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■21238 / inTopicNo.37)  Re[63]: :   知覚と想像
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/03(Thu) 18:50:21)
    ここまでのを集めると、
    (a) 知覚の領域に想像というのを位置づけている。
    (b)知覚はつねに想起、予期、想像が協働している。
    (c)想起は対象をかつてあったと肯定している。
    (d)予期は対象を将来あるだろうと肯定している。
    (e)知覚は対象を実在のものとして肯定している。
    (f)想像は対象を不在のものとして肯定してる。

    これらから、ひとまず、
    (A)知覚の領域=知覚+{想像・想起・予期}
    ってして見とく。
    で、
    「対象」なんだけど、
    わたし「対象」っていうの、〈○○に対する象〉、〈象〉だから精神(意識)に現れてるもの、ってして見てる。
    でも、「対象」っていったら、〈私に対するもの〉的に使われる場合もあるのかもしれない。
    たとえば、「わたしの物語りでわたしが対象としているのはメルポンの現象学」みたいに。

    ここでもっと具体的なので見ていって見ることにする。

    〔今、私の前に、一個の「▽」があって、私は「それ」を見ている。〕
    を見ていってみます。

    「▽」を「リンゴ」ってするね。私が「▽」を「リンゴ」と思った時点で、すでにリンゴが▽の意味ていうこと、っていうのが前回のお話しだったんだけど、今回のはそれとはちがうので見ていくね。
    で、
    〔今、私の前に、一個の「リンゴ」があって、私は「それ」を見ている。〕にする。

    〔私の前にある一個の「リンゴ」〕、これって〈私に対して在る物〉、〈現前する物〉、〈今、私の“対象”となっている物(一個のリンゴ)〉って言ってもいいよね。でもわたしのばあい「対象」はわたしの外にある物じゃなくて、わたしのうち(意識)のなかに現れてるもの、ってしてるから、区別して、私に対して私の外にあるものを「対物」とか「対事」ってする。
    〔私の前にある一個の「リンゴ」〕は〈私の対物となっている一個の「リンゴ」〉っていう言い方になるのね。
    「リンゴという対象」というばあい、私のうち(意識)に現れてるリンゴのことね。あ、もうちょっと表言の仕方区別しておく。私のうち(意識)に現れてるのを〈リンゴ〉って表記することにする。
    「リンゴ」って言ったら私の外にある物、〈リンゴ〉って言ったら私のうち(意識)に現れてるもの、っていうことにする。

    だいぶわたしの勝手なのになってきてる感じだけど、つづけちゃうよ。

引用返信/返信 削除キー/
■21196 / inTopicNo.38)  Re[62]: :   知覚と想像
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/03/01(Tue) 18:14:10)
    No21149のつづき

    (10)想像の性格は、記憶や期待も共有している。
    っていうことから、わたし想起・予期・想像を準現在化としてまとめて見たんだけど、
    それぞれの違いを見ていって見る。

    (11)記憶は対象をかつてあったと定立する。
    (12)期待は対象を将来あるだろうとして定立する。

    「定立」っていうのを〈肯定する〉ってして見る。
    ・想起−記憶―過去
    ・予期−期待―未来
    って見たから、
    (c)想起は対象をかつてあったと肯定している。
    (d)予期は対象を将来あるだろうと肯定している。
    想起、予期の性格はこういうのでいいかな。
    ちょっと問題なのは「対象」。これ後で見ていく。

