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■33206 / inTopicNo.13)  Re[4]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
  
□投稿者/ knowingitself -(2023/09/19(Tue) 16:42:15)
    パニチェさんレスありがとうございます。

    >>「仏教3・0を哲学する」については、バージョンUの方で
    >>内山興正の自己漫画は背景にカント哲学があると永井氏の解説がありますね。
    >>ここは非常興味深いと思います。
    >
    >>第四図がカテゴリー的な構成、現象のことなら、第五図は物自体となりますか?
    >
    > ここもう少し詳しくお願いします。

    わたしは難解なカント哲学を理解しているとは到底いえないので、むしろこの点に一家言ある人たちの意見を伺いたいくらいです。が、この図はカントの「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」の相互関係を直観的につつかみやすいと思ったのです。

    第四図と第五図は内容的に同じ図ですね?人間は物自体は認識できない、認識できるのは「現象」だけだと。坐禅のポーズのアタマの中の図を「現象」とするなら、それを超えるものはないんだと。

    ただ、道徳や倫理、定言命令からは、唯一、物自体にいける。これは「実践理性批判」ですね。「仏教3・0」では三人とも第五図で慈悲を強調するのは、カント哲学の仏教バージョンのようなものかと。山下さんはとくに慈悲をメチャクチャ強調します。

    内山興正の自己漫画図とカント哲学を結びつける発想は、永井さんの書き物なしにはわたしには到底出てこない(笑)、読んでよかったと思いましたよ。
引用返信/返信 削除キー/
■33207 / inTopicNo.14)  Re[4]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/19(Tue) 17:10:56)
    2023/09/19(Tue) 21:49:47 編集(投稿者)
    2023/09/19(Tue) 17:20:59 編集(投稿者)
    2023/09/19(Tue) 17:13:21 編集(投稿者)

    パニチェさん、knowingitselfさん、こんにちは。
    横入り嬉しいです^^


    No33127に返信(パニチェさんの記事)
    > お久しぶりです、knowing itselfさん。レスありがとうございます。
    > 以下はもの凄い的外れなレスになりますがご容赦を。
    >
    > ■No33110に返信(knowingitselfさんの記事)
    >
    >>「仏教3・0を哲学する」については、バージョンUの方で
    >>内山興正の自己漫画は背景にカント哲学があると永井氏の解説がありますね。
    >>ここは非常興味深いと思います。
    >
    >>第四図がカテゴリー的な構成、現象のことなら、第五図は物自体となりますか?
    >

    > ここもう少し詳しくお願いします。
    >

    私としては、第4図についての藤田、山下両氏のとらえ方を読むと、ハイデガーの『存在と時間』における、共同世界内存在としての頽落した在り方――Das Man――のとらえ方とほどんと同じように感じました。

    5図の世界は、私はカントというより、ショーペンハウアーの物自体の世界と近い気がします。しかし、knowingitselfさんの

    >ただ、道徳や倫理、定言命令からは、唯一、物自体にいける。これは「実践理性批判」ですね。「仏教3・0」では三人とも第五図で慈悲を強調するのは、カント哲学の仏教バージョンのようなものかと。山下さんはとくに慈悲をメチャクチャ強調します。

    という見解は同意します。鋭いと思います。

    【編集追加訂正】
    knowingitselfさん、褒めておいて大変失礼なんですけど、
    読みなおしたら、永井が言ってましたね。
    申し訳ありません。

    で、5図の自己へと転換する方法は、藤田さんはどちらかと言うとハイデガーに近いスタンスで、山下さんのほうは初期フッサールの現象学的還元から超越論的主観への超出、みたいな感じがします。
    さらに言えば、山下さんの思想は、私にはむしろショーペンハウアーにそっくりだと思うんですね(笑)
    慈悲による超越の問題は、ショーペンハウアーの共苦=同情の倫理学が答えになると私は思います。
    ただ、永井の〈私〉として解釈していると、わからないと思いますが。

    >>この自己漫画図がのっている「進みと安らい」は、内山興正が気に食わないとか、行き詰まったとか、再版させなかったいわくつきの書物のようで、一般的な仏教や禅をはみ出るような要素があるのではと論評されるようですね。ネルケ無方さんなんかは行き詰まりだと。永井氏は仏教を超えるところがあるからこの書を評価するという説ですね。
    >
    > そうなんですね。
    >
    >>山下良道さんは、自己漫画図に出会ったことが安泰寺を選んだ大きな動機だといっていますが、永井氏のこの説明をきくまては、背景にそこまでカント哲学があることに思い至らなかったようでもあります。ここはさすが哲学者の永井氏でしょう。
    >
    > 永井氏のP189〜P209の説明って私はいるのかな?と思ってしまうのです。
    > むしろ余計に〈私〉を分かりにくくしている。カントやデカルトを持ち出す必要性があるとは思えず、むしろ永井氏は何のために持ち出しているのかとさえ思ってしまいます。こねくり回しすぎというか。。。(笑)
    > 〈私〉や自己漫画図の理解にはデカルトやカントは必要ないですからね。^^;
    >

    このパニチェさんの見解は、私には意外でした。
    私には、〈私〉のわかりやすい説明になっていると思えたからです。
    それに、パニチェさんの説明とも一致しているように思えたからです。
    例えば、同書192頁

     まだコスモスになっていないカオスとしての世界の開けです。もちろん主客未分です。

    は、No33130での
    >マトリックスの映画(あと「桶の中の脳(水槽の脳)」とか「一炊の夢(邯鄲の夢)」も含めて)は設定からして「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に真の人体が実在している」ということになってますので少し無念無想の境地とは異なると思いますが、強いて残るとするなら西田哲学の純粋経験みたいな主客未分の〈私〉ですかね

    の<私>と近い気がするんですが、違いますかね?

