□投稿者/ パニチェ -(2023/09/18(Mon) 09:24:22)
| おはようございます、ザビビのふくろうさん。丁寧なレスをありがとうございます。
■No33121に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
> うーん、自分から話しを振っておいて何なんですけど、この問題難しいですよね(笑)
確かに難しい。。。^^
> そもそもは、パニチェさんの考えでは、〈私〉は知覚世界と独立の実在かどうかを確かめるためにした質問だったような気がするんだけど…。
そういう文脈でしたね。
> とりあえず、これがいいか悪いかは措いて、話を簡単にするために、ここでは〈私〉を〈意識としての自己〉と解釈・仮定し、「〈私〉の世界」を「私の意識世界」て考えますね。 > この〈私〉の世界を内側から把握する限り(つまり、マッハ図の視点)、〈私〉の存在しない世界などというものは想像し得ません(自分が意識を失っているマッハ図など描けない)。 > 要は〈私〉は絶対の〈存在(有)〉であり、その非存在を思考する(語る)ことは論理的に不可能であり、無意味。 > しかし、世界内存在者としての「私」がいなくなった世界は普通に想像可能です(自分が死んだ後の未来世界の想像とか)。 > 同様に、私の意識世界の外側の視点に立って私を対象化し、その「「私」が眠っている世界」「「私」が眠ったまま夜の街を徘徊している」というのは想像可能です。 > そうすると、その想像された絵(「私」が眠っている心象)自体は〈私〉の表象であるが、描かれた絵の中には、「私」は存在しても、〈私〉は存在しない、と言うべきだと思うんですね。 > そうすると、やはり「眠っていた「私」は〈私〉ではない」ってことになるように思います。 > もし、パニチェさんが、この「私」も〈私〉だと考えるのであれば、私との見解の相違ということになりますが、どうでしょうかね。
自分が意識を失っている間に何かしらの夢で見ているとするなら、その夢がマッハ図で描く世界になります。 また世界内存在者としての「私」がいなくなった世界は普通に想像できますが、想像することと実体験することは違うと思います。 夢の中で存在するのは「私」であって、その夢を見ている主体が〈私〉です。よって「私」が登場しない夢は見ることがあっても夢見る主体である〈私〉なくして夢を見ることも眠ることも不可能であるように思えるのです。 ザビビのふくろうさんが言うように見解の相違になるんでしょうね。
> しかし、今、意識に立ち現われている過去に見た情景(記憶表象)というのは、〈私〉の情景であると思います(例えば、No32907で述べた夕日の情景など)。 > ということで、この問題は、このあたりにしておきましょうか?大変だし(笑)
『翳りゆく部屋』とともに記憶された「夕日の情景」ですね。あれは名曲だと思います。 でも、情景自体は(他者と共有可能な)客観的なものであって、その情景に『翳りゆく部屋』とともに色付けられた私秘性に記憶された情景は他者とは共有不可能な唯一無二の景色であると思います、が。 「この問題は、このあたりにしておきましょう」に同意します。^^
> >解離性同一障害については同意します。 > >確かに「〈私〉があったことが分かる」ってのは上記の定義からすれば矛盾してますね。 > >ただ「私があった」から「私が眠っていた」ことが分かるわけで、〈私〉はなかったが私だけがあったてのもしっくりきません。 > >私と〈私〉は不分離ですからね。 > > > > ただ、このへん、独我論を主張する場合は重要だと思います。 > 特にパニチェさんのように、知覚世界の存在と〈私〉の実在というふうに分離する考え方の場合、「見るもの―見られるもの」という図5の枠組み(主観―客観図式)で捉えられていると考えられるので、「見られるもの(客観)」が失われたとき、見るもの(主観)である〈私〉は残るのか、というのは問題だと思うんですね。 > たとえば映画『マトリックス』のパニチェさんの説明(No32802)では、仮想世界と〈私〉は「存在のフィールドが異なる」と言い、「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に実在している」ともおっしゃっていたので、バーチャル世界(客観)が消滅しても〈私〉(主観)は消えないのかな、と思うんですが、どうですかね。 > この解釈では、たとえば瞑想で無念無想の境地になっても〈私〉だけは残るって感じにも思えるんですが、そういうイメージは違うかな?
マトリックスの映画(あと「桶の中の脳(水槽の脳)」とか「一炊の夢(邯鄲の夢)」も含めて)は設定からして「バーチャル世界の外にあるカプセルの中に真の人体が実在している」ということになってますので少し無念無想の境地とは異なると思いますが、強いて残るとするなら西田哲学の純粋経験みたいな主客未分の〈私〉ですかね。
> これ、私としては、少し違和感があるんです。 > というのも、昔の偉い禅僧の話なんかを読むと、永井に感じるような違和感はあまりないんですよ。 > 何でかなと考えたら、たぶん、禅僧のいわゆる公案や禅問答は、明らかに矛盾したことやわけわからんことを言って、「語り得ない」ということを示しているように感じるからです。 > ところが、永井のは明らかに説明、語りですよね。 > ここが違うように思うんですよね
公案や禅問答はわけわからんことを言って「語り得ない」ということを示しているのではなくて(笑)、言語化できない見性(悟り=勝義諦=真諦)に弟子が正しく向かってるか(誘導する)、あるいは体得しているかどうかを師家が確認するための質疑応答です。真諦そのものは言葉にできなくても禅問答や公案を通じて悟っている師家にはそれが分かり、弟子も悟っていたり、かすっていれば師家にそれを間接的に伝えることができるというのものです。
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