    「想像」なんだけど、「知覚」と対比して見ていくことにしたよ。
    (4)想像は対象を無として定立している。
    (13)想像は対象を非定立のまま保持しつづける。
    (14)想像は対象が現前してない。
    (3)知覚は、対象を現にここに存在するものとして定立している。
    (8)知覚は対象を意識に自己現前するものとして表象する。
    って、いろいろあるんだけど、
    (2)「知覚」と「想像」とは意識の対象に対するかかわり方が本質的に異なる。
    で、想像と知覚の違いを、
    (29)志向対象の実在性の有無。
    で見ていって見る。
    こう見たときわたしにわかりやすかったのが、
    (30)知覚とイマージュとの違いは、知覚が対象を実在のものとして定立するのに対して、イマージュが対象を不在のものとして定立する。
    これね。
    「イマージュimage」を「想像」ってして見ると、
    (e)知覚は対象を実在のものとして肯定している。
    (f)想像は対象を不在のものとして肯定してる。
    ってなる。
    (e)は、
    (3)知覚は対象を現にここに存在するものとして定立している。
    (8)知覚は対象を意識に自己現前するものとして表象する。
    (f)は、
    (4)想像は対象を無として定立している。
    (13)想像は対象を非定立のまま保持しつづける。
    (14)想像は対象が現前してない。
    と同じことを言ってる感じ。

    ん〜ん、ここでも「対象」っていうの、ひっかかるのよね〜。
    知覚の対象は?
    想像の対象は?
    なあに?

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■21149 / inTopicNo.39)  Re[61]:   知覚と想像
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/27(Sun) 17:09:27)
    ここからは、現象学のわたしの、どうしとこっかな〜、って。わたしの勝手なの。
    なんとなくまとまってきたのあるんだけど、それ言葉で表現するのに手間取ってるっていう感じ〜?

    わたし「知覚」のイメージ、ちょっと変わった感じ。

    (5)“想像”を、知覚と思惟(認識)の中間に位置づけず、“知覚と並び知覚にどこまでも近いもの”。
    (15)“想像とは”存在定立の排去を自然的に遂行された“知覚のことである”。
    から、
    現象学では、
    (a)知覚の領域に想像というのを位置づけている。
    ってする。

    (9)想像は像のうちに対象を準現在化する働き。
    (23)直観的表象作用はその統握形式に従って、大きく現在化と準現在化とに分けられる。現在化は対象が現に現れること、有体的に現前していることを表し、知覚の志向的性格であるとされる。これに対して準現在化は記憶や想像や予期を規定し、現にない対象を思い浮かべる事態であり、この意味では、再生(Reproduction)や再現前化(Reprasentation)と同義である。
    (24)現前しているのはその対象の一側面である射映ないし現出でしかないが、しかし志向的には対象のそのものが知覚されている、すなわちそのつどの現出を通して可能的諸現出(地平)をもつ対象が現出している。地平は対象ごとに既知の類型によって枠づけられているから、現在化にはつねに想起と想像としての準現在化が協働している。
    (25)知覚対象は単なる現前(Prasenz)ではなくつねに付帯現前(Apprasenz)なのである。
    から、

    記憶、期待、想起、を整理して、
    ・想起−記憶―過去
    ・予期−期待―未来
    でいいと思う。
    で、
    ・現在化――知覚
    ・準現在化――想像、想起、予期
    そして、
    《現在化にはつねに想起と想像としての準現在化が協働している》から、
    〈知覚はつねに想起と想像が協働している〉。これに〈予期〉を加えて、

    (b)知覚はつねに想起、予期、想像が協働している。
    ってする。

    こう見たところで、
    (25)知覚対象は単なる現前(Prasenz)ではなくつねに付帯現前(Apprasenz)なのである。
    を見て見るね。
    この「知覚対象」っていうの、〈知覚の対象〉〈知覚に対する象〉ってすると、(25)の意味、よく分かんないのでね、〈知覚という対象〉で見て見たのね。〈自-己に対する知覚という象〉って。
    あ、ここで言う〈自-己〉っていうのは、
    No15345で書いたようなのね。
    ちゃんと言うと、〈己(思-考)に対する“知覚されているも”のという象〉。

