□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/21(Thu) 00:54:59)
| 2023/09/21(Thu) 16:32:24 編集(投稿者) 2023/09/21(Thu) 01:09:36 編集(投稿者)
パニチェさん、こんばんは。 レスをありがとうございます。
> ■No33170に返信(ザビビのふくろうさんの記事) > > >>T:6というのは「6.真理関数の一般的形式は、[記号省略]である。これは命題の一般形式である。」のことですね? > >>そうです。 >>はっきり言って不十分なんですが、いわば自然数を定義したペアノの公理のようなものですね。 >>ウィトゲンシュタインが『論考』で示した論理的記号法は、現在でも研究されています。それを実際に構成する試みもなされているようです。 > > そうなんですね。 > >>パニチェさんは、科学的命題と、数学的命題の違いってなんだと考えていますか? > > 知識不足で思いっきり返信が外れるかもしれませんが。。。 > 科学的命題というのは実験を通じて反証可能性を有する命題であり、数学的命題というのは数学的な正誤判定が可能な命題ってことになりますかねぇ〜。 > いや、しかしゲーデル文なんかはどうなるんだか、わけわかめ(笑)。 >
あくまで『論考』に必要な観点から言えば、命題は、数学・論理学のようなアプリオリかつ分析的な論理的命題と、科学のようなアポステリオリかつ総合的な経験命題にわかれます。 前者は何も語らず、後者こそがウィトゲンシュタインの言う「語る命題」であることになります。 素朴に考えたら、科学的命題も、数学的命題も、普遍的、絶対的真理のようにも思えませんか? でも、前者は経験的検証を必要とし、後者は必要としないで証明できるけど、その理由も含めて、これらは根本的に異なる命題だということを、くっきりはっきりさせたということです。(のちに、このくっきりはっきりがぼけてくるようですが)。 これは論理実証主義が『論考』に影響を受けてとった立場で、それ以外は無意味として、いわゆる形而上学的な伝統的哲学陣営との間に亀裂が入ってしまったわけです。
>>ウィトゲンシュタインの考えでは、論理的命題や数学的命題は何も語りません。(下に再掲されていますが、前回引用した講義録の文にも書いてあります。) >>T:6.1 論理学の命題はトートロジーである。 >>T:6.11 論理学の命題は何も語らない。(それは分析的命題である)。 >>T:6.2 数学は論理的方法である。 >> 数学の命題は等式であるから、疑似命題である。 >>T:6.21 数学の命題は、思想を表現していない。 > > なるほど。やっぱ語り得なさが2種あるように思えます。 > 論理と倫理はともにトートロジーである故に語り得ない。 > 〈私〉の語り得なさとは差異があるような気がします。 >
これは永井も言っていたように、超越論的な語り得なさと、超越的語り得なさの二つがあるんです。 倫理は超越的な語り得なさだと思います(トートロジーではありません)。 超越的真理は命題で語ることも示すこともできないと思います。 論理学と数学は分析的真理、命題によって示される(証明される)真理。 これは超越論的と言ってもいいと思います。
>>そうです。 >>No32917に私が添付した図と同じものですが、できたら私、これを「ショーペンハウアー図」と呼びたいんですよね。 >>パニチェさんはご自由でかまいませんが、私がこう言ったら、永井の図5と同じNo32917だと受け取ってくださいm(__)m > > 了解しました。 > 蛇足ですが、私が名付けるとするならマーヤー(幻影)の図ですね。^^ >
それもいいですね^^ ショーペンハウアーだったら賛成しそう(笑) ただし、この図が、世界が主体の表象であることを表した図であるという意味において、という留保をつけたほうがいいかもしれませんが。
> >>これは図に描くこと自体が客体化した〈私〉になるので頽落しており、一般的な「私」になっています。 >>同意します。 > > >>ちなみに「〈仏教3.0〉を哲学するU P193」の図4なら世界の中の一人としても「私」になります。 > >>「私」であるなら図4の中の人物であり、図5で言うならアタマの展開する世界の中にいる一人としての(根本にあるわが生命ではなく)「私」ってことになるはずです。 >>同意します。 > > >>これも同様に図にしている時点で「私」と〈私〉の区別はなくなっています。 >>これはちょっと違って、図5に描かれた世界全体が世界の「限界としての《私》の世界」であって、中に涙型に描かれた視野世界の中にいるのが「私」であり、左端に書かれた黒丸が表象する主体の〈私〉になる感じですかね。 > > ごめんなさい。この《私》という表記の意味(〈私〉との差異が)が分りません。 >
