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No33131 の記事


■33131 / )  ザビビのふくろうさんへ 2
□投稿者/ パニチェ -(2023/09/18(Mon) 10:35:47)
    2023/09/18(Mon) 10:40:22 編集(投稿者)

    以下は論理学に疎いところがあり、分からないところはスルーして(文脈を無視して)、一部を切り取っての返信になるのをご容赦いただき、レスに値しないところは無視して下さい。
    よろしくお願いします。

    No33122に返信(ザビビのふくろうさんの記事)

    > >写像理論自体が語りえる、つまり一般化された言語考察ですよね?『論考』での「語りえないもの」とは写像としての言語の網の目をすり抜ける対象として捉えていたように(永井氏のウィトゲンシュタイン論を)私は解釈しています。

    > この点に関してですが、パニチェさんは、
    > 一般性(的)
    > ⇒誰にでも当てはまる
    > ⇒独我性消失=唯一性消失
    > と捉えているように思います。
    > だから、「写像理論自体が語り得る、つまり、一般化された言語考察ですよね?」
    > と言い、写像理論が前提となる『論考』では、本当の独我性は抜け落ちている、と考えてらっしゃるように思います。

    そうです。

    > まあ、当たっているかどうかは別として、前にも永井の根本的誤謬のひとつとして私が指摘した問題があるように思います。
    > 以下は、パニチェさんというより、永井の考えについて、述べます。

    了解しました。

    > 「一般性」というとき、永井は区別していないけれども、絶対に区別すべきことがあります。これは『論考』の根本思想の一つです。
    > それは「経験的一般性」と「形式的一般性」の区別です。
    > もちろん、これは「語り得る一般性」と「示される一般性」に対応します。
    > ちょっとまとめましょう。

    >  経験的(実質的)一般性:形式的一般性
    > =アポステリオリな一般性:アプリオリな一般性
    > =経験科学的一般性:数学的(論理学的)一般性
    > =語り得る一般性(経験的検証):示される一般性(証明)

    > 言語研究は学問である限り、当然いろんなレベルでの言語の一般的真理の研究になるでしょうが、上の区別に応じて、大きく二つに分けられます。
    > =経験科学としての言語研究(言語学):数学としての言語研究(論理学)
    > 言うまでもなく、これらの区別は「真理」にも当然適用されます。
    > =経験的真理:論理的真理(数学的真理)

    > 経験科学としての言語研究(以後「言語学」)では、その文法や法則を発見するにせよ、それは帰納的に発見されるものです。
    > それは物理学的法則と同様です。

    > それに対して、論理学的に言語を研究する場合、それは現実の言語から離れ、それから独立に命題体系を構成します。
    > そこにおける法則は、もっぱら演繹的に導かれるものです。
    > これはユークリッド幾何学が一種のゲームと捉えることができ、定理が現実の図形についての事実を語るものではないこと、その意味で、チェスや将棋といったゲームの駒が現実のキングや王を意味するものでないこと、定石が現実について語るものではないのと類比されます。
    > 『論考』の写像理論も、現代的には数学基礎論におけるモデル理論に相応します。
    > つまり、「写像理論」で考察される言語とは、現実の言語ではなく、あくまで数学的に構成される抽象的な言語体系のことのわけです。
    > その言語を定義したのが T:6 です。

    T:6というのは「6.真理関数の一般的形式は、[記号省略]である。これは命題の一般形式である。」のことですね?

    > なので、
    > >写像理論自体が語りえる、つまり一般化された言語考察ですよね?
    > については、写像理論は言語の論理学的考察であり、ゆえに語られる理論ではなく、示されるべき形式的一般理論である、というのが回答になります。

    > で、ここで重要なことは、ユークリッド幾何学の公理系が唯一であるのと同じ意味で、写像言語=命題の体系は、唯一である、ということです。
    > つまり、世界中でユークリッド幾何学は研究されていますが、その研究者それぞれのユークリッド幾何学があるわけではありませんよね。
    > まったく同様な意味で、論理学が扱う命題体系は(本来)唯一ということです。

    例えばユークリッド幾何学の公理である「任意の2点 A, B に対して、それらを通る直線 l が少なくともひとつ存在する。」は語られているのではなく、示されているだけってことになるんでしょうか?
    ここらが私には理解できないのです。

    > 主観についても同様のことが言えます。
    > 経験的な一般的主観と、形式的一般項としての主観では、全く存在論的意味が異なるのです。
    > 永井は、「一般的主観」というとき、経験的一般的主観として述べます。
    > それは語られる「私」、客体化された「私」です。
    > つまり、図5の〈私〉なのです。

    上記の図というのは「〈私〉の存在の比類なさ P.28」の図5のことですね。
    これは図に描くこと自体が客体化した〈私〉になるので頽落しており、一般的な「私」になっています。