    「付帯」をネットで調べて見たら「主となる物事に付け加えること。また、付け加わること。」ってあった。
    〈知覚はつねに想起、予期、想像が協働している〉っていうことから、「主となる事物」を〈知覚〉、これに「付け加えられてるもの」を〈想起・予期・想像〉って見ることもできるかな。
    また、
    「現前(Prasenz)」を〈プレゼント〉、「付帯現前(Apprasenz)」を〈なにかが付け加わってるプレゼント〉ってして見ると、
    (25)はこうなるのね、
    〔思-考に対して知覚されているものは、単なるプレゼントじゃなくてつねになにかが付け加わってる。〕
    こう見るとなんかわたしにわかりやすくなる感じ。

    バレンタインデー、チョコをあげる。チョコというプレゼント、それは「チョコ」という単なる食べ物じゃなくてそれにはなにか付け加わってる。たとえ「ギリチョコ」でも、そこには「ギリ」というのが付け加わってるのよね。

    あれ、ちょっと話、違っちゃる?
    ま、いいわ、つづきはまたあとで。

引用返信/返信 削除キー/
■21047 / inTopicNo.40)  Re[60]: イメージ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/23(Wed) 18:40:55)
    ひとまず、わたしが抽出したところ、まとめときます。

    (1)「想像」は「再生産的想像」と「創造的想像」に分けられてる。
       (たしかカントのは「再生産的構想力」と「生産的構想力」みたいだけど同じなのかはわかんない)
    (2)「知覚」と「想像」とは意識の対象に対するかかわり方が本質的に異なる。
    (3)「知覚」は、対象を現にここに存在するものとして定立している。
    (4)「想像」は、対象を無として定立している。
    (5)「想像」を、知覚と思惟(認識)の中間に位置づけず、知覚と並び知覚にどこまでも近いもの。
      (アリストテレスは知覚と思惟との中間に位置づけ、カントもそんな感じのだったと思う)
    (6)「想像」における〈想像・像〉は意識内容ではなく、志向的対象。
    (7)「感覚の変様態」を「ファンタスマ」って呼んでる。
    (8)「知覚」は対象を意識に自己現前するものとして表象する。
    (9)「想像」は像のうちに対象を準現在化する働き。
    (10)「想像」の性格は、「記憶」や「期待」も共有している。
    (11)「記憶」は対象をかつてあったと定立する。
    (12)「期待」は対象を将来あるだろうとして定立する。
    (13)「想像」は対象を非定立のまま保持しつづける。
    (14)「想像」は対象が現前してない。
    (15)「想像」とは存在定立の排去を自然的に遂行された知覚のことである。
    (16)「知覚」においてその体験された内容が感覚と呼ばれる。
    (17)「想像」における内容はファンタスマと呼ばれる。
    (18)「感覚視野」、「想像野」っていうのがあって、「ファンタスマ」は「想像野」に支えられている。
    (19)「感覚知覚野」に現れているのが「知覚対象」、「想像野」に現れているのが「想像対象」?
    (20)「感覚視野」と「想像野」は関連していなくて、「知覚対象」と「想像対象」は一致することはない。
    (21)「感覚」は実在性と現前(現在)を有する。
    (22)「ファンタスマ」は非現実性と空無性という性格をもつ。
    (23)直観的表象作用はその統握形式に従って、大きく現在化と準現在化とに分けられる。現在化は対象が現に現れること、有体的に現前していることを表し、知覚の志向的性格であるとされる。これに対して準現在化は記憶や想像や予期を規定し、現にない対象を思い浮かべる事態であり、この意味では、再生(Reproduction)や再現前化(Reprasentation)と同義である。
    (わたし[representation]は「表象」とも見てる)
    (24)現前しているのはその対象の一側面である射映ないし現出でしかないが、しかし志向的には対象のそのものが知覚されている、すなわちそのつどの現出を通して可能的諸現出(地平)をもつ対象が現出している。地平は対象ごとに既知の類型によって枠づけられているから、現在化にはつねに想起と想像としての準現在化が協働している。
    (25)知覚対象は単なる現前(Prasenz)ではなくつねに付帯現前(Apprasenz)なのである。
    (26)ノエシス的契機あるいはノエシスは意識の作用的側面を、そしてノエマ的契機あるいはノエマはその対象的側面を表す。
    (27)志向性はノエシスとノエマとの両側面を本質的に持ち、しかもそれら両本質は相互に不可分である。
    (28)ノエマは広義での「意味」と解され、いかなる志向的体験もみなあるノエマを持ち、そのノエマにおいてある意味を持ち、この意味を介して、その体験は対象へと関係する。
    (29)志向対象の実在性の有無。
    (30)「知覚」と「イマージュ」との違いは、知覚が対象を実在のものとして定立するのに対して、イマージュが対象を不在のものとして定立する。
    (31)意識の根本的な相違から、実在界と想像界との二分法、さらには存在と無との二分法が帰結してくる。