引用返信/返信 削除キー/
■33243 / inTopicNo.15)  Re[5]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ knowingitself -(2023/09/20(Wed) 07:44:29)
    ザビビのふくろうさん レスありがとうございます。
    とりあえず最初のところを返信します。続く予定です。

    > >>第四図がカテゴリー的な構成、現象のことなら、第五図は物自体となりますか?
    > >
    >
    >>ここもう少し詳しくお願いします。
    >>
    >
    > 私としては、第4図についての藤田、山下両氏のとらえ方を読むと、ハイデガーの『存在と時間』における、共同世界内存在としての頽落した在り方――Das Man――のとらえ方とほどんと同じように感じました。

    内山興正本人がハイデガーの影響を受けているのは間違いないでしょう。第四図の意味としてはそう読むこともありですね。

    ただ、第四図を素朴にみると、世俗的な価値を追い求める共産、共同体やグループの間の分離と闘争、そういうのは虚しいよで終わってもいい。それをカント的な現象にするなら、人間の認識・体験するすべては第四図を出れない、そそれと同じ図の根底にある第五図というように、射程がはるかに広がると思うですよ。

引用返信/返信 削除キー/
■33248 / inTopicNo.16)  Re[6]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ knowingitself -(2023/09/20(Wed) 14:49:11)
    ザビビのふくろうさんへ。

    ショーペンハウアーはカントを尊敬して、ある程度その哲学の枠組みを継承したと聞きますが、どうなんでしょうか。物自体もショーペンハウアーの独自の哲学を加味したと?第五図にショーペンハウアーをもってくるのも、ありうる説明だと思います。山下さんはそこまで考えていないはずですが。

    山下さんの場合は、哲学者を読んだり、哲学的思索をしたりには、もはやほとんど興味を持っていないと思います。
    彼にとっての第五図は、涅槃、ニルバーナ、お浄土、キリスト教なら天国のことでしょう。理屈ではなく、瞑想実践で直接体験する領域としてのニルバーナ。永井哲学を理解しようとかフォローするというより、かつて師事した内山興正の自己漫画図を説得的に説明する永井氏と出会っただけで十分という感じではないでしょうか。


    やはり永井さんは根っからの哲学者、山下さんは救済を具体的に求める宗教者、まるでタイプが違う。
引用返信/返信 削除キー/
■33249 / inTopicNo.17)  ショーペンハウアーとウィトゲンシュタイン
□投稿者/ knowingitself -(2023/09/20(Wed) 16:52:49)
    ショーペンハウアーといえば、かのウィトゲンシュタインがショーペンハウアーの影響を受けているともいわれている。ザビビのふくろうさんはこういうところも詳しそうですね。
引用返信/返信 削除キー/
■33255 / inTopicNo.18)  ザビビのふくろうさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/20(Wed) 21:21:02)
    こんばんは、ザビビのふくろうさん。レスありがとうございます。

    No33168に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    >>自分が意識を失っている間に何かしらの夢で見ているとするなら、その夢がマッハ図で描く世界になります。
    >>また世界内存在者としての「私」がいなくなった世界は普通に想像できますが、想像することと実体験することは違うと思います。
    >>夢の中で存在するのは「私」であって、その夢を見ている主体が〈私〉です。よって「私」が登場しない夢は見ることがあっても夢見る主体である〈私〉なくして夢を見ることも眠ることも不可能であるように思えるのです。
    >>ザビビのふくろうさんが言うように見解の相違になるんでしょうね。

    > ん?
    > ここは誤解があるんじゃないでしょうか?。
    > 夢の中に登場する私は「私」でしょうが、
    > 夢それ自体は、もちろん「〈私〉の夢」ですね。
    > これはいわば「夢の限界」としての《私》だと思いますよ。

    ここ確認です。上記の《私》というのはどういう意味での表記でしょうか?
    〈私〉との差異はありますか?

    > 私としては「夢見る主体」という表現は、「表象する主観」を意味するように思うので、避けたいところですが。

    パニチェ的には「夢見る主体」も「世界を見る主体」も「バーチャル世界を見る主体」も全て〈私〉ってことになりますが。。。。

    > わかりました。
    > 唯一つだけ。
    > 「情景自体は(他者と共有可能な)客観的なものであって」
    > っていうのは、私としてはちょっと受け入れがたいですね。

    受け入れがたいことは了解しました。^^

    > >>>解離性同一障害については同意します。
    > >>>確かに「〈私〉があったことが分かる」ってのは上記の定義からすれば矛盾してますね。
    > >>>ただ「私があった」から「私が眠っていた」ことが分かるわけで、〈私〉はなかったが私だけがあったてのもしっくりきません。
    > >>>私と〈私〉は不分離ですからね。


    > >>ただ、このへん、独我論を主張する場合は重要だと思います。
    > >>特にパニチェさんのように、知覚世界の存在と〈私〉の実在というふうに分離する考え方の場合、「見るもの―見られるもの」という図5の枠組み(主観―客観図式)で捉えられていると考えられるので、「見られるもの(客観)」が失われたとき、見るもの(主観)である〈私〉は残るのか、というのは問題だと思うんですね。
    > >>たとえば映画『マトリックス』のパニチェさんの説明(No32802)では、仮想世界と〈私〉は「存在のフィールドが異なる」と言い、「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に実在している」ともおっしゃっていたので、バーチャル世界(客観)が消滅しても〈私〉(主観)は消えないのかな、と思うんですが、どうですかね。
    > >>この解釈では、たとえば瞑想で無念無想の境地になっても〈私〉だけは残るって感じにも思えるんですが、そういうイメージは違うかな?

