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No20924 の記事


■20924 / )  Re[42]: :   イメージ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/19(Sat) 14:25:36)
    「想像」について、「現象学事典」のほかのところにあるのを書き写して見ていって見ます。

    《想像 [(独)Phantasie (仏)imagination ] 
    プラトンが認識における想像的契機(eikasia)をイデアから遠のいたものとして拒斥したのに対して、アリストテレスは想像(fantasia)を感性的知覚と思惟の中間に位置づけ、後者の遂行に不可欠なものと規定し、記憶と親近関係にあるとした。ギリシア語のfantasia,ラテン語のonaginatioをパラケルスス(Paraceisus,1493-1551)がドイツ語でEinbildungskraftと訳す。アリストテレスの思想は、たとえばカントの構想力(Einbildungskeraft)に見られるように、その後の哲学的伝統を領導することになる。カントはさらに再生産的構想力(reproduktive E.)と生産的構想力(produktive E.)に分け、後者は悟性的認識への通路を開く超越論的機能をもつとした。カント以降ドイツではロマン主義的思潮がおこり、構想力を人間精神の根源的創造力として顕揚し、芸術、認識論、形而上学に関わるすべての活動の核心部分とした。フッサールはこのロマン主義的構想力論を排し、想像のロマン主義的意味での生産的性格を否定する。
     フッサールが数学から哲学へと生涯の仕事を転換する動機となったのは、1885/86年ウィーン大学で行われたF.ブレンターノの講義「心理学と美学の諸問題精選」であるが、この講義においてブレンターノは想像(Fantasie)の学説史をたどりなおしながら、心理学と美学の接点を求め、いわば「想像の美学」を構想していた。フッサール自身も『論理学研究』(1900)を準備していた1898年、長編論文「想像と像的表象」を執筆する。したがって初期以来フッサールの想像への関心は強かったと言うよう。フッサールは師ブレンターノを、意識はいつも「〜についての意識」(Bewbßtsein von stwas)であること、つまり意識の志向性(Intentonalität)を発見した点において賞揚したが、想像もまた知覚に劣らず志向的意識であると考えた。想像を知覚と認識の中間に位置づけたりせず、知覚と並び知覚にどこまでも近いひとつの表象(Vorstellung)、つまり像あるいはイメージと見なした。もともとブレンターノにあっては想像も知覚も表象作用としては同じでありながら、ただ表象されたもの(内容)において差異が現れるというのである。その際、表象されたものとしての表象内容と表象対象とが混同された結果、前者の意識内在性、後者の意識超越性という区別が看過された。フッサールはこの点でブレンターノを批判する。想像について語れば、その想像・像は意識内容ではなく、志向的対象であり、意識に超越し、意識がそれを思念し、それを狙う対象である。意識作用は一様ないしは同じであるのではなく、表象には表象作用が、想像には想像作用が対応するはずである。この作用−対象、あるいはノエシス−ノエマの相関構造が想像においても貫けれている。)(想像2)
    ここれはつづくけど後で。ひとまずここの部分について、

    プラトン、アリストテレス、カント、フッサール、それぞれの「想像imagnation」のイメージについて書いてある。

    カントの場合、〔想像(Phantasie)〕じゃなくて《構想力(Einbildungskeraft)》ってなってるけど、カントは、Phantasie とEinbildungskeraftの意味を区別してる、っていうことなのかな?もしそうだとしたらカントの言う《構想力(Einbildungskeraft)》と〔想像((独)Phantasie)〕は別ものとして見なくちゃならないけど、わたしにはよくわかんない。いずれにしてもカントの言う《Einbildungskeraft(構想力)》っていうのは《reproduktive E.(再生産的構想力)》と《produktive E.(生産的構想力)》に分けられてるみたいね。

    わたしがちょっと気になってるのが、
    《アリストテレスは想像(fantasia)を感性的知覚と思惟の中間に位置づけ、後者の遂行に不可欠なものと規定し、記憶と親近関係にあるとした》(A)
    と、
    フッサールは、《想像を知覚と認識の中間に位置づけたりせず、知覚と並び知覚にどこまでも近いひとつの表象(Vorstellung)、つまり像あるいはイメージと見なした》(F)
    のところの、
    (A)の《感性的知覚と思惟の中間に位置づけ》、(F)の《知覚と認識の中間に位置づけたりせず》っていうところを見ると、どうやら、哲学においては「思惟」と「認識」が対応してる感じ。哲学では「認識」って言ったら「思惟」の領域にかかわるものとして、「知覚」の領域にかかわることじゃなくて、って見れるんだけど。
    あ、これは置いといて、

    ひとまず、フッサールのは、
    (5)「想像」は、知覚と思惟(認識)の中間に位置づけず、知覚と並び知覚にどこまでも近いもの。
    (6)「想像」における〈想像・像〉は意識“内容”ではなく、志向的“対象”。
    ってしとく。


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