    ちなみに、

    「定立」っていうのネットで調べたら「ある肯定的判断・命題を立てること。」ってあった。

    「創造creation」っていうのネットで調べたら「これまでになかったものを新しくつくりだすこと。この概念は、既存の要素あるいは素材の独創的組合せによる新しいタイプの事物の産出から、まったくの無からの世界そのものの創出に至る広い範囲で使われる。」ってあった。

    下調べはこんなんでいいかな?
    書き写すのはそんなに苦じゃないからべつにいいんだけど、これからのがたいへん。
    現象学のわたしの身勝手なの、どうしとこっかな〜、っていうのが。

引用返信/返信 削除キー/
■21043 / inTopicNo.41)  Re[59]: イメージ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/23(Wed) 15:24:01)
    「想像」について、さいごにもう一箇所、「現象学事典」のを書き写して見ます。

    《イメージ[(仏・英)image]
     現象学的なイメージ(イマージュ)論を哲学の大舞台にのぼらせたのは、なんといってもサルトルだろう。彼はまず『想像力』でイマージュの理論史を検討したのち、『想像力の問題』においてイマージュ論を展開した。
     伝統的なイマージュ論が、知覚とイマージュと同一レベルに置いていたことを、サルトルは批判する[Imn]。イマージュを物質と等置するベルクソンも、イマージュを誤った知覚と見なすアラン(Alain 1868-1951)も、その点では変わらないのである。このような伝統的立場に対して、サルトルは、現象学から学んだ意識の志向性という観念から、イマージュの問題に取り組もうとする。意識は何ものかについての意識であるある以上、志向性は意識の本質である。サルトルによれば、それだけでなく、志向対象の実在性の有無まで、意識されていなければならない。したがって、知覚とイマージュとの違いは、知覚が対象を実在のものとして定立するのに対して、イマージュが対象を不在のものとして定立するという具合に、意識の志向性のあり方の相違のうちに求められることになる。
     このような意識の根本的な相違から、実在界と想像界との二分法、さらには存在と無との二分法が帰結してくるのは、いまや見やすいところだろう。さらに付け加えれば、哲学者にして作家でもあったサルトルにとって、ベルクソンとプルーストに透けて見える過去主義に対する反発が、サルトルのイマージュ論に、あまりにも見事に重なり合うように思われる。事実、『想像力』でもっとも多くページが割かれているのはベルクソンなのだし、『存在と無』における時間論も、未来中心的なおもむきがある。イマージュと知覚との間に、あくまで本性の差異を見ようとするサルトルの立場は、思い出と知覚との間に、あくまで本性の差異を見ようとしたベルクソンの立場を、時間性という点で裏返しにしたものと見ることもできる。
     あまりにも急性に転倒されたベルクソン哲学とも映るサルトルのイマージュ論に対して、メルロ=ポンティの立ち場は、もっと微妙である。サルトルと違って、知覚の問題をもっと掘り下げようとしたメルロ=ポンティにとって、ベルクソンのイマージュ論は、そう単純に切り捨てられないものであったはずだ。晩年の肉の存在論とのかねあいをも含めて、この問題は検討されるべきであろう。》(想像5)

    ここから、
    (29)志向対象の実在性の有無。
    (30)「知覚」と「イマージュ」との違いは、知覚が対象を実在のものとして定立するのに対して、イマージュが対象を不在のものとして定立する。
    (31)意識の根本的な相違から、実在界と想像界との二分法、さらには存在と無との二分法が帰結してくる。