    >>マトリックスの映画(あと「桶の中の脳(水槽の脳)」とか「一炊の夢(邯鄲の夢)」も含めて)は設定からして「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に真の人体が実在している」ということになってますので少し無念無想の境地とは異なると思いますが、強いて残るとするなら西田哲学の純粋経験みたいな主客未分の〈私〉ですかね。

    > なるほど。パニチェさんの認識は一応わかったと思います。
    > 私としては、『マトリックス』のパニチェさん的解釈は、永井の図5と同じく私を外側から把握するものと思いますので、西田の純粋経験と同じようなものとするのは、無理ではないかな、と思います。すんませんm(__)m

    ザビビのふくろうさんがそのように解釈されることは了解しました。
    私としてはマトリックスの世界も夢も現実も全てマッハ的光景と同等で、客体化した永井の図5はありえない構図です。

    > そうですか(笑)
    > まあ、私、禅問答や公案をよく知りませんし、もう少し勉強してからまた出直します^^

    了解しました。^^


    No33170に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    >>T:6というのは「6.真理関数の一般的形式は、[記号省略]である。これは命題の一般形式である。」のことですね?

    > そうです。
    > はっきり言って不十分なんですが、いわば自然数を定義したペアノの公理のようなものですね。
    > ウィトゲンシュタインが『論考』で示した論理的記号法は、現在でも研究されています。それを実際に構成する試みもなされているようです。

    そうなんですね。

    > パニチェさんは、科学的命題と、数学的命題の違いってなんだと考えていますか?

    知識不足で思いっきり返信が外れるかもしれませんが。。。
    科学的命題というのは実験を通じて反証可能性を有する命題であり、数学的命題というのは数学的な正誤判定が可能な命題ってことになりますかねぇ〜。
    いや、しかしゲーデル文なんかはどうなるんだか、わけわかめ(笑)。

    > ウィトゲンシュタインの考えでは、論理的命題や数学的命題は何も語りません。(下に再掲されていますが、前回引用した講義録の文にも書いてあります。)
    > T:6.1 論理学の命題はトートロジーである。
    > T:6.11 論理学の命題は何も語らない。(それは分析的命題である)。
    > T:6.2 数学は論理的方法である。
    >     数学の命題は等式であるから、疑似命題である。
    > T:6.21 数学の命題は、思想を表現していない。

    なるほど。やっぱ語り得なさが2種あるように思えます。
    論理と倫理はともにトートロジーである故に語り得ない。
    〈私〉の語り得なさとは差異があるような気がします。

    > そうです。
    > No32917に私が添付した図と同じものですが、できたら私、これを「ショーペンハウアー図」と呼びたいんですよね。
    > パニチェさんはご自由でかまいませんが、私がこう言ったら、永井の図5と同じNo32917だと受け取ってくださいm(__)m

    了解しました。
    蛇足ですが、私が名付けるとするならマーヤー(幻影)の図ですね。^^

    >>これは図に描くこと自体が客体化した〈私〉になるので頽落しており、一般的な「私」になっています。
    > 同意します。

    >>ちなみに「〈仏教3.0〉を哲学するU P193」の図4なら世界の中の一人としても「私」になります。
    >>「私」であるなら図4の中の人物であり、図5で言うならアタマの展開する世界の中にいる一人としての(根本にあるわが生命ではなく)「私」ってことになるはずです。
    > 同意します。

    >>これも同様に図にしている時点で「私」と〈私〉の区別はなくなっています。
    > これはちょっと違って、図5に描かれた世界全体が世界の「限界としての《私》の世界」であって、中に涙型に描かれた視野世界の中にいるのが「私」であり、左端に書かれた黒丸が表象する主体の〈私〉になる感じですかね。

    ごめんなさい。この《私》という表記の意味(〈私〉との差異が)が分りません。

    >>マッハ的光景も誰にでも当てはまる光景になります。
    >>そういう意味では図5とマッハ的光景は差異はありません。

    > うーん、ですから、私が述べているのは、その「誰にでも当てはまる」=「一般的」ということに、経験的一般性(偶然的一般性)と、アプリオリ(必然的)な一般性があって、これを区別しないということは、マッハ図とショーペンハウアー図を同一視することで、これはまずいですよ、ってことなんです…。
    > まあ、パニチェさんとしてはどうして納得できないようなので、とりあえず、これは違いの確認ということで置いておきましょうか?

    ここはおそらく平行線になると思いますので、置いておくことに同意します。

    >>>>**********************

    > >>>ここもう少し詳しく教えて下さい。
    > >>>論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか?
    > >>>一般化されなければ論理法則は法則になりえませんよね?

