章を推敲し立派なものにすること、美しく磨き上げる)されてゆくのを看取(見てそれを知ること、観取)できて興味深い。その後ヘーゲルやフッサールの現象学における現象概念も、また両解釈の間を揺れ動いていると言えよう。

    仮象の両義性
    ランベルト(1728-1777)は「現象学」(Phänomenologie)という用語をはじめて使用したとされるが、彼の現象学とは「仮象の学」にほかならない。この場合、仮象という概念に「真」に対する「偽」という意味合は含まれていない。仮象とはあくまでも真偽以前の「中間物」であり、何ごとにせよ見えるがまま・現れるままの事柄であって、これはドイツ語の“Schein”の意味を忠実に保っていると言えよう。こうした基本的態度のもとに、彼は「超越的仮象」「生理的仮象」「道徳的仮象」「病理学的仮象」「天文学的仮象」等々詳細な分類を施している。彼のプランは、こうした見えるままに記述する「仮象の言語」と、物に即した「物理学の言語」との間に翻訳規則を作ることであった。
    カントはこのランベルトの構想を一部引き受け、『純粋理性批判』をはじめ『現象学』というタイトルにしようとしたほどほどである。しかし、この構想をカントは大きく変容させ、仮象を「誤った現れ」という意味に限定した。それは「錯覚」とほぼ同義であり、広く主観的にそう見える(思われる)ものを客観的だと誤って判断するときに生ずるものである。仮象には経験的仮象と超越論的仮象がある。前者は、昇る月の大きさを対象としての月の大きさと錯覚するとき(月の錯視)や、岸の上に海が見えると、対象としての海が対象としての岸より上にあると判断するときなどに生ずる。そして、後者こそカントがもっとも注目したものであり、理性そのものが有する本性であって、本来可能な経験の範囲内で有効なカテゴリーを、経験を超える領野にも使用し、「世界全体の量は有限あるいは無限である」「魂は実体(不滅)である」「神は存在する」等々の誤った結論を導き出してしまうことである。
    こうした変容の過程で、ランベルトにおいては特に積極的な意味を持っていなかった現象は、カントにおいては積極的に経験内の「真の現れ」という意味を受け持つことになる。現象と仮象との区別は、とりわけ『自然科学の形而上学的原理』の第4章「現象学の形而上学的原理」において鮮明である。カントは互に等速度直線運動する二つに物体A,Bについては、ガリレイの相対性原理をそのまま認めて、どちらかが真のつまり実在的な運動であるわけではないと言う。両者ともに、可能的運動として等価なのである。しかし、円運動のように実在的な力が実在的な力が加わるような等速度運動においては、力が実在的であるがゆえに、そこには真の実在的運動が成立している。その場合、円運動の上に座標を組むと、その座標においては外界の運動は反対の方向の円運動として知覚されるであろう。しかし、もしそれを真の実在的運動であるとみなすなら、そのときはじめて「仮象」が生ずるのである。言い換えれば、そう見なさないとき、円の外の観察者にとっての円運動も円の上の観察者にとっての反対方向の円運動も、ともに現象である。同様にして、互いに等速度直線運動する二つの物体A,Bの上にある自分自身の運動も相手の運動も現象である。

    現象の両義性
    だからカントの場合、実は現象は二義的である。運動学のようなカテゴリーを適用した客観的妥当世界のみが現象であるわけではない。もうひとつ、夢や幻おみならず、私の目や耳に触れるある印象や私の舌に感じられる味わいや、私の手に触れる感触等々、いわゆる主観的現象もまた現象である。それらは「誤り」であるわけではなく、ただ主観的妥当性をもつにすぎないだけである。こうした現象はランベルトの「中間物」として仮象に近づいており、また偽と判断されたわけではなく真偽以前の「現れ」である。これら主観的妥当性を持つにすぎないものをいかに捉えるかが、カントの現象理解の鍵とも言える。カントは『プロレゴメナ』で主観的妥当性のみを持つ知覚判断と客観的妥当性を持つ経験判断の区別を推し進め、主観的妥当性の領野を確保しようとしたが、それはうまく超越論的観念論の体系の中におさまることはなかった。カントは『純粋理性批判』第2版に至って外的経験と並ぶ「内的経験」という概念を彫琢したが、これも経験であるかぎりすでに客観的妥当性を持つ。つまり、私に具体的に現れている現象をそのまま記述するとき、その現象記述はいかなる位置を占めるか、それがカントでは難問として残されているのである。

