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No33207 の記事


■33207 / )  Re[4]: 『〈仏教3.0〉を哲学する U 』
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/19(Tue) 17:10:56)
    2023/09/19(Tue) 21:49:47 編集(投稿者)
    2023/09/19(Tue) 17:20:59 編集(投稿者)
    2023/09/19(Tue) 17:13:21 編集(投稿者)

    パニチェさん、knowingitselfさん、こんにちは。
    横入り嬉しいです^^


    No33127に返信(パニチェさんの記事)
    > お久しぶりです、knowing itselfさん。レスありがとうございます。
    > 以下はもの凄い的外れなレスになりますがご容赦を。
    >
    > ■No33110に返信(knowingitselfさんの記事)
    >
    >>「仏教3・0を哲学する」については、バージョンUの方で
    >>内山興正の自己漫画は背景にカント哲学があると永井氏の解説がありますね。
    >>ここは非常興味深いと思います。
    >
    >>第四図がカテゴリー的な構成、現象のことなら、第五図は物自体となりますか?
    >

    > ここもう少し詳しくお願いします。
    >

    私としては、第4図についての藤田、山下両氏のとらえ方を読むと、ハイデガーの『存在と時間』における、共同世界内存在としての頽落した在り方――Das Man――のとらえ方とほどんと同じように感じました。

    5図の世界は、私はカントというより、ショーペンハウアーの物自体の世界と近い気がします。しかし、knowingitselfさんの

    >ただ、道徳や倫理、定言命令からは、唯一、物自体にいける。これは「実践理性批判」ですね。「仏教3・0」では三人とも第五図で慈悲を強調するのは、カント哲学の仏教バージョンのようなものかと。山下さんはとくに慈悲をメチャクチャ強調します。

    という見解は同意します。鋭いと思います。

    【編集追加訂正】
    knowingitselfさん、褒めておいて大変失礼なんですけど、
    読みなおしたら、永井が言ってましたね。
    申し訳ありません。

    で、5図の自己へと転換する方法は、藤田さんはどちらかと言うとハイデガーに近いスタンスで、山下さんのほうは初期フッサールの現象学的還元から超越論的主観への超出、みたいな感じがします。
    さらに言えば、山下さんの思想は、私にはむしろショーペンハウアーにそっくりだと思うんですね(笑)
    慈悲による超越の問題は、ショーペンハウアーの共苦=同情の倫理学が答えになると私は思います。
    ただ、永井の〈私〉として解釈していると、わからないと思いますが。

    >>この自己漫画図がのっている「進みと安らい」は、内山興正が気に食わないとか、行き詰まったとか、再版させなかったいわくつきの書物のようで、一般的な仏教や禅をはみ出るような要素があるのではと論評されるようですね。ネルケ無方さんなんかは行き詰まりだと。永井氏は仏教を超えるところがあるからこの書を評価するという説ですね。
    >
    > そうなんですね。
    >
    >>山下良道さんは、自己漫画図に出会ったことが安泰寺を選んだ大きな動機だといっていますが、永井氏のこの説明をきくまては、背景にそこまでカント哲学があることに思い至らなかったようでもあります。ここはさすが哲学者の永井氏でしょう。
    >
    > 永井氏のP189〜P209の説明って私はいるのかな?と思ってしまうのです。
    > むしろ余計に〈私〉を分かりにくくしている。カントやデカルトを持ち出す必要性があるとは思えず、むしろ永井氏は何のために持ち出しているのかとさえ思ってしまいます。こねくり回しすぎというか。。。(笑)
    > 〈私〉や自己漫画図の理解にはデカルトやカントは必要ないですからね。^^;
    >

    このパニチェさんの見解は、私には意外でした。
    私には、〈私〉のわかりやすい説明になっていると思えたからです。
    それに、パニチェさんの説明とも一致しているように思えたからです。
    例えば、同書192頁

     まだコスモスになっていないカオスとしての世界の開けです。もちろん主客未分です。

    は、No33130での
    >マトリックスの映画(あと「桶の中の脳(水槽の脳)」とか「一炊の夢(邯鄲の夢)」も含めて)は設定からして「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に真の人体が実在している」ということになってますので少し無念無想の境地とは異なると思いますが、強いて残るとするなら西田哲学の純粋経験みたいな主客未分の〈私〉ですかね

    の<私>と近い気がするんですが、違いますかね?

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