    > >>ここも、
    > >>一般化される=誰にでも当てはまる語り
    > >>という前提があるように思われます。
    > >>論理法則とは、要するに論理的真理であって、同語反復命題によってあらわされますが、これは何事も語りません。
    > >>論理的真理は、命題自身がトートロジーであることによって真であることを示しているのです。
    > >>つまり、論理的命題は、写像ではありません。「鏡像」と言われています。
    > >>論理の研究はアプリオリな一般形式の研究です。

    > >>要するに、一般的言語理論であろうと一般的主観であろうと、「経験的一般性」ではなく、「形式的一般性」であれば、唯一性は失われない、ということです。
    > >>喩えれば、チェスの「白のキング」は世界中で唯一人であるように。
    > >>自然数の1も、世界中で唯一です。

    >>論理的真理も公理もスタート地点がトートロジーであることは理解できます。
    >>上記は「語り得ること」と「根拠が説明できること」と同じ意味で用いられていますか?
    >>私は「語り得ること」と「根拠が説明できること」は異なると考えています。
    >>よって論理的真理も公理も「語り得る」と。「語り得る」から論理的真理や公理足り得る。
    >>一方で〈私〉は「語り得ない」から文章や命題にすらなり得ないってことになります。

    > うーん、このパニチェさんの用法は、明らかに『論考』と異なりますね。
    > 上に引用しましたが、T:6.1番台にあるのを見てもらうのがいいかな。
    > とにかく、論理的真理は、命題自身が同語反復命題(トートロジー)であることによって示されるものであって、語られるものではないんですよ。だから、分析的命題なんです。

    『論考』と違うというとは理解しているつもりです。
    結論から言えば〈私〉は『論考』の語り得ない対象には含まれていないと(今のところ)考えています。
    『論考』で語り得ないのは、あくまでも「独我論」であって「独在論」ではない、と。

    >>トートロジーになるとか、真偽とか、有意味であるとか、無意味であることに関係なく〈私〉は言語の性質上「語り得ない」ってことになる。
    >>そして論理や言語以前(外)に〈私〉が「今ここに存在しており」、そこから世界も論理も言語も開けるってことになる。

    > わかりました。
    > 繰り返しになりますが、とりあえず、それがパニチェさんのお考えということですね。
    > 私も本来言うべきことがあるんですが、なかなかそれも大変なんで、一応ここいらでストップしましょうか?

    同意します。

    > それと、あと、『仏教3.0を哲学する』については、また改めて、少しレスしたいと思っています。
    > ありがとうございました。

    こちらこそ、ありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/
■33261 / inTopicNo.19)  Re[5]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/20(Wed) 21:56:01)
    2023/09/20(Wed) 22:01:05 編集(投稿者)

    No33207に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > >>第四図がカテゴリー的な構成、現象のことなら、第五図は物自体となりますか?
    >>ここもう少し詳しくお願いします。

    > 私としては、第4図についての藤田、山下両氏のとらえ方を読むと、ハイデガーの『存在と時間』における、共同世界内存在としての頽落した在り方――Das Man――のとらえ方とほどんと同じように感じました。

    > 5図の世界は、私はカントというより、ショーペンハウアーの物自体の世界と近い気がします。しかし、knowingitselfさんの

    ショーペンハウアーの物自体って意志と同じですよね。
    5図は物自体の世界つまり現象界は意志がつくりだす幻想という構図として同じってことでしょうか?

    > >ただ、道徳や倫理、定言命令からは、唯一、物自体にいける。これは「実践理性批判」ですね。「仏教3・0」では三人とも第五図で慈悲を強調するのは、カント哲学の仏教バージョンのようなものかと。山下さんはとくに慈悲をメチャクチャ強調します。

    > という見解は同意します。鋭いと思います。

    > 【編集追加訂正】
    > knowingitselfさん、褒めておいて大変失礼なんですけど、
    > 読みなおしたら、永井が言ってましたね。
    > 申し訳ありません。

    上記は永井氏がどこで言ってますか?

    > で、5図の自己へと転換する方法は、藤田さんはどちらかと言うとハイデガーに近いスタンスで、山下さんのほうは初期フッサールの現象学的還元から超越論的主観への超出、みたいな感じがします。
    > さらに言えば、山下さんの思想は、私にはむしろショーペンハウアーにそっくりだと思うんですね(笑)
    > 慈悲による超越の問題は、ショーペンハウアーの共苦=同情の倫理学が答えになると私は思います。
    > ただ、永井の〈私〉として解釈していると、わからないと思いますが。

    ちょっと話が飛びますがハイデガーの現存在って〈私〉と接点があるのかないのかよく分かりません。
    『論考』もそうなんですが、『存在と時間』にも〈私〉の気配が感じられないんですね。


    >>永井氏のP189〜P209の説明って私はいるのかな?と思ってしまうのです。
    >>むしろ余計に〈私〉を分かりにくくしている。カントやデカルトを持ち出す必要性があるとは思えず、むしろ永井氏は何のために持ち出しているのかとさえ思ってしまいます。こねくり回しすぎというか。。。(笑)
    >>〈私〉や自己漫画図の理解にはデカルトやカントは必要ないですからね。^^;

    > このパニチェさんの見解は、私には意外でした。
    > 私には、〈私〉のわかりやすい説明になっていると思えたからです。
    > それに、パニチェさんの説明とも一致しているように思えたからです。
    > 例えば、同書192頁

    >  まだコスモスになっていないカオスとしての世界の開けです。もちろん主客未分です。

    > は、No33130での
    > >マトリックスの映画(あと「桶の中の脳(水槽の脳)」とか「一炊の夢(邯鄲の夢)」も含めて)は設定からして「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に真の人体が実在している」ということになってますので少し無念無想の境地とは異なると思いますが、強いて残るとするなら西田哲学の純粋経験みたいな主客未分の〈私〉ですかね

    > の<私>と近い気がするんですが、違いますかね?