    「現象学事典」の「想像imagination」に関係すると思われた箇所を書き写して、そのなかからわたしが抽出したのを書いて見ました。

    書き写しはこれでおしまい〜。

引用返信/返信 削除キー/
■21041 / inTopicNo.42)  Re[58]: イメージ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/23(Wed) 15:00:22)
    No21035のつづきです。

    《こうした「対象性のノエマ的構成」の問題は、判断論へとつながる。さらに意味の発生の問いを予想させ、「受動性の領域」および「根源的時間意識」の構成の問題とも関わる[Hu 11.52,333]。発生の問題はノエシス・ノエマ的「静態的」分析の方法的限界を超えていくが[CM§37]、「ノエシス・ノエマ的意味解明」は、その後の発生的構成的現象学の[FTL 298, Hu 11. 342-5]、そして相互主観的構成の諸問題の手引きとなっている[CM§55]。
     ノエマ概念をめぐってはさまざまな解釈がある。ノエマを「体系的に組織された射映的呈示」とするA.グールヴィッチの解説については、ドレイファスらの批判がある。「射映は体験である」[IdeenT75]という意味でグールヴィッチの解釈はノエシス的側面との混同が指摘できよう。フェレスダールに始まるフレーゲの’Sinn’(意義、表現的意味)の概念との類比の試みは、ノエマを対象的なものであるというよりは志向的意義の特性として捉える点でソコロウスキらに批判されている。フェレスダールの解釈を発展させてノエマ的意味を言語的意味と同一視する解釈もあるが、フッサール自身は、ノエマとしての「意味」(Sinn)と、狭義の言語表現の「意義」(Bedeutung)とを区別している。表現作用は諸作用の一つで諸ノエシスの上に加わる新たな作用であり[256-258]、表現作用と表現されているものの層は区別される[259]。したがって「ノエマ的意味」を言語的意味と同一視する解釈にも問題が残る。しかし、これらの解釈の試みはいずれもフッサールの知覚論や言語論に新たに光をあてるものとなっている。》

    以上で〜す。

    「ノエシスーノエマ」のところからは、
    (26)ノエシス的契機あるいはノエシスは意識の作用的側面を、そしてノエマ的契機あるいはノエマはその対象的側面を表す。
    (27)志向性はノエシスとノエマとの両側面を本質的に持ち、しかもそれら両本質は相互に不可分である。
    (28)ノエマは広義での「意味」と解され、いかなる志向的体験もみなあるノエマを持ち、そのノエマにおいてある意味を持ち、この意味を介して、その体験は対象へと関係する。

    を抽出しとく。

引用返信/返信 削除キー/
■21035 / inTopicNo.43)  Re[57]: イメージ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/23(Wed) 11:56:41)
    今日はもうちょっと書き写して見ま〜す。

    No20924、No20975に「ノエシス−ノエマ」っていうのでてきてる。
    前に、
    No16050に、ネットで調べたのを書いたけど、「現象学事典」のを書き写して置く。