    現象と表象
    また、現象については、しばしば「表象」という概念との異同が問題となる。その使われ方は混乱しており、現象が表象と同義であったり、また、表象が特に単なる主観的妥当性しかもたないような現象を意味することもある。日本語では区別がはっきりしないが、ドイツ語の“Erscheinug”(現象)と“Vorstellung”(表象)との区別は明確であり、前者は何ものかの現れという自動詞の名詞化であるが、後者は私が私の前に何ものかを立てるという他動詞の名詞化である。前者は物理現象とも心理現象とも言うように語自体に存在論的な限定はないが、後者は私が私の前に立てるものであり、その操作の限り「ある」という主観的存在の色合いが濃厚になる。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の冒頭で「世界は私の表象である」と宣言するが、こう語ることによって彼は、世界は何ものかの「現れ」であると言いたかったのではなく、私が私の前に立てるものにすぎない、したがって私を離れて無かもしれない、と言いたかったのである。
    カントにおいては、表象は物自体との対比で図式的に使用されている。私に現れる世界(現象)はそれ自体として存在するもの(物自体)ではなく、私の思考と直観との協同によって構築したもの(表象)だ、というのがカントにおける両概念の基本的な使用法である。つまり、表象は特に物自体の絶対的実在性というあり方に対する「超越論的観念性」というあり方を強調するときに使われる。

    カント以降
    ドイツ観念論は、ヘーゲルによる「意識の経験の学」を含み、科学的認識をことごとく取り入れた正しい現れ(=現象)と誤った現れ(=仮象)という、カントの現象と仮象の区別をほぼ侵襲している。だが、フッサールによる「現象学」は、現象とう地平を獲得する方法論を洗練させながら。「Schein=現れ」すなわち「中間物」であるというランベルトの視点から取り戻している。カントにおいて現象はわれわれには未知の物自体の「現れ」として捉えられているが、現象学において現象とはわれわれに未知のXが「現れる」ことではない。それは、われわれにみずからをその通りに告知する作用である。現象学にとって、現象と現象の背後世界との関係が問題なのではなく、むしろいったんあらゆる(物理学のような)事実学を遮断してこうした「現れ」の世界を記述し、次にこうした現象学による事実学への関係づけが問題なのである。これは、仮象の言語と物理学の言語との関係を求めるというランベルトの構想に沿っている。すなわち、カントが物理学のうちに認められるア・プリオリな総合判断をみずからのうちにも含むような学としての形而上学を目指すのに対して、フッサールはむしろ物理学などの事実学を徹底的に排して、「現れ」に戻ることにより開かれる現象学的地平を目指していると言えよう。
    ***************************
    表象(読み)ひょうしょう
    日本大百科全書(ニッポニカ) 「表象」の意味・わかりやすい解説
    表象
    ひょうしょう

    一般に心または意識に現前するものを意味する。通常は、representation(英語)、représentation(フランス語)、Vorstellung(ドイツ語)の訳語として使われる。英語、フランス語の語源であるラテン語repraesentatioは「ふたたび(re-)現前せしめること(praesentatio)」を意味することからも明らかなように、「表象」の語は、少なくとも近世以後の用法においては、人間の「意識」の対象定立作用、反省作用に相関する対象の側面を指示する用語として使われる。

     いっさいを人間の意識に取り込んで考えようとする、近世のデカルト以来の意識内在主義的、主体主義的哲学は、カントを受け継いで世界のいっさいを人間意識の表象に解消させるショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」の哲学から、さらにそれを受けて、同じく世界のいっさいを権力意志による解釈の産物とみなすニーチェの「遠近法主義」の哲学において一つの頂点に達するとみることができる。この近世の人間中心主義的な主体主義の哲学、あるいは形而上(けいじじょう)学は、まさに、西欧近世の合理主義的技術文明の基盤をなすものにほかならない。しかし今日では、いっさいの事物を、人間意識の操作対象という側面からだけみることの一面性への反省が、さまざまな角度から現代哲学の主要テーマの一つとなっている。

    [坂部 恵]
    **********************
    ここで押さえておいてもらいたいのは、
    表象とは「私が前に置くもの」にすぎないのであって、あくまで「主観にとっての客観である」ということ。
    それともう一つ、私が前に置くものにすぎないので、「仮象」という意味合いをもつということ。
    ですから、表象世界というのは、自己漫画の第4図の世界に相当します。

