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No33322 の記事


■33322 / )  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/21(Thu) 17:01:58)
    パニチェさん、こんにちは。

    実は、これまで説明しようと思っては機会を失っていたことがあります。
    ですが、ある意味、目下の我々の考察に最も重要な意義があると言っても過言ではないことなので、遅ればせながら、ちょっと長くなると思いますが、ここで述べてみたいと思います。

    以下に引用する内容は、私が前提としている哲学上の基本的知識にあたるもので、ショーペンハウアー図とマッハ図の論理的違いについて、パニチェさんの理解が得られないのも、この知識の共有ができていないことも原因として考えられるのかなとも思います。
    それは、「表象」と「現象」の学術用語としての意味です。
    これについて、以前、悪魔ちゃんが中島義道さんの著書からか引用されていた文章があり、大変参考になりますので、再掲させてもらいます。悪魔ちゃん、ありがとうございます。
    あともうひとつ、辞典から坂部先生による「表象」の説明も引用しておきます。

    なお、この投稿についても特に返信は不要です。
    ただ、上記用語の意味については、理解しておくことはパニチェさんにとってもプラスになると思いますので、長いですが、目を通していただきたく思いますm(__)m
    ***************************
    No27106
    中島義道さんの「現象・表象」の。
    No26793に前に一部書いたけど、このさいだから、全部書き写しておきます。

    (資料2)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    現象・仮象     中島義道

    現象と仮象という両概念は、哲学的にはカントの時代まで正確に区別されることはなかったが、それも当然である。なぜなら、ドイツ語における「現象」(Erscheinung)には「真」という意味が含まれておらず、また「仮象」(Schein)も「仮」という意味を特に担っていないからである。“Erscheinung”も“Schein”も「現れ」であって、ここに真偽ないし正誤の問題はもともと入っていない。ドイツ語では成績表も紙幣も身分証も“Schein”と呼ぶ。これらは「誤った現れ」ではなく、むしろ何ものかの「真の現れ」なのだ。こうした文脈において、カントと彼の同時代人ランベルトとを比べると、両概念がまったく異なった方向に彫琢(宝石などを加工研磨すること、詩や文章を推敲し立派なものにすること、美しく磨き上げる)されてゆくのを看取(見てそれを知ること、観取)できて興味深い。その後ヘーゲルやフッサールの現象学における現象概念も、また両解釈の間を揺れ動いていると言えよう。

    仮象の両義性
    ランベルト(1728-1777)は「現象学」(Phänomenologie)という用語をはじめて使用したとされるが、彼の現象学とは「仮象の学」にほかならない。この場合、仮象という概念に「真」に対する「偽」という意味合は含まれていない。仮象とはあくまでも真偽以前の「中間物」であり、何ごとにせよ見えるがまま・現れるままの事柄であって、これはドイツ語の“Schein”の意味を忠実に保っていると言えよう。こうした基本的態度のもとに、彼は「超越的仮象」「生理的仮象」「道徳的仮象」「病理学的仮象」「天文学的仮象」等々詳細な分類を施している。彼のプランは、こうした見えるままに記述する「仮象の言語」と、物に即した「物理学の言語」との間に翻訳規則を作ることであった。
    カントはこのランベルトの構想を一部引き受け、『純粋理性批判』をはじめ『現象学』というタイトルにしようとしたほどほどである。しかし、この構想をカントは大きく変容させ、仮象を「誤った現れ」という意味に限定した。それは「錯覚」とほぼ同義であり、広く主観的にそう見える(思われる)ものを客観的だと誤って判断するときに生ずるものである。仮象には経験的仮象と超越論的仮象がある。前者は、昇る月の大きさを対象としての月の大きさと錯覚するとき(月の錯視)や、岸の上に海が見えると、対象としての海が対象としての岸より上にあると判断するときなどに生ずる。そして、後者こそカントがもっとも注目したものであり、理性そのものが有する本性であって、本来可能な経験の範囲内で有効なカテゴリーを、経験を超える領野にも使用し、「世界全体の量は有限あるいは無限である」「魂は実体(不滅)である」「神は存在する」等々の誤った結論を導き出してしまうことである。
    こうした変容の過程で、ランベルトにおいては特に積極的な意味を持っていなかった現象は、カントにおいては積極的に経験内の「真の現れ」という意味を受け持つことになる。現象と仮象との区別は、とりわけ『自然科学の形而上学的原理』の第4章「現象学の形而上学的原理」において鮮明である。カントは互に等速度直線運動する二つに物体A,Bについては、ガリレイの相対性原理をそのまま認めて、どちらかが真のつまり実在的な運動であるわけではないと言う。両者ともに、可能的運動として等価なのである。しかし、円運動のように実在的な力が実在的な力が加わるような等速度運動においては、力が実在的であるがゆえに、そこには真の実在的運動が成立している。その場合、円運動の上に座標を組むと、その座標においては外界の運動は反対の方向の円運動として知覚されるであろう。しかし、もしそれを真の実在的運動であるとみなすなら、そのときはじめて「仮象」が生ずるのである。言い換えれば、そう見なさないとき、円の外の観察者にとっての円運動も円の上の観察者にとっての反対方向の円運動も、ともに現象である。同様にして、互いに等速度直線運動する二つの物体A,Bの上にある自分自身の運動も相手の運動も現象である。