    読み直しました。確かに似てますね。永井氏は6図を出発点として解説してますね。
    私の場合、無念無想の境地に無理やり〈私〉が残るとするならってことで述べましたので、同じになるようなならないような。。。微妙です(笑)

引用返信/返信 削除キー/
■33284 / inTopicNo.20)  Re[7]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/20(Wed) 23:59:31)
    knowingitselfさん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。

    No33243に返信(knowingitselfさんの記事)
    □投稿者/ knowingitself -(2023/09/20(Wed) 07:44:29)
    >ザビビのふくろうさん レスありがとうございます。
    >とりあえず最初のところを返信します。続く予定です。

    > >>第四図がカテゴリー的な構成、現象のことなら、第五図は物自体となりますか?
    > >
    >
    >>ここもう少し詳しくお願いします。
    >>
    >
    >> 私としては、第4図についての藤田、山下両氏のとらえ方を読むと、ハイデガーの『存在と時間』における、共同世界内存在としての頽落した在り方――Das Man――のとらえ方とほどんと同じように感じました。

    >内山興正本人がハイデガーの影響を受けているのは間違いないでしょう。第四図の意味としてはそう読むこともありですね。

    >ただ、第四図を素朴にみると、世俗的な価値を追い求める共産、共同体やグループの間の分離と闘争、そういうのは虚しいよで終わってもいい。それをカント的な現象にするなら、人間の認識・体験するすべては第四図を出れない、そそれと同じ図の根底にある第五図というように、射程がはるかに広がると思うですよ。

    そうですね。


    No33248に返信(knowingitselfさんの記事)
    > ザビビのふくろうさんへ。
    >
    > ショーペンハウアーはカントを尊敬して、ある程度その哲学の枠組みを継承したと聞きますが、どうなんでしょうか。

    カント哲学の後継者を自任していたようですね。

    >物自体もショーペンハウアーの独自の哲学を加味したと?

    そうです。
    物自体の解釈はかなり違って、意志とみなして、表象世界の形式やカテゴリーに縛られない目的をもたない、むしろ欲望のようなものと解釈したようです。
    これがニーチェやフロイトに影響を与えたわけですね。

    >第五図にショーペンハウアーをもってくるのも、ありうる説明だと思います。山下さんはそこまで考えていないはずですが。
    >

    ただ、少し再考していたんですが、意志としての世界はむしろ4図、すなわち表象としての世界と重なったものとみなしたほうがいいかもしれません。
    意志は無目的な欲動のようなものなので、その表れとしての世界(4図)にいる限り苦でしかない。
    それでこの意志を否定することにより一種の解脱(5図)を目指すというのが基本の考え方だと思います(乱暴に言うと(笑))。
    カントの後継者という以上に、仏教的である感じですね。
    仏教的世界観を、換骨奪胎したカント哲学の枠組みで解釈したとでもいう感じが私にはします。


    > 山下さんの場合は、哲学者を読んだり、哲学的思索をしたりには、もはやほとんど興味を持っていないと思います。
    > 彼にとっての第五図は、涅槃、ニルバーナ、お浄土、キリスト教なら天国のことでしょう。理屈ではなく、瞑想実践で直接体験する領域としてのニルバーナ。永井哲学を理解しようとかフォローするというより、かつて師事した内山興正の自己漫画図を説得的に説明する永井氏と出会っただけで十分という感じではないでしょうか。
    >
    >

    そうなんでしょうかね。
    藤田さんは、永井の哲学で自分たちの経験を言語化できる期待をもっておられるような気もしましたが。

    > やはり永井さんは根っからの哲学者、山下さんは救済を具体的に求める宗教者、まるでタイプが違う。

    そうですね^^
引用返信/返信 削除キー/
■33285 / inTopicNo.21)  ショーペンハウアーとウィトゲンシュタイン
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/21(Thu) 00:13:04)
    knowingitselfさんへ

    No33249に返信(knowingitselfさんの記事)
    > ショーペンハウアーといえば、かのウィトゲンシュタインがショーペンハウアーの影響を受けているともいわれている。

    ウィトゲンシュタイン自身が、影響を受けた人物としてショーペンハウアーを挙げているんですね。


    >ザビビのふくろうさんはこういうところも詳しそうですね。

    詳しいかどうかは別にして、いろいろ読みました。
    でも頭がザルなんで、大まかなイメージしか残ってないのが悲しいです。
引用返信/返信 削除キー/
■33286 / inTopicNo.22)  パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/21(Thu) 00:54:59)
    2023/09/21(Thu) 16:32:24 編集(投稿者)
    2023/09/21(Thu) 01:09:36 編集(投稿者)

    パニチェさん、こんばんは。
    レスをありがとうございます。

    > ■No33170に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    > >>T:6というのは「6.真理関数の一般的形式は、[記号省略]である。これは命題の一般形式である。」のことですね?
    >
    >>そうです。
    >>はっきり言って不十分なんですが、いわば自然数を定義したペアノの公理のようなものですね。
    >>ウィトゲンシュタインが『論考』で示した論理的記号法は、現在でも研究されています。それを実際に構成する試みもなされているようです。
    >
    > そうなんですね。
    >
    >>パニチェさんは、科学的命題と、数学的命題の違いってなんだと考えていますか?
    >
    > 知識不足で思いっきり返信が外れるかもしれませんが。。。
    > 科学的命題というのは実験を通じて反証可能性を有する命題であり、数学的命題というのは数学的な正誤判定が可能な命題ってことになりますかねぇ〜。
    > いや、しかしゲーデル文なんかはどうなるんだか、わけわかめ(笑)。
    >