    ちなみに「〈仏教3.0〉を哲学するU P193」の図4なら世界の中の一人としても「私」になります。
    「私」であるなら図4の中の人物であり、図5で言うならアタマの展開する世界の中にいる一人としての(根本にあるわが生命ではなく)「私」ってことになるはずです。
    これも同様に図にしている時点で「私」と〈私〉の区別はなくなっています。

    > なので、「〈私〉の世界」は、誰にも当てはまるから、人物Aの「私の世界」、人物Bの「私の世界」、……、となって、いわばモナド的なミクロコスモスがマクロコスモスの中に多数存在してしまうわけです(『〈私〉の存在の比類なさ』55頁、図18参照)。

    よって図にしているから「〈私〉の世界」が誰にも当てはまるよいになっており、頽落した「私」になっていることから誰にも当てはまる『「私」の世界』になっているとになります。
    そもそも「〈私〉の世界」は誰にも当てはまるものではありません。

    > それに対して、形式的一般項として主観を捉えるということは、あくまでマッハ図の形式として示されている《私》として捉えるということ。
    > この視座から世界を捉えることは、前掲書、図6の視座に立って、世界内存在者であるA,B,C,……,もすべて「全一同一唯一の《私》」と捉えること。
    > したがって同時に、人物Aの言語も、Bの言語も、…、それぞれの言語なのではなく、全一同一唯一の写像言語=《私》の言語である、と捉えることなのです。
    > よって、人物Aの世界も、Bの世界も、…、それぞれの世界(ミクロコスモス)なのではなく、
    > 《私》の世界(ミクロコスモス)=全一同一唯一の世界(マクロコスモス)
    > ということになります。

    マッハ的光景も誰にでも当てはまる光景になります。
    そういう意味では図5とマッハ的光景は差異はありません。

    >>**********************

    > >ここもう少し詳しく教えて下さい。
    > >論理法則が語りえないということは具体的にはどういうことでしょうか?
    > >一般化されなければ論理法則は法則になりえませんよね?

    > ここも、
    > 一般化される=誰にでも当てはまる語り
    > という前提があるように思われます。
    > 論理法則とは、要するに論理的真理であって、同語反復命題によってあらわされますが、これは何事も語りません。
    > 論理的真理は、命題自身がトートロジーであることによって真であることを示しているのです。
    > つまり、論理的命題は、写像ではありません。「鏡像」と言われています。
    > 論理の研究はアプリオリな一般形式の研究です。

    > 要するに、一般的言語理論であろうと一般的主観であろうと、「経験的一般性」ではなく、「形式的一般性」であれば、唯一性は失われない、ということです。
    > 喩えれば、チェスの「白のキング」は世界中で唯一人であるように。
    > 自然数の1も、世界中で唯一です。

    論理的真理も公理もスタート地点がトートロジーであることは理解できます。
    上記は「語り得ること」と「根拠が説明できること」と同じ意味で用いられていますか?
    私は「語り得ること」と「根拠が説明できること」は異なると考えています。
    よって論理的真理も公理も「語り得る」と。「語り得る」から論理的真理や公理足り得る。
    一方で〈私〉は「語り得ない」から文章や命題にすらなり得ないってことになります。

    >>>>>>****************

    > しつこいようですが、やはり、そのモデルで「共感できてしまう」こと自体がまずいと思うわけです。
    > というのも、
    > 「ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、ということ」だと思うからです。

    ここも繰り返しになりますが見性しているものが師家の公案や禅問答でその真意(問われている対象が悟りであること)に「共感できる」ように、〈私〉を知っている読者には「共感できてしまう」のです。

    >>***********************

    > 帰結するという関係は(大まかに言って)それらが成立しないということが思考不可能である場合に成立する内的関係(示されるべき関係)である。命題が真であるか偽であるかということは、実在との比較によってのみ決定されうる。したがって、p∨qがp・qから帰結するということは命題ではない(何も語っていない)。それは何の役にも立たない。(示されている)内的関係を見て取ることこそが、推論を正当化するのである。推論を正当化するためには推論のルールは何ら必要ではない。というのももし必要であったならば、そのルールを正当化するために別のルールが必要であったであろうし、それは無限後退に導くだろうからである。われわれは内的関係を見て取らなければならないのである。(上掲書、108-109頁)
    > そして、この内的関係を正確に示す表記法が『論考』のTF表記法だった、ということなのです。

    今回のザビビのふくろうさんのレスで気付かされたのですが、やはり(可能性として)『論考』で言うところの語り得ない対象は〈私〉は含まれていないように思います。
    語られない次元というかフィールドが異なる。

    トートロジーになるとか、真偽とか、有意味であるとか、無意味であることに関係なく〈私〉は言語の性質上「語り得ない」ってことになる。
    そして論理や言語以前(外)に〈私〉が「今ここに存在しており」、そこから世界も論理も言語も開けるってことになる。

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