    《ノエシス/ノエマ [(独)Noesis/Noema(ギ)νόησιϛ/νόηα ] 
    『イデーンT』で提示された超越論的現象学の現象学的分析とは、「超越論的現象学の還元」によって開示される「志向性の所与を看て取る」ことである[IdeenT227]。ノエシス・ノエマはこの「志向的分析」において基本的な役割を果たす方法論的な対概念。
     ノエシス的契機あるいはノエシスは意識の作用的側面を、そしてノエマ的契機あるいはノエマはその対象的側面を表す。両概念は、すべてのノエシスは必ずその相関者としてそれぞれのノエマを持つという志向的体験に見られる平行的構造を明らかにするために導入された。フッサール自らが確認するように、『論理学研究』では意識の志向性における「作用」と「対象」の平行性およびその相関関係が「一面的にノエシス的捉え方」によって考察された。それに対し「志向性はノエシスとノエマとの両側面を本質的に持つこと」、しかもそれら「両本質は相互に不可分である」という認識のもとに、『イデーンT』ではノエマ的側面に考察の重点がおかれ[265]、とりわけ志向的体験における「意識対象性の構成」の問題が「ノエシス・ノエマ的構成」という面から探究される[316]。また、ノエマは広義での「意味」(Sinn)と解され、「いかなる志向的体験もみなあるノエマを持ち、そのノエマにおいてある意味を持ち、この意味を介して、その体験は対象へと関係する」[278]。このように体験のノエマ的側面に目を向けことで意味付与作用と志向的対象についての踏み込んだ分析が可能になった。
     ノエシス的側面とは、体験の実的(reell)成素を指示している。たとえば庭の樹木(じゅもく)を見るときの「樹木的知覚」のような単純素朴な「感性的知覚」から、判断などのような思考作用、心情作用、意志作用などといったノエシス的層が積み重なった複合的なものまで、意識の志向的体験にはさまざまな作用的側面が見いだされる。[201-202]。こうした志向的体験におけるノエシス的側面は、さらに「素材的(ヒュレー的)契機」と「ノエシス的契機」という二つの契機に区別される。ヒュレー的契機をなす体験の成素は感覚的な所与で、ノエシス的契機によって「統握」され、「意味付与」されることにより「生気づけられる」(beseelt)。たとえば「樹木の幹の色」など色や音といった事物の感性的性質はヒュレー的契機の中に己れを射映してくる、つまり射映を通して現出する。そしてこのような感性的性質の現出作用(Erscheinen)もまた体験の実的成素を形成する[203f.]。この体験の基底の上に広義の思考作用としてのノエシス的諸契機によって超越論的に対象性が構成される。これに対して己を射映してくる音そのものや色そのものはノエマに属する。
     ノエマには、諸作用に応じて知覚ノエマ、判断ノエマなどがある。たとえば樹木についての知覚においては、それが現実に在るかどうかなどいっさいの「定立」(Setzung)を遮断した「知覚されたそのもの」、ここでは括弧に入れられた「知覚された樹木そのもの」が知覚的ノエマ、「現象学的に還元された知覚の本質に属する相関者」として示される[187]。ノエマ的なものは、射映や知覚作用、判断作用といった体験的諸作用などの実的諸成素からはっきり区別され、それらと混同されてはならない[75,77]。このように志向的対象としてのノエマは「体験の実的ではない志向的構成要素」であるが[181]、それ自身も複合的な契機から成る。その「ノエマ的諸契機」のうちで、とくに意味の契機を成すのが「ノエマ的意味」であり、これはノエマの核(Kern)を形づくる[185]。ノエマの核は意味的規定性(すなわち「対象のいかに(Wie)あるか」という存在諸性格を除く内容)とそれらの規定性の「必然的中心点」としての「空虚なX」に区別される。「全きノエマ」(das volle Noema)と呼ばれるものはその「意味(Sinn)の核」と、ノエシスの側の確信や疑問などの作用に応じてその対象が確実に存在する、あるいは疑わしく存在するなどといった「存在性格」とからなる[196-197]。心情や判断などのより複雑な意識作用においては、複数の作用に対する複数のノエマ(ノエマータ)が対応し、それらが核を中心に融合して同一の対象が意識される。》

    字数の関係で、分けて、「ノエシス−ノエマ」はつづきます。

引用返信/返信 削除キー/
■21034 / inTopicNo.44)  Re[56]: イメージ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/23(Wed) 11:05:21)
    No21019で抽出すろとこを、もう一箇所、
    (25)知覚対象は単なる現前(Prasenz)ではなくつねに付帯現前(Apprasenz)なのである。
    Prasenz、Apprasenzのaの上の‥は省略してあります。


引用返信/返信 削除キー/
■21019 / inTopicNo.45)  Re[55]: イメージ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/22(Tue) 18:53:30)
    No20975 に「準現在化」っていうのでてきてるけど、「現象学事典」のを書き写しておく。