    それに対して、カント以降、特に、ラッセルやフッサール、マッハ、論理実証主義など、現象主義に分類される立場における「現象」とは、真に我々が知るものであり、ラッセルや論理実証主義の立場では、むしろ現象こそ不可疑であり真なる知識の源泉(基礎)だとみなされます。

    わかりやすい説明を試みます。
    いまここに立ち現われている知覚事象(ここでは視覚事象)の把握の仕方。

    「表象」把握:「見るもの―見られるもの」「知覚主体―知覚対象」「主―客」図式による把握。
           表象世界=ショーペンハウアー図的光景=客観的世界

    「現象」把握:「(《私》に)見えるもの」=直接経験、という一元把握。
           現象世界=マッハ図的光景=主観的世界


    このとき、
    現象=直接経験(知覚経験)
    という意味にもなります(ですから、入不二さんの『ウィトゲンシュタイン』の説明に出てくる「直接経験」は「現象」と言い換えることができます。
    物理的世界はむしろ現象から論理的に構成されたもの、ということになります。
    ですから、ラッセルが掲げたプログラムは、ランベルトの後継とも言うべきものですが、現象には仮象という意味はありません。いわば逆なんですね。
    むしろ現象こそ直接知るところのもので、不可疑なもの、ということになります。
    ラッセルのプログラムは、自ら開発した論理的分析の方法を用いて、物理的言語を現象言語に分析する、翻訳することだと言えば、おおざっぱなイメージが得られると思います。
    これは、フッサールの現象学的還元と、近い考えとも言えます。
    『論考』は、このプログラムの原理的基礎付けだと私は解釈しています。
    ですから、「要素命題」は、現象命題である、とする解釈なのです。
    これは、ラッセルや論理実証主義者など、ウィトゲンシュタインと直接『論考』について話したり説明を受けた人たちが『論考』解釈としてとっていた立場です。
    にもかかわらず全く不思議なことに、現在これを主張する人は少ないです(まあ、省略しますが、解釈史的な理由があるのですけどね)。
    入不二さんも、『論考』解釈としては現象主義的解釈を採っておらず、いわば中立的な立場をとっているようです。野矢茂樹先生も、そういう感じの立場です。

引用返信/返信 削除キー/
■33324 / inTopicNo.27)  Re[9]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/21(Thu) 17:13:37)
    knowingitselfさん、レスをありがとうございます。

    No33319に返信(knowingitselfさんの記事)
    > ザビビのふくろうさん レスありがとうございます
    >
    > >藤田さんは、永井の哲学で自分たちの経験を言語化できる期待をもっておられるような気もしましたが。
    >
    > 山下さんも藤田さんも、そういう期待をもっていることは間違いないと思います。
    >
    > 藤田さんは、相当の多読家ですね。古東哲明さんとの対談を収録した著作もあります。永井均さんと共に古東さんの著作も以前から愛読していたそうです。彼の「ハイデガー=存在神秘の哲学」講談社現代新書はわたしも好きで読んでますが(笑)
    >

    なんと、そうなんですか!
    私も古東さんの著作が好きで、たぶんほとんど全部読んでいます。
    『瞬間を生きる哲学』
    って著作はご存知ですか?
    ここにサティーについて書かれた文章があって、藤田さんや山下さんが読まれたら面白いんじゃないかなと思ってたんですが、じゃあ、少なくとも藤田さんは読まれているでしょうね。

    > 山下さんは、昔わたしが「一法庵」におじゃましたとき、簡素な部屋に井筒俊彦の著書がおいてあったのが印象的ですね、

    あら、そうなんですか。
    じゃあ、西田幾多郎についてもご存知かもしれませんね。

    情報、ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■33403 / inTopicNo.28)  Re[10]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ knowingitself -(2023/09/22(Fri) 13:31:47)
    ザビビのふくろうさん レスありがとうございます。

    >『瞬間を生きる哲学』って著作はご存知ですか?