    現象の両義性
    だからカントの場合、実は現象は二義的である。運動学のようなカテゴリーを適用した客観的妥当世界のみが現象であるわけではない。もうひとつ、夢や幻おみならず、私の目や耳に触れるある印象や私の舌に感じられる味わいや、私の手に触れる感触等々、いわゆる主観的現象もまた現象である。それらは「誤り」であるわけではなく、ただ主観的妥当性をもつにすぎないだけである。こうした現象はランベルトの「中間物」として仮象に近づいており、また偽と判断されたわけではなく真偽以前の「現れ」である。これら主観的妥当性を持つにすぎないものをいかに捉えるかが、カントの現象理解の鍵とも言える。カントは『プロレゴメナ』で主観的妥当性のみを持つ知覚判断と客観的妥当性を持つ経験判断の区別を推し進め、主観的妥当性の領野を確保しようとしたが、それはうまく超越論的観念論の体系の中におさまることはなかった。カントは『純粋理性批判』第2版に至って外的経験と並ぶ「内的経験」という概念を彫琢したが、これも経験であるかぎりすでに客観的妥当性を持つ。つまり、私に具体的に現れている現象をそのまま記述するとき、その現象記述はいかなる位置を占めるか、それがカントでは難問として残されているのである。

    現象と表象
    また、現象については、しばしば「表象」という概念との異同が問題となる。その使われ方は混乱しており、現象が表象と同義であったり、また、表象が特に単なる主観的妥当性しかもたないような現象を意味することもある。日本語では区別がはっきりしないが、ドイツ語の“Erscheinug”(現象)と“Vorstellung”(表象)との区別は明確であり、前者は何ものかの現れという自動詞の名詞化であるが、後者は私が私の前に何ものかを立てるという他動詞の名詞化である。前者は物理現象とも心理現象とも言うように語自体に存在論的な限定はないが、後者は私が私の前に立てるものであり、その操作の限り「ある」という主観的存在の色合いが濃厚になる。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』の冒頭で「世界は私の表象である」と宣言するが、こう語ることによって彼は、世界は何ものかの「現れ」であると言いたかったのではなく、私が私の前に立てるものにすぎない、したがって私を離れて無かもしれない、と言いたかったのである。
    カントにおいては、表象は物自体との対比で図式的に使用されている。私に現れる世界(現象)はそれ自体として存在するもの(物自体)ではなく、私の思考と直観との協同によって構築したもの(表象)だ、というのがカントにおける両概念の基本的な使用法である。つまり、表象は特に物自体の絶対的実在性というあり方に対する「超越論的観念性」というあり方を強調するときに使われる。

    カント以降
    ドイツ観念論は、ヘーゲルによる「意識の経験の学」を含み、科学的認識をことごとく取り入れた正しい現れ(=現象)と誤った現れ(=仮象)という、カントの現象と仮象の区別をほぼ侵襲している。だが、フッサールによる「現象学」は、現象とう地平を獲得する方法論を洗練させながら。「Schein=現れ」すなわち「中間物」であるというランベルトの視点から取り戻している。カントにおいて現象はわれわれには未知の物自体の「現れ」として捉えられているが、現象学において現象とはわれわれに未知のXが「現れる」ことではない。それは、われわれにみずからをその通りに告知する作用である。現象学にとって、現象と現象の背後世界との関係が問題なのではなく、むしろいったんあらゆる(物理学のような)事実学を遮断してこうした「現れ」の世界を記述し、次にこうした現象学による事実学への関係づけが問題なのである。これは、仮象の言語と物理学の言語との関係を求めるというランベルトの構想に沿っている。すなわち、カントが物理学のうちに認められるア・プリオリな総合判断をみずからのうちにも含むような学としての形而上学を目指すのに対して、フッサールはむしろ物理学などの事実学を徹底的に排して、「現れ」に戻ることにより開かれる現象学的地平を目指していると言えよう。
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    表象(読み)ひょうしょう
    日本大百科全書(ニッポニカ) 「表象」の意味・わかりやすい解説
    表象
    ひょうしょう