    《現在化/準現在化/共現在化 
    [(独)Gegenwärtigung/Vergegenwärtigung/Mitgegenwärtigung]
     直観的表象作用はその統握形式に従って、大きく現在化と準現在化とに分けられる。現在化は対象が現に現れること、有体的(lebhaft)に現前していることを表し、知覚の志向的性格であるとされる。これに対して準現在化は記憶や想像や予期を規定し、現にない対象を思い浮かべる事態であり、この意味では、再生(Reproduction)や再現前化(Reprasentation)と同義である。時間講義では原印象とともに現在を形づくる把持や予持は、厳密には現在化ではないが準現在化とも区別されており、共現前化と規定されうる(ヘルト)。デリダを代表として、フッサールが現在化すなわち知覚に優位性を形而上学に前提したことが批判されているが、しかし、本質直観における準現在化すなわち想像の不可欠の役割や地平論の展開に伴う次のような準現在化の新たな規定を考慮するならばこの批判は妥当ではないことが明らかになる。外的対象の与えられ方の地平論的解明によれば、現前しているのはその対象の一側面である射映ないし現出でしかないが、しかし志向的には対象のそのものが知覚されている、すなわちそのつどの現出を通して可能的諸現出(地平)をもつ対象が現出している。地平は対象ごとに既知の類型によって枠づけられているから、現在化にはつねに想起と想像としての準現在化が協働している。たとえば家の知覚において、前面だけの現在化を、背後も内部も調度も住まう人も含む家そのものを構成する準現在化が支えているのである。この意味で共現在化は現在化と一体となった準現在化のことであり、知覚対象は単なる現前(Präsenz)ではなくつねに付帯現前(Appräsenz)なのである。この現在化は、通常の語法と異なる。経験においては私に現前しているのはあくまで家そのものである。他者もまた現前しているが、現象学においてはその人格的生付帯現前が原理的に現在化されえずに準現在化にとどまるのであり、この点で他の事物の知覚とは異なる。他者問題や精神世界解明の困難は身体的所与や情報媒介という間接的な付帯現前にとどまるこの準現在化(思い込み)ないし勝義の共現在化の謎に起因する。フッサールはここに有限な人間にとっての他者の他者性を認めたのであり、他者は私にとって永遠に思い込みとして以外に近づきえないといえないというのである。》

    これからは、
    (23)直観的表象作用はその統握形式に従って、大きく現在化と準現在化とに分けられる。現在化は対象が現に現れること、有体的に現前していることを表し、知覚の志向的性格であるとされる。これに対して準現在化は記憶や想像や予期を規定し、現にない対象を思い浮かべる事態であり、この意味では、再生(Reproduction)や再現前化(Reprasentation)と同義である。
    (24)現前しているのはその対象の一側面である射映ないし現出でしかないが、しかし志向的には対象のそのものが知覚されている、すなわちそのつどの現出を通して可能的諸現出(地平)をもつ対象が現出している。地平は対象ごとに既知の類型によって枠づけられているから、現在化にはつねに想起と想像としての準現在化が協働している。
    を、抽出しとく。

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■21018 / inTopicNo.46)  Re[54]: イメージ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/22(Tue) 18:51:24)
    田秋さん、

    悪魔を褒めてどうするのよ。
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■21004 / inTopicNo.47)  Re[53]: イメージ
□投稿者/ 田秋 -(2022/02/21(Mon) 21:26:58)
    こんばんは、悪魔ちゃん

    悪魔ちゃんの感性は、鋭敏かどうかはわからないけど、無垢だと思う。

    褒めすぎ?~~
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■21002 / inTopicNo.48)  Re[52]: イメージ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/21(Mon) 20:14:08)
    ■21000、田秋さん、
    やっぱね!
    そういうの、すごいな〜、って感じるんだけど、
    わたしにはわかんないのね。
    このごろ思うんだけど、わたしには感性に欠陥があるんじゃないかって。


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