    古東さんの本は2冊手元にありますが、もう一冊はそれです(笑)。

    サティについての文章は、禅宗的な発想だと思います。山下さんのサティとはだいぶ違うかな。

    >> 山下さんは、昔わたしが「一法庵」におじゃましたとき、簡素な部屋に井筒俊彦の著書がおいてあったのが印象的ですね、

    >じゃあ、西田幾多郎についてもご存知かもしれませんね

    ウィトゲンシュタインの研究者でもある黒崎宏さんがこの1〜2年、二冊著書を出されましたね。それを読むと、西田幾多郎の真の後継者は井筒俊彦みたいな書きぶりでした。井筒俊彦には西田幾多郎が流れ込んでいると思います。

    山下さんはもともとは、デカルトを読むためにフランス文学を選んだとかで、卒論はデカルトじゃなかったかな。
    大学の頃は神田の古本屋に入り浸った時期もあって、通った大学より神田古本屋街が大学だと冗談を言ってました(笑)

    あとですね、「バージョンII」でも最後に途中参加している柳田敏洋神父に「神を追いこさない」という著作がありますが、その中に、第四図と第五図の二重構造について、トマスアクィナスを手がかりにした解説文が付論として掲載されています。これも読む価値があると思います。

引用返信/返信 削除キー/
■33410 / inTopicNo.29)  Re[11]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/22(Fri) 19:38:11)
    knowingitselfさん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。


    No33403に返信(knowingitselfさんの記事)
    > ザビビのふくろうさん レスありがとうございます。
    >
    > >『瞬間を生きる哲学』って著作はご存知ですか?
    >
    > 古東さんの本は2冊手元にありますが、もう一冊はそれです(笑)。
    >

    なんと(笑)

    > サティについての文章は、禅宗的な発想だと思います。山下さんのサティとはだいぶ違うかな。
    >

    ああ、そうなんですか。さすがお詳しいですね。

    > >> 山下さんは、昔わたしが「一法庵」におじゃましたとき、簡素な部屋に井筒俊彦の著書がおいてあったのが印象的ですね、
    >
    > >じゃあ、西田幾多郎についてもご存知かもしれませんね
    >
    > ウィトゲンシュタインの研究者でもある黒崎宏さんがこの1〜2年、二冊著書を出されましたね。それを読むと、西田幾多郎の真の後継者は井筒俊彦みたいな書きぶりでした。井筒俊彦には西田幾多郎が流れ込んでいると思います。
    >

    黒崎先生は、私がウィトゲンシュタインを読み始めた当初から、大変お世話になっている方です(向こうはご存知ありませんが(笑))。
    なので、ウィトゲンシュタイン関係の著作はほぼ全部読んでいますが、禅仏教関係はまだ読めていないんですよね。
    近いうちに読みたいと思っているのですが。
    井筒は『意識と本質』は部分的に読んだことがありますが、ちょっと先入観というか、偏見があって、きちんと読めていません。
    西田はけっこう好きなので、黒崎先生がそうおっしゃっているなら、井筒もまた、読めるかもしれません。


    > 山下さんはもともとは、デカルトを読むためにフランス文学を選んだとかで、卒論はデカルトじゃなかったかな。
    > 大学の頃は神田の古本屋に入り浸った時期もあって、通った大学より神田古本屋街が大学だと冗談を言ってました(笑)
    >

    ああ、ありがちかも(笑)

    > あとですね、「バージョンII」でも最後に途中参加している柳田敏洋神父に「神を追いこさない」という著作がありますが、その中に、第四図と第五図の二重構造について、トマスアクィナスを手がかりにした解説文が付論として掲載されています。これも読む価値があると思います。
    >

    情報ありがとうございます。
    読みたい本が増えると困るんですが(笑)

    それにしてもknowingitselfさんは、書斎派というか引きこもりの私なんかと違い(笑)、行動・実践の人なんですね。
    また守備範囲も広そうですね。
    もし差し支えなければ、ご自身で、専門と言うか軸足をおいていらしゃるのはどのあたりか教えていただけますか?

引用返信/返信 削除キー/
■33417 / inTopicNo.30)  < >の中はなぜ私なのか?
□投稿者/ きまぐれ -(2023/09/22(Fri) 21:57:26)
    『<私>の哲学を哲学する』などで、入不二が無内包の現実性として< >だけで表現していたような気がするのですが(最近、永井・入不二どころか西洋哲学からも遠ざかりつつあるので、稚拙な問いかもしれませんが(どちらかというと永井晋先生の方が興味があります))、なぜ< >の中は“私”なのでしょうか?
    仏教的には我執になるのでは?
引用返信/返信 削除キー/
■33421 / inTopicNo.31)  Re[10]: < >の中はなぜ私なのか?
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/23(Sat) 00:06:41)
    気まぐれさん、こんばんは。
    久しぶりですね〜!
    元気してましたか?