すみませんm(__)m ついつい断りなく使っちゃいました
主観により対象化された「私」 思考し表象する主観を〈私〉 (〈私〉=ほかならぬこの私) 世界の限界としての《私》 (《私》=比類のない私)
として区別しました。 この《私》という表記、〈仏教3.0〉で永井が違う意味で使っているのを初めて知ったのですが、またパニチェさんに怒られそう(笑) もし紛らわしかったら《我》でもいいですm(__)m
ちなみにこの「世界の限界としての《私》」は、 入不二基義さんが『ウィトゲンシュタイン』の、2章の2「ウィトゲンシュタインの無主体論」で説明しているものです。 入不二さんは『論考』ではなく、中期の立場として解説されていますが、私は、これを『論考』の示される独我論――私としては『超越論的独我論』と呼びたいもの――の《私》であると考えています。
> >>マッハ的光景も誰にでも当てはまる光景になります。 > >>そういう意味では図5とマッハ的光景は差異はありません。 > >>うーん、ですから、私が述べているのは、その「誰にでも当てはまる」=「一般的」ということに、経験的一般性(偶然的一般性)と、アプリオリ(必然的)な一般性があって、これを区別しないということは、マッハ図とショーペンハウアー図を同一視することで、これはまずいですよ、ってことなんです…。 >>まあ、パニチェさんとしてはどうして納得できないようなので、とりあえず、これは違いの確認ということで置いておきましょうか? > > ここはおそらく平行線になると思いますので、置いておくことに同意します。 > > >>>>********************** > >>>>>ここもう少し詳しく教えて下さい。 >>>>>論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか? >>>>>一般化されなければ論理法則は法則になりえませんよね? > >>>>ここも、 >>>>一般化される=誰にでも当てはまる語り >>>>という前提があるように思われます。 >>>>論理法則とは、要するに論理的真理であって、同語反復命題によってあらわされますが、これは何事も語りません。 >>>>論理的真理は、命題自身がトートロジーであることによって真であることを示しているのです。 >>>>つまり、論理的命題は、写像ではありません。「鏡像」と言われています。 >>>>論理の研究はアプリオリな一般形式の研究です。 > >>>>要するに、一般的言語理論であろうと一般的主観であろうと、「経験的一般性」ではなく、「形式的一般性」であれば、唯一性は失われない、ということです。 >>>>喩えれば、チェスの「白のキング」は世界中で唯一人であるように。 >>>>自然数の1も、世界中で唯一です。 > > >>論理的真理も公理もスタート地点がトートロジーであることは理解できます。 > >>上記は「語り得ること」と「根拠が説明できること」と同じ意味で用いられていますか? > >>私は「語り得ること」と「根拠が説明できること」は異なると考えています。 > >>よって論理的真理も公理も「語り得る」と。「語り得る」から論理的真理や公理足り得る。 > >>一方で〈私〉は「語り得ない」から文章や命題にすらなり得ないってことになります。 > >>うーん、このパニチェさんの用法は、明らかに『論考』と異なりますね。 >>上に引用しましたが、T:6.1番台にあるのを見てもらうのがいいかな。 >>とにかく、論理的真理は、命題自身が同語反復命題(トートロジー)であることによって示されるものであって、語られるものではないんですよ。だから、分析的命題なんです。 > > 『論考』と違うというとは理解しているつもりです。 > 結論から言えば〈私〉は『論考』の語り得ない対象には含まれていないと(今のところ)考えています。 > 『論考』で語り得ないのは、あくまでも「独我論」であって「独在論」ではない、と。 >
なるほど。 ただ、私は永井の考えはある程度つかめていると思っているのですが、 むしろパニチェさんのがつかめてないんですよ。すみません。
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