    あくまで『論考』に必要な観点から言えば、命題は、数学・論理学のようなアプリオリかつ分析的な論理的命題と、科学のようなアポステリオリかつ総合的な経験命題にわかれます。
    前者は何も語らず、後者こそがウィトゲンシュタインの言う「語る命題」であることになります。
    素朴に考えたら、科学的命題も、数学的命題も、普遍的、絶対的真理のようにも思えませんか?
    でも、前者は経験的検証を必要とし、後者は必要としないで証明できるけど、その理由も含めて、これらは根本的に異なる命題だということを、くっきりはっきりさせたということです。(のちに、このくっきりはっきりがぼけてくるようですが)。
    これは論理実証主義が『論考』に影響を受けてとった立場で、それ以外は無意味として、いわゆる形而上学的な伝統的哲学陣営との間に亀裂が入ってしまったわけです。


    >>ウィトゲンシュタインの考えでは、論理的命題や数学的命題は何も語りません。(下に再掲されていますが、前回引用した講義録の文にも書いてあります。)
    >>T:6.1 論理学の命題はトートロジーである。
    >>T:6.11 論理学の命題は何も語らない。(それは分析的命題である)。
    >>T:6.2 数学は論理的方法である。
    >>    数学の命題は等式であるから、疑似命題である。
    >>T:6.21 数学の命題は、思想を表現していない。
    >
    > なるほど。やっぱ語り得なさが2種あるように思えます。
    > 論理と倫理はともにトートロジーである故に語り得ない。
    > 〈私〉の語り得なさとは差異があるような気がします。
    >

    これは永井も言っていたように、超越論的な語り得なさと、超越的語り得なさの二つがあるんです。
    倫理は超越的な語り得なさだと思います(トートロジーではありません)。
    超越的真理は命題で語ることも示すこともできないと思います。
    論理学と数学は分析的真理、命題によって示される(証明される)真理。
    これは超越論的と言ってもいいと思います。

    >>そうです。
    >>No32917に私が添付した図と同じものですが、できたら私、これを「ショーペンハウアー図」と呼びたいんですよね。
    >>パニチェさんはご自由でかまいませんが、私がこう言ったら、永井の図5と同じNo32917だと受け取ってくださいm(__)m
    >
    > 了解しました。
    > 蛇足ですが、私が名付けるとするならマーヤー(幻影)の図ですね。^^
    >

    それもいいですね^^
    ショーペンハウアーだったら賛成しそう(笑)
    ただし、この図が、世界が主体の表象であることを表した図であるという意味において、という留保をつけたほうがいいかもしれませんが。


    > >>これは図に描くこと自体が客体化した〈私〉になるので頽落しており、一般的な「私」になっています。
    >>同意します。
    >
    > >>ちなみに「〈仏教3.0〉を哲学するU P193」の図4なら世界の中の一人としても「私」になります。
    > >>「私」であるなら図4の中の人物であり、図5で言うならアタマの展開する世界の中にいる一人としての(根本にあるわが生命ではなく)「私」ってことになるはずです。
    >>同意します。
    >
    > >>これも同様に図にしている時点で「私」と〈私〉の区別はなくなっています。
    >>これはちょっと違って、図5に描かれた世界全体が世界の「限界としての《私》の世界」であって、中に涙型に描かれた視野世界の中にいるのが「私」であり、左端に書かれた黒丸が表象する主体の〈私〉になる感じですかね。
    >
    > ごめんなさい。この《私》という表記の意味(〈私〉との差異が)が分りません。
    >

    すみませんm(__)m
    ついつい断りなく使っちゃいました

    主観により対象化された「私」
    思考し表象する主観を〈私〉 (〈私〉=ほかならぬこの私)
    世界の限界としての《私》  (《私》=比類のない私)

    として区別しました。
    この《私》という表記、〈仏教3.0〉で永井が違う意味で使っているのを初めて知ったのですが、またパニチェさんに怒られそう(笑)
    もし紛らわしかったら《我》でもいいですm(__)m

    ちなみにこの「世界の限界としての《私》」は、
    入不二基義さんが『ウィトゲンシュタイン』の、2章の2「ウィトゲンシュタインの無主体論」で説明しているものです。
    入不二さんは『論考』ではなく、中期の立場として解説されていますが、私は、これを『論考』の示される独我論――私としては『超越論的独我論』と呼びたいもの――の《私》であると考えています。


    > >>マッハ的光景も誰にでも当てはまる光景になります。
    > >>そういう意味では図5とマッハ的光景は差異はありません。
    >
    >>うーん、ですから、私が述べているのは、その「誰にでも当てはまる」=「一般的」ということに、経験的一般性(偶然的一般性)と、アプリオリ(必然的)な一般性があって、これを区別しないということは、マッハ図とショーペンハウアー図を同一視することで、これはまずいですよ、ってことなんです…。
    >>まあ、パニチェさんとしてはどうして納得できないようなので、とりあえず、これは違いの確認ということで置いておきましょうか?
    >
    > ここはおそらく平行線になると思いますので、置いておくことに同意します。
    >
    > >>>>**********************
    >
    >>>>>ここもう少し詳しく教えて下さい。
    >>>>>論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか?
    >>>>>一般化されなければ論理法則は法則になりえませんよね?
    >
    >>>>ここも、
    >>>>一般化される=誰にでも当てはまる語り
    >>>>という前提があるように思われます。
    >>>>論理法則とは、要するに論理的真理であって、同語反復命題によってあらわされますが、これは何事も語りません。
    >>>>論理的真理は、命題自身がトートロジーであることによって真であることを示しているのです。
    >>>>つまり、論理的命題は、写像ではありません。「鏡像」と言われています。
    >>>>論理の研究はアプリオリな一般形式の研究です。
    >
    >>>>要するに、一般的言語理論であろうと一般的主観であろうと、「経験的一般性」ではなく、「形式的一般性」であれば、唯一性は失われない、ということです。
    >>>>喩えれば、チェスの「白のキング」は世界中で唯一人であるように。
    >>>>自然数の1も、世界中で唯一です。
    >
    > >>論理的真理も公理もスタート地点がトートロジーであることは理解できます。
    > >>上記は「語り得ること」と「根拠が説明できること」と同じ意味で用いられていますか?
    > >>私は「語り得ること」と「根拠が説明できること」は異なると考えています。
    > >>よって論理的真理も公理も「語り得る」と。「語り得る」から論理的真理や公理足り得る。
    > >>一方で〈私〉は「語り得ない」から文章や命題にすらなり得ないってことになります。
    >
    >>うーん、このパニチェさんの用法は、明らかに『論考』と異なりますね。
    >>上に引用しましたが、T:6.1番台にあるのを見てもらうのがいいかな。
    >>とにかく、論理的真理は、命題自身が同語反復命題(トートロジー)であることによって示されるものであって、語られるものではないんですよ。だから、分析的命題なんです。
    >
    > 『論考』と違うというとは理解しているつもりです。
    > 結論から言えば〈私〉は『論考』の語り得ない対象には含まれていないと(今のところ)考えています。
    > 『論考』で語り得ないのは、あくまでも「独我論」であって「独在論」ではない、と。
    >