    No33417に返信(きまぐれさんの記事)
    > 『<私>の哲学を哲学する』などで、入不二が無内包の現実性として< >だけで表現していたような気がするのですが(最近、永井・入不二どころか西洋哲学からも遠ざかりつつあるので、稚拙な問いかもしれませんが(どちらかというと永井晋先生の方が興味があります))、なぜ< >の中は“私”なのでしょうか?
    > 仏教的には我執になるのでは?

    永井の〈私〉はそうなる気がしますね。
    入不二さんの「無内包の現実性」については、良くわかってないので、何とも言えません。すみません。

    永井晋先生って知りませんでした。
    現象学の人かな?
    気まぐれさんは、今は仏教ですか?


引用返信/返信 削除キー/
■33424 / inTopicNo.32)  Re[11]: < >の中はなぜ私なのか?
□投稿者/ 気まぐれ -(2023/09/23(Sat) 07:55:41)
    ふくろうさん

    おひさしぶりです。
    元気ですよ〜。
    ふくろうさんも皆さんも元気そうで何より^^

    入不二さんの無内包の現実についてはうろ覚えなので、私もよくわかりません。
    ただ、永井の<私>に限って言えば、< >の中は空欄の方がよいと思え、敢えて書くならば、有即無とでも書いた方がよいように思えます。この空欄は静的なものではなく(そもそもいかなる“もの”でもありませんが(対象化不可))、動的なものと捉え、常に基体性を拒絶する方がよいように思われます。入不二も無内包=全内包みないなことを言っていたような・・・。クヌーザスの反対の一致は入不二の十八番ですから。
    ところで、『仏教を哲学する』は読めていないのですが、こういう話、“私”の話題(<>の中はなぜ私なのか?みたいな)は出ないのですかね?


    永井晋先生は、現象学の方です。顕現せざるものの現象学方面で井筒やアンリコルバンを批判的に研究し、精神的東洋哲学を探究されています。

    私は、相変わらず西田哲学と、井筒に感化されてイスラム哲学のイブン・アラビー、その研究者である井筒と同世代のアンリ・コルバンなどを読んでいます。
    アンリコルバンは洋書なので、有志と一緒に少しずつ訳しながら。

    ふくろうさんとの間では恒例の(笑)、おすすめ書籍を記載します。
    まず、以前からお勧めしている井筒の論文「事事無礙・理理無礙-存在解体のあとー」です。『コスモスとアンチコスモス』等に収録されています。個人的には華厳宗はかなり示唆的に思え、井筒の華厳解釈は全体をイメージするのに有用に思えます。

    あとは西田関係で2冊。こっちのが興味あるかなと思います。

    ・西平直『西田幾多郎と双面性』
    井筒、華厳哲学を用いて西田哲学を解説されています。末木剛博先生の『西田幾多郎』も参照されていて面白かったです。ちなみに姉妹編で『井筒俊彦と二重の見』というのもあります。こちらも面白かったですがもう一つ何か欲しいという感じを受けました。

    ・板橋勇仁『底無き意志の系譜』
    タイトルだけでゾクゾクしません?(笑)
    ショーペンハウアーを軸にベーメ、シェリング、(ヘーゲル、)ニーチェ、西田幾多郎を系譜として論じておられます。こちらもかなり刺激になりました。

    読みたい本を増やしたくないのは重々承知していますが(笑)、気になったら是非〜。
引用返信/返信 削除キー/
■33425 / inTopicNo.33)  Re[6]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/23(Sat) 08:08:10)
    2023/09/23(Sat) 09:16:54 編集(投稿者)

    おはようございます、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No33286に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    >>知識不足で思いっきり返信が外れるかもしれませんが。。。
    >>科学的命題というのは実験を通じて反証可能性を有する命題であり、数学的命題というのは数学的な正誤判定が可能な命題ってことになりますかねぇ〜。
    >>いや、しかしゲーデル文なんかはどうなるんだか、わけわかめ(笑)。

    > あくまで『論考』に必要な観点から言えば、命題は、数学・論理学のようなアプリオリかつ分析的な論理的命題と、科学のようなアポステリオリかつ総合的な経験命題にわかれます。
    > 前者は何も語らず、後者こそがウィトゲンシュタインの言う「語る命題」であることになります。
    > 素朴に考えたら、科学的命題も、数学的命題も、普遍的、絶対的真理のようにも思えませんか?

