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No33122 の記事


■33122 / )  Re[4]: パニチェさんへ
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2023/09/18(Mon) 01:01:08)
    >> この疑問についは、前回のレスで、パニチェさんは自分の考えをきちんと答えてくれました。
    >> これは非常に興味深い回答だったので、下であらためて取り上げたいと思います。

    >了解しました。

    >>>以下、まどろっこしい返信になりますが、自分なりに正確に返信させてもらうためにタラタラとカキコしてみます。
    >>>形象化というのを「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法と媒体によって明確な形として表現すること。(コトバンク:日本国語大辞典)」とするなら、完全同意ではないですが条件付きで同意できます。
    >>>まず図6つまりマッハ的光景の側面図なんてものはありえないです。
    >>>それは永井氏も理解はしているだろう、と、想像します。

    >> 上に述べたように、一応パニチェさんの意図は理解したと思います。
    >> 要は、語り得ぬものを語ってしまっているわけだから、真の独我論モデルではありえないことは、永井も承知の上だろうということですよね。
    >> しかし、問題は、永井が、『論考』の独我論は、こう理解されざるを得ない、としているところだと思います。
    >> つまり、あくまで『論考』の独我論の解釈としては、永井は図5を正しいモデルであると考えているということ。

    >そうですね。永井氏は独我論と〈私〉を前提とする独我論を「独在論」という表記で区別しています。何れにしても変質(頽落)してしまうのは同じなんですが。。。

    >>  「『論考』の独我論は一般的自我(誰もが主体としてのあり方においてはそれであるような自我)の独我論にすぎない。少なくとも、そう読まれざるをえない。」(『ウィトゲンシュタイン入門』83頁)
    >> 図5としてモデル化された独我論が「一般的自我の独我論」ですよね。
    >> モデル化されたからこそ〈私〉は「一般的自我」にいわば頽落しちゃったということでしょ?

    >そうですね。

    >> でも、これ、明らかにおかしいでしょう。
    >> だって、永井の言う「一般的自我の独我論」になったのは、永井がウィトゲンシュタインの言葉に反して勝手に絵を描いた=モデル化したからですよね。
    >> 「少なくとも、そう読まれざるをえない。」などと断定してますが、それは読解力の問題にすぎません。と私は思います(笑)

    >なるほど。

    >> 「T:5.62 世界が私の世界であることは、この言語(私だけが理解する言語)の限界が、私の世界の限界を意味することに示されている。」
    >> ここで「示されている」と述べられている独我論を勝手にモデル化して解釈してしまったがゆえに、永井の言う「一般的自我の独我論」、いわゆる「語られた独我論」ってことになってしまっているわけです。
    >> つまり、本来『論考』が否定している独我論を、永井は『論考』の独我論であると主張しているってことです。というのが、私の見解です^^

    >その可能性には同意します。
    >私からすればウィトゲンシュタインに〈私〉の同類者と嗅ぎとれるのは『「個人的経験」および「感覚与件」について』や『哲学探究』からなんですね。
    >少なくとも写像理論を前提とした『論考』では嗅ぎとれない。おそらく永井氏も同じなんだと思います。
    >写像理論自体が語りえる、つまり一般化された言語考察ですよね?『論考』での「語りえないもの」とは写像としての言語の網の目をすり抜ける対象として捉えていたように(永井氏のウィトゲンシュタイン論を)私は解釈しています。
    >

    この点に関してですが、パニチェさんは、

    一般性(的)
    ⇒誰にでも当てはまる
    ⇒独我性消失=唯一性消失

    と捉えているように思います。
    だから、「写像理論自体が語り得る、つまり、一般化された言語考察ですよね?」
    と言い、写像理論が前提となる『論考』では、本当の独我性は抜け落ちている、と考えてらっしゃるように思います。
    まあ、当たっているかどうかは別として、前にも永井の根本的誤謬のひとつとして私が指摘した問題があるように思います。
    以下は、パニチェさんというより、永井の考えについて、述べます。

    「一般性」というとき、永井は区別していないけれども、絶対に区別すべきことがあります。これは『論考』の根本思想の一つです。
    それは「経験的一般性」と「形式的一般性」の区別です。
    もちろん、これは「語り得る一般性」と「示される一般性」に対応します。
    ちょっとまとめましょう。

     経験的(実質的)一般性:形式的一般性
    =アポステリオリな一般性:アプリオリな一般性
    =経験科学的一般性:数学的(論理学的)一般性
    =語り得る一般性(経験的検証):示される一般性(証明)

    言語研究は学問である限り、当然いろんなレベルでの言語の一般的真理の研究になるでしょうが、上の区別に応じて、大きく二つに分けられます。

    =経験科学としての言語研究(言語学):数学としての言語研究(論理学)

    言うまでもなく、これらの区別は「真理」にも当然適用されます。

    =経験的真理:論理的真理(数学的真理)

    経験科学としての言語研究(以後「言語学」)では、その文法や法則を発見するにせよ、それは帰納的に発見されるものです。
    それは物理学的法則と同様です。
    それに対して、論理学的に言語を研究する場合、それは現実の言語から離れ、それから独立に命題体系を構成します。
    そこにおける法則は、もっぱら演繹的に導かれるものです。
    これはユークリッド幾何学が一種のゲームと捉えることができ、定理が現実の図形についての事実を語るものではないこと、その意味で、チェスや将棋といったゲームの駒が現実のキングや王を意味するものでないこと、定石が現実について語るものではないのと類比されます。
    『論考』の写像理論も、現代的には数学基礎論におけるモデル理論に相応します。
    つまり、「写像理論」で考察される言語とは、現実の言語ではなく、あくまで数学的に構成される抽象的な言語体系のことのわけです。
    その言語を定義したのが T:6 です。
    なので、
    >写像理論自体が語りえる、つまり一般化された言語考察ですよね?