    なるほど。
    ただ、私は永井の考えはある程度つかめていると思っているのですが、
    むしろパニチェさんのがつかめてないんですよ。すみません。


引用返信/返信 削除キー/
■33287 / inTopicNo.23)  Re[6]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/21(Thu) 01:08:23)
    2023/09/21(Thu) 08:36:22 編集(投稿者)
    パニチェさんへ

    No33261に返信(パニチェさんの記事)
    > 2023/09/20(Wed) 22:01:05 編集(投稿者)
    >
    > ■No33207に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    >
    >>>>第四図がカテゴリー的な構成、現象のことなら、第五図は物自体となりますか?
    > >>ここもう少し詳しくお願いします。
    >
    >>私としては、第4図についての藤田、山下両氏のとらえ方を読むと、ハイデガーの『存在と時間』における、共同世界内存在としての頽落した在り方――Das Man――のとらえ方とほどんと同じように感じました。
    >
    >>5図の世界は、私はカントというより、ショーペンハウアーの物自体の世界と近い気がします。しかし、knowingitselfさんの
    >
    > ショーペンハウアーの物自体って意志と同じですよね。
    > 5図は物自体の世界つまり現象界は意志がつくりだす幻想という構図として同じってことでしょうか?
    >

    そういうつもりだったと思うんですが、knowingitselfさんに書いたように、ちょと訂正したほうがいいかなと思います。

    >>>ただ、道徳や倫理、定言命令からは、唯一、物自体にいける。これは「実践理性批判」ですね。「仏教3・0」では三人とも第五図で慈悲を強調するのは、カント哲学の仏教バージョンのようなものかと。山下さんはとくに慈悲をメチャクチャ強調します。
    >
    >>という見解は同意します。鋭いと思います。
    >
    >>【編集追加訂正】
    >>knowingitselfさん、褒めておいて大変失礼なんですけど、
    >>読みなおしたら、永井が言ってましたね。
    >>申し訳ありません。
    >
    > 上記は永井氏がどこで言ってますか?
    >

    前掲書227頁からの説明です。


    >>で、5図の自己へと転換する方法は、藤田さんはどちらかと言うとハイデガーに近いスタンスで、山下さんのほうは初期フッサールの現象学的還元から超越論的主観への超出、みたいな感じがします。
    >>さらに言えば、山下さんの思想は、私にはむしろショーペンハウアーにそっくりだと思うんですね(笑)
    >>慈悲による超越の問題は、ショーペンハウアーの共苦=同情の倫理学が答えになると私は思います。
    >>ただ、永井の〈私〉として解釈していると、わからないと思いますが。
    >
    > ちょっと話が飛びますがハイデガーの現存在って〈私〉と接点があるのかないのかよく分かりません。
    > 『論考』もそうなんですが、『存在と時間』にも〈私〉の気配が感じられないんですね。
    >
    >

    あー、そうかも。
    〈ひと〉(ダス・マン)はもちろん違うし、本来的自己はキルケゴール的単独者のイメージはあるにせよ、独我論って感じじゃないかな。
    でも、古藤哲明さん解釈のハイデガーだったら、少しあるかも…?(笑)
    いや、やっぱり違うかな…

    > >>永井氏のP189〜P209の説明って私はいるのかな?と思ってしまうのです。
    > >>むしろ余計に〈私〉を分かりにくくしている。カントやデカルトを持ち出す必要性があるとは思えず、むしろ永井氏は何のために持ち出しているのかとさえ思ってしまいます。こねくり回しすぎというか。。。(笑)
    > >>〈私〉や自己漫画図の理解にはデカルトやカントは必要ないですからね。^^;
    >
    >>このパニチェさんの見解は、私には意外でした。
    >>私には、〈私〉のわかりやすい説明になっていると思えたからです。
    >>それに、パニチェさんの説明とも一致しているように思えたからです。
    >>例えば、同書192頁
    >
    >> まだコスモスになっていないカオスとしての世界の開けです。もちろん主客未分です。
    >
    >>は、No33130での
    >>>マトリックスの映画(あと「桶の中の脳(水槽の脳)」とか「一炊の夢(邯鄲の夢)」も含めて)は設定からして「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に真の人体が実在している」ということになってますので少し無念無想の境地とは異なると思いますが、強いて残るとするなら西田哲学の純粋経験みたいな主客未分の〈私〉ですかね
    >
    >>の<私>と近い気がするんですが、違いますかね?
    >
    > 読み直しました。確かに似てますね。永井氏は6図を出発点として解説してますね。
    > 私の場合、無念無想の境地に無理やり〈私〉が残るとするならってことで述べましたので、同じになるようなならないような。。。微妙です(笑)
    >