    一般に心または意識に現前するものを意味する。通常は、representation(英語)、représentation(フランス語)、Vorstellung(ドイツ語)の訳語として使われる。英語、フランス語の語源であるラテン語repraesentatioは「ふたたび(re-)現前せしめること(praesentatio)」を意味することからも明らかなように、「表象」の語は、少なくとも近世以後の用法においては、人間の「意識」の対象定立作用、反省作用に相関する対象の側面を指示する用語として使われる。

     いっさいを人間の意識に取り込んで考えようとする、近世のデカルト以来の意識内在主義的、主体主義的哲学は、カントを受け継いで世界のいっさいを人間意識の表象に解消させるショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」の哲学から、さらにそれを受けて、同じく世界のいっさいを権力意志による解釈の産物とみなすニーチェの「遠近法主義」の哲学において一つの頂点に達するとみることができる。この近世の人間中心主義的な主体主義の哲学、あるいは形而上(けいじじょう)学は、まさに、西欧近世の合理主義的技術文明の基盤をなすものにほかならない。しかし今日では、いっさいの事物を、人間意識の操作対象という側面からだけみることの一面性への反省が、さまざまな角度から現代哲学の主要テーマの一つとなっている。

    [坂部 恵]
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    ここで押さえておいてもらいたいのは、
    表象とは「私が前に置くもの」にすぎないのであって、あくまで「主観にとっての客観である」ということ。
    それともう一つ、私が前に置くものにすぎないので、「仮象」という意味合いをもつということ。
    ですから、表象世界というのは、自己漫画の第4図の世界に相当します。

    それに対して、カント以降、特に、ラッセルやフッサール、マッハ、論理実証主義など、現象主義に分類される立場における「現象」とは、真に我々が知るものであり、ラッセルや論理実証主義の立場では、むしろ現象こそ不可疑であり真なる知識の源泉(基礎)だとみなされます。

    わかりやすい説明を試みます。
    いまここに立ち現われている知覚事象(ここでは視覚事象)の把握の仕方。

    「表象」把握:「見るもの―見られるもの」「知覚主体―知覚対象」「主―客」図式による把握。
           表象世界=ショーペンハウアー図的光景=客観的世界

    「現象」把握:「(《私》に)見えるもの」=直接経験、という一元把握。
           現象世界=マッハ図的光景=主観的世界


    このとき、
    現象=直接経験(知覚経験)
    という意味にもなります(ですから、入不二さんの『ウィトゲンシュタイン』の説明に出てくる「直接経験」は「現象」と言い換えることができます。
    物理的世界はむしろ現象から論理的に構成されたもの、ということになります。
    ですから、ラッセルが掲げたプログラムは、ランベルトの後継とも言うべきものですが、現象には仮象という意味はありません。いわば逆なんですね。
    むしろ現象こそ直接知るところのもので、不可疑なもの、ということになります。
    ラッセルのプログラムは、自ら開発した論理的分析の方法を用いて、物理的言語を現象言語に分析する、翻訳することだと言えば、おおざっぱなイメージが得られると思います。
    これは、フッサールの現象学的還元と、近い考えとも言えます。
    『論考』は、このプログラムの原理的基礎付けだと私は解釈しています。
    ですから、「要素命題」は、現象命題である、とする解釈なのです。
    これは、ラッセルや論理実証主義者など、ウィトゲンシュタインと直接『論考』について話したり説明を受けた人たちが『論考』解釈としてとっていた立場です。
    にもかかわらず全く不思議なことに、現在これを主張する人は少ないです(まあ、省略しますが、解釈史的な理由があるのですけどね)。
    入不二さんも、『論考』解釈としては現象主義的解釈を採っておらず、いわば中立的な立場をとっているようです。野矢茂樹先生も、そういう感じの立場です。

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