    については、写像理論は言語の論理学的考察であり、ゆえに語られる理論ではなく、示されるべき形式的一般理論である、というのが回答になります。

    で、ここで重要なことは、ユークリッド幾何学の公理系が唯一であるのと同じ意味で、写像言語=命題の体系は、唯一である、ということです。
    つまり、世界中でユークリッド幾何学は研究されていますが、その研究者それぞれのユークリッド幾何学があるわけではありませんよね。
    まったく同様な意味で、論理学が扱う命題体系は(本来)唯一ということです。

    主観についても同様のことが言えます。
    経験的な一般的主観と、形式的一般項としての主観では、全く存在論的意味が異なるのです。
    永井は、「一般的主観」というとき、経験的一般的主観として述べます。
    それは語られる「私」、客体化された「私」です。
    つまり、図5の〈私〉なのです。
    なので、「〈私〉の世界」は、誰にも当てはまるから、人物Aの「私の世界」、人物Bの「私の世界」、……、となって、いわばモナド的なミクロコスモスがマクロコスモスの中に多数存在してしまうわけです(『〈私〉の存在の比類なさ』55頁、図18参照)。

    それに対して、形式的一般項として主観を捉えるということは、あくまでマッハ図の形式として示されている《私》として捉えるということ。
    この視座から世界を捉えることは、前掲書、図6の視座に立って、世界内存在者であるA,B,C,……,もすべて「全一同一唯一の《私》」と捉えること。
    したがって同時に、人物Aの言語も、Bの言語も、…、それぞれの言語なのではなく、全一同一唯一の写像言語=《私》の言語である、と捉えることなのです。
    よって、人物Aの世界も、Bの世界も、…、それぞれの世界(ミクロコスモス)なのではなく、
    《私》の世界(ミクロコスモス)=全一同一唯一の世界(マクロコスモス)
    ということになります。


    > **********************


    >>>では、何故「図6の側面図が図5なのであるから、ウィトゲンシュタイン的な独我論は図5および図6に形象化されている」と述べ、ウィトゲンシュタインの眼の図5を元にして永井氏の独在論として形象化したのか?
    >>>これは読者に〈私〉の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた図であるってことだと思います。


    >> 実情は、繰り返しますが、そのことによって『論考』の言う、『示される独我論』がすっかり隠蔽されてしまった、ということだと私は思います。

    >>>客体化した図に表すことができないのが〈私〉です。
    >>>「形としてはっきり現われていないものを、一定の方法(ウィトゲンシュタインの独我論)と媒体(眼の図)によって明確な形として表現」したのではないか?
    >>>だから、本来は永井氏も「〈私〉はけっしてこのような形をしていない」というべき図5だと思います。
    >>>まあ、これは永井氏に確認してみないと分からないことですが。。。

    >> 上に二つのパラグラフとして挙げたパニチェさんの見解は、私にはきわめて興味深いものでした。
    >> というのは、これは、『ウィトゲンシュタイン入門』(71-73頁)に永井が取り上げた、いわゆる『キャロルのパラドックス』の話と、非常によく似た構造が見て取られ得ると思われたからです。
    >> 詳しい話は同書を参照していただくことにして省略しますが、
    >> この話の要旨をむちゃくちゃ乱暴にまとめると、アキレスが、カメに推論が本当に正しいということを納得させるために、カメの要請で推論を正当化する論理法則を推論の前提として書き入れたことによって、無限背進に陥ってしまうって話です。
    >> この話から得られる教訓を、目下の問題と類比して述べますと、
    >> 本来、語り得ぬ論理法則(仮に「メタ事実」とします)を語ってしまったがゆえに無限背進に陥った、ってことになります。
    >> これは、「私は私の世界である」という語り得ぬこと(メタ事実)を、言語化(モデル化)してしまったがゆえに「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥る永井ときわめて似ています。
    >> つまり、
    >> 「これは読者に〈私〉の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた図であるってことだと思います。」
    >> という解釈の通りだとすると、次のような同型ともとれる関係が二つの話には見出せると思うのです。
    >> 「これはアキレスがカメに論理法則の存在を伝える(正確には伝達できないが)手段として用いた命題であるってことだと思います。」

    >> アキレス∽永井
    >> カメ  ∽ 読者

    >> つまり、アキレスがカメを納得させるために、本来語り得ない論理法則を語ってしまって無限背進に陥ったように、
    >> 永井が読者に説明するために、本来語り得ない独我論を語って「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」に陥ってしまったということ。

    >その可能性はあると思います。
    >一方で繰り返しになりますが『論考』には〈私〉に関する公案あるいは禅問答めいた>.文章が記されてないために一般的な独我論としたように思います

    >> もちろん、ウィトゲンシュタインは、論理法則は語り得ないということをわかっていました。

    >ここもう少し詳しく教えて下さい。
    >論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか?
    >一般化されなければ論理法則は法則になりえませんよね?