    いや、私はやっぱり、それでも永井は昔から読んでいるし、ある程度つかめているので、パニチェさんをどうしても永井と同じとしてまず考えちゃうんですよ。パニチェさんの考えをまだつかめていないんで。永井との違いがまだわからないからだと思うんですが。
引用返信/返信 削除キー/
■33289 / inTopicNo.24)  キャロルのパラドックス
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/21(Thu) 09:16:03)
    2023/09/21(Thu) 16:12:24 編集(投稿者)
    2023/09/21(Thu) 10:19:33 編集(投稿者)


    パニチェさん、おはようございます。

    以前、No33122で、引用した講義録を再掲し、その説明(ボツにしていたもの)を、補足として投稿しておきます。
    パニチェさんは、キャロルのパラドックスについて一応理解しているつもりとおっしゃっていたので不必要かもしれませんが、まあ、何かの、あるいは誰かの参考になるとも限らないので一応。

    このレスについては、返信不要です。
    *******************
    実は、
    >論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか?
    について、詳しく書こうとしたのですが、長大にならざるをえないのと、それでもわかりやすいと思えないことなどで、諦めました。
    かわりに、関連するところを
    D・リー編(山田友幸他訳)『ウィトゲンシュタインの講義T ケンブリッジ1930-1932』 (勁草書房)
    から引用しておきます。飯田隆先生によるとウィトゲンシュタインがキャロルのパラドックスを知っていたとされる根拠になるところだそうです。最初の「(大まかに言って)」を除いて、カッコ内はふくろうの注です。

    帰結するという関係は(大まかに言って)それらが成立しないということが思考不可能である場合に成立する内的関係(示されるべき関係)である。命題が真であるか偽であるかということは、実在との比較によってのみ決定されうる。したがって、p∨qがp・qから帰結するということは命題ではない(何も語っていない)。それは何の役にも立たない。(示されている)内的関係を見て取ることこそが、推論を正当化するのである。推論を正当化するためには推論のルールは何ら必要ではない。というのももし必要であったならば、そのルールを正当化するために別のルールが必要であったであろうし、それは無限後退に導くだろうからである。われわれは内的関係を見て取らなければならないのである。(上掲書、108-109頁)
    そして、この内的関係を正確に示す表記法が『論考』のTF表記法だった、ということなのです。
    ******************************
    【ふくろうによる解説】
    ここではオリジナルの推論を簡単な推論に置き換えて、キャロルのパラドクスを考えることにします。

     p,q/∴ p
    という推論は正しい推論(前提の諸命題を真と仮定すると、結論も必ず真となる文形式)ですが、このとき、前提の2命題と結論は、真偽二値を有する語り命題(経験命題)です。
    ここに、アキレスはカメの要請で、この推論を正当化する論理法則を書き加えたわけです。
      p,q,(p∧q)⊃p/∴ p
    ですが、この
    (p∧q)⊃p
    という論理法則は論理的真理=トートロジー(論理的命題)であって、何事も語りません。
    だから、本当は前提には置けないのです。置くということは、論理法則を語り命題(経験命題)とみなすことです。
    そのために、次のように無限背進が始まるわけです。
      p,q,(p∧q)⊃p,{p,q,(p∧q)⊃p}⊃p /∴ p
         
    なのでウィトゲンシュタインは、こういったミスリードが起こらないように、
     p∧q: (p,q)[TFFF]
    p : (p,q)[TTFF]
    (p∧q)⊃p:(p,q)[TTTT]
    というふうに命題を表せば、p∧qの真理根拠がpの真理根拠に含まれている(内的関係)ので、p∧qからpを推論してよいことは一目でわかる、つまり、これら命題自身が示している、と考えたわけです。このことを明示したのが(p,q)[TTTT]です。
    つまり、論理法則が推論を正当化するのではなく、命題自身が正当化する、ということです。

    【追加編集の補足2】
    上に述べたのは、先にNo33170で引用したT:6.1,T:6.11の解説にもなっているんですが、

    T:6.1 論理学の命題はトートロジーである。
    T:6.11 論理学の命題は何も語らない。(それは分析的命題である)。
    T:6.2 数学は論理的方法である。
        数学の命題は等式であるから、疑似命題である。
    T:6.21 数学の命題は、思想を表現していない。

    ひょっとすると、T:6.2,T:6.21の解説のほうがわかりやすいかもしれないので、これも説明しておきます。

    数学の命題の本質を等式とみなしているということは、いわば
     5=3+2
    と同じということです。
    そして、この式を意味分析して次のように表します。
     1+1+1+1+1=(1+1+1)+(1+1)
    これが論理命題におけるT−F表記に相当します。
    そうすると、数“5”と“3”と“2”の意味と、“+”の加法操作の意味を理解していれば、この等式が必然的に成り立つことはわかりますよね。(T:6.241の2×2=4の掛け算の証明も、本質的にはこういうことを示しています。)
    これは、
     独身男=配偶者がない+男性
    と本質的に同じである、つまり、等式はカント的な意味で、分析的命題であるということを意味します。
    つまり、意味分析のみでその真理であることが必然であるとわかりますので経験的知識を拡大することもない分析的命題であり、またそのため経験的検証を必要としないのでアプリオリな命題ともみなせるわけです。

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