    素朴に考えれば普遍的、絶対的真理のように思えることには同意しますが、私の感覚からすれば科学的命題は上書きされ続ける運命にあるとは思いますが。。。^^

    > でも、前者は経験的検証を必要とし、後者は必要としないで証明できるけど、その理由も含めて、これらは根本的に異なる命題だということを、くっきりはっきりさせたということです。(のちに、このくっきりはっきりがぼけてくるようですが)。
    > これは論理実証主義が『論考』に影響を受けてとった立場で、それ以外は無意味として、いわゆる形而上学的な伝統的哲学陣営との間に亀裂が入ってしまったわけです。

    なるほど。

    >>なるほど。やっぱ語り得なさが2種あるように思えます。
    >>論理と倫理はともにトートロジーである故に語り得ない。
    >>〈私〉の語り得なさとは差異があるような気がします。

    > これは永井も言っていたように、超越論的な語り得なさと、超越的語り得なさの二つがあるんです。
    > 倫理は超越的な語り得なさだと思います(トートロジーではありません)。
    > 超越的真理は命題で語ることも示すこともできないと思います。
    > 論理学と数学は分析的真理、命題によって示される(証明される)真理。
    > これは超越論的と言ってもいいと思います。

    倫理が超越的な語り得なさというのをもう少し詳しく教えてもらえますか?
    個人的には倫理がトートロジーだとか、超越的云々(例えば道徳的法則が我々にはアプリオリに備わっている等々)とは考えてないのですが。。。

    >>>>これも同様に図にしている時点で「私」と〈私〉の区別はなくなっています。
    > >>これはちょっと違って、図5に描かれた世界全体が世界の「限界としての《私》の世界」であって、中に涙型に描かれた視野世界の中にいるのが「私」であり、左端に書かれた黒丸が表象する主体の〈私〉になる感じですかね。

    >>ごめんなさい。この《私》という表記の意味(〈私〉との差異が)が分りません。
    > すみませんm(__)m
    > ついつい断りなく使っちゃいました

    全然、大丈夫です。^^

    > 主観により対象化された「私」
    > 思考し表象する主観を〈私〉 (〈私〉=ほかならぬこの私)
    > 世界の限界としての《私》  (《私》=比類のない私)

    > として区別しました。

    No33322の投稿(引用)ありがとうございました。No33289もありがとうございました。
    上記を読んだ上でも《私》という表記以前に「思考し表象する主観を〈私〉」とするなら、パニチェの〈私〉とは(おそらく永井氏の表記とも)異なる対象だと思います。
    「思考し表象する主観」というのはコギトのようなものでしょうか?

    >>>>マッハ的光景も誰にでも当てはまる光景になります。
    >>>>そういう意味では図5とマッハ的光景は差異はありません。

    > >>うーん、ですから、私が述べているのは、その「誰にでも当てはまる」=「一般的」ということに、経験的一般性(偶然的一般性)と、アプリオリ(必然的)な一般性があって、これを区別しないということは、マッハ図とショーペンハウアー図を同一視することで、これはまずいですよ、ってことなんです…。
    > >>まあ、パニチェさんとしてはどうして納得できないようなので、とりあえず、これは違いの確認ということで置いておきましょうか?

    >>ここはおそらく平行線になると思いますので、置いておくことに同意します。

    No33322に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > 以下に引用する内容は、私が前提としている哲学上の基本的知識にあたるもので、ショーペンハウアー図とマッハ図の論理的違いについて、パニチェさんの理解が得られないのも、この知識の共有ができていないことも原因として考えられるのかなとも思います。

    〈私〉に関して(〈私〉を指し示す文脈からして)「ショーペンハウアー図もマッハ的光景も誰にでも当てはまる図や光景であってその意味では同じだ」という時に、「誰にでも当てはまる」=「一般的」、経験的一般性(偶然的一般性)と、アプリオリ(必然的)な一般性を区別する必要はないと考えているということなんですが、ここはやはり平行線になると思います。