    ここも、
    一般化される=誰にでも当てはまる語り
    という前提があるように思われます。
    論理法則とは、要するに論理的真理であって、同語反復命題によってあらわされますが、これは何事も語りません。
    論理的真理は、命題自身がトートロジーであることによって真であることを示しているのです。
    つまり、論理的命題は、写像ではありません。「鏡像」と言われています。
    論理の研究はアプリオリな一般形式の研究です。

    要するに、一般的言語理論であろうと一般的主観であろうと、「経験的一般性」ではなく、「形式的一般性」であれば、唯一性は失われない、ということです。
    喩えれば、チェスの「白のキング」は世界中で唯一人であるように。
    自然数の1も、世界中で唯一です。




    > >>>>****************

    >> 〈私〉がモデルではなく、「〈私〉と世界」をどういうモデルで考えているのでしょう?という質問でした。

    >了解しました。

    >> で、ビッグバン宇宙論の特異点と宇宙ということですね。

    >そうです。あくまで空間的な側面しとして特異点ってことです。

    >> これに関しても、ここまで言ってきたように、私として疑問なのは、やはり語り得ないものを語り得るものをモデル(宇宙論)にして説明すること、ということになりますね。
    >> 実際、この宇宙開闢には、時間が含まれるんじゃないでしょうか。

    >はい、物理の特異点は時空の特異点ですから時間も含まれます。

    >> だから、門外漢でもイメージしやすいですよね。
    >> そして、いや、「世界開闢の特異点としての〈私〉」の「開闢」には時間の意味はなく、空間の開けしか含意されていない、ということなら、やはり、図5のようなモデルでしか理解できないように思います。

    こ>こも繰り返しになるんですが〈私〉を理解し、ビッグバン宇宙論を一般教養レベルで知っている人は「そうだ!」と共感できると思います。
    >だから永井氏も期せずして?たまたま?私と同じ表現「特異点」を使ったのだと思います。
    >

    しつこいようですが、やはり、そのモデルで「共感できてしまう」こと自体がまずいと思うわけです。
    というのも、
    「ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、ということ」だと思うからです。


    > ***********************
    >> ご存知かもしれませんが、参考までに、一つ補足を。
    >> 「キャロルのパラドックス」についての考察は、いろいろありますが、
    >> 目下の問題と深く関わるであろう観点から詳細に考察したものとして、次があります。
    >> 『相対主義の極北』(入不二基義)(勁草書房) (文庫がちくま文庫かなんかにあるかも)

    >> これは、入不二基義さんだけあって、私見なんですが、実は、「独在と頽落の終わることなき拮抗運動」を肯定することにつながるような、『キャロルのパラドックス』についての詳しい考察があって、パニチェさんにとっても面白いかも、と思います。
    >> ただ、論理式が出てくると読む気が失せる、というタイプの人には向かないと思いますので、そこはご注意ください。
    >> 伺ったことなかったですが、パニチェさんは、どうでしょう?
    >> 『論考』でも、論理学がテーマのところは大丈夫ですか?

    >論理学関連本は何冊かは読みましたが理解はイマイチです。
    >よって『論考』の論理学がテーマのところは正確に理解できているとは思えません。^^;
    >ちなみに先の『キャロルのパラドックス』の話は理解しているつもりです。
    ****************
    実は、
    >論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか?
    について、詳しく書こうとしたのですが、長大にならざるをえないのと、それでもわかりやすいと思えないことなどで、諦めました。
    かわりに、関連するところを
    D・リー編(山田友幸他訳)『ウィトゲンシュタインの講義T ケンブリッジ1930-1932』 (勁草書房)
    から引用しておきます。飯田隆先生によるとウィトゲンシュタインがキャロルのパラドックスを知っていたとされる根拠になるところだそうです。最初の「(大まかに言って)」を除いて、カッコ内はふくろうの注です。

    帰結するという関係は(大まかに言って)それらが成立しないということが思考不可能である場合に成立する内的関係(示されるべき関係)である。命題が真であるか偽であるかということは、実在との比較によってのみ決定されうる。したがって、p∨qがp・qから帰結するということは命題ではない(何も語っていない)。それは何の役にも立たない。(示されている)内的関係を見て取ることこそが、推論を正当化するのである。推論を正当化するためには推論のルールは何ら必要ではない。というのももし必要であったならば、そのルールを正当化するために別のルールが必要であったであろうし、それは無限後退に導くだろうからである。われわれは内的関係を見て取らなければならないのである。(上掲書、108-109頁)

    そして、この内的関係を正確に示す表記法が『論考』のTF表記法だった、ということなのです。


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