    No33287に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    >>5図は物自体の世界つまり現象界は意志がつくりだす幻想という構図として同じってことでしょうか?
    > そういうつもりだったと思うんですが、knowingitselfさんに書いたように、ちょと訂正したほうがいいかなと思います。

    失礼しました。No33284で確認しました。

    >>上記は永井氏がどこで言ってますか?
    > 前掲書227頁からの説明です。

    ありがとうござました。再読しました。

    > >>で、5図の自己へと転換する方法は、藤田さんはどちらかと言うとハイデガーに近いスタンスで、山下さんのほうは初期フッサールの現象学的還元から超越論的主観への超出、みたいな感じがします。
    > >>さらに言えば、山下さんの思想は、私にはむしろショーペンハウアーにそっくりだと思うんですね(笑)
    > >>慈悲による超越の問題は、ショーペンハウアーの共苦=同情の倫理学が答えになると私は思います。
    > >>ただ、永井の〈私〉として解釈していると、わからないと思いますが。

    > いや、私はやっぱり、それでも永井は昔から読んでいるし、ある程度つかめているので、パニチェさんをどうしても永井と同じとしてまず考えちゃうんですよ。パニチェさんの考えをまだつかめていないんで。永井との違いがまだわからないからだと思うんですが。

    永井氏の著書は昔から読まれていたのですね。
    永井氏のウィトゲンシュタイン解釈に批判的な意見をお持ちだということはこれまでのレス交換で分かりますが、「意識の超難問」や〈私〉に関してはザビビのふくろうさんはどういう見解をお持ちですか?
    またザビビのふくろうさんがどのような対象を〈私〉と表記されているのか興味があります。

引用返信/返信 削除キー/
■33426 / inTopicNo.34)  西田幾多郎と双面性
□投稿者/ knowingitself -(2023/09/23(Sat) 08:31:28)
    気まぐれさん はじめまして かなり井筒俊彦を読まれているとお見受けしました

    >アンリコルバンは洋書なので、有志と一緒に少しずつ訳しながら。

    アンリコルバンはフランス人ですね。わたしはまだ読んだことがありませんが、アンリコルバン→井筒俊彦の影響関係は強いと言われていますね。


    >あとは西田関係で2冊。こっちのが興味あるかなと思います。

    ・西平直『西田幾多郎と双面性』
    井筒、華厳哲学を用いて西田哲学を解説されています。末木剛博先生の『西田幾多郎』も参照されていて面白かったです。ちなみに姉妹編で『井筒俊彦と二重の見』というのもあります。こちらも面白かったですがもう一つ何か欲しいという感じを受けました。

    西平さんのこの二冊は読んでおり、手元にあります。ここは是非書き込みたいという卓見、よろしければご教示ください。
引用返信/返信 削除キー/
■33428 / inTopicNo.35)  Re[10]: < >の中はなぜ私なのか?
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/23(Sat) 09:10:04)
    2023/09/23(Sat) 09:28:28 編集(投稿者)

    初めまして、きまぐれさん。横レス失礼します。
    以下は話が通じない可能性はありますが、私なりの結論のみレスしてみます。

    No33417に返信(きまぐれさんの記事)
    > 『<私>の哲学を哲学する』などで、入不二が無内包の現実性として< >だけで表現していたような気がするのですが(最近、永井・入不二どころか西洋哲学からも遠ざかりつつあるので、稚拙な問いかもしれませんが(どちらかというと永井晋先生の方が興味があります))、なぜ< >の中は“私”なのでしょうか?

    〈 〉だけにすると独在性が抜け落ちてしまい、禅宗で言うところの普遍的な見性と区別がなくなります。

    > 仏教的には我執になるのでは?

    我執にはならないと思います。
    〈 〉の中に表記される〈私〉は原始仏典で言うところの非我です。
引用返信/返信 削除キー/
■33432 / inTopicNo.36)  Re[12]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ knowingitself -(2023/09/23(Sat) 11:31:13)
    ザビビのふくろうさん レスありがとうございます

    >行動・実践の人なんですね。また守備範囲も広そうですね。
     
    まったくそういうことはないですね。

    >もし差し支えなければ、ご自身で、専門と言うか軸足をおいていらしゃるのはどのあたりか教えていただけますか?

    得意分野はないと思います。わたしがどういうものに関心があるかは、投稿から自ずと滲み出ているはずですね。
引用返信/返信 削除キー/

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