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■20294 / inTopicNo.1)  What do you Want to do? 8
  
□投稿者/ パニチェ -(2022/01/05(Wed) 21:41:33)
    トピ主:悪魔ちゃん

    引き続きよろしくお願いします。
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■20345 / inTopicNo.2)  Re[1]: What do you Want to do? 8
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/10(Mon) 09:48:56)
    パニさんありがとございま〜す。まだわたしの物語りつづきそう。

    なんかいろんなのが浮かんじゃってきて、いろいろ考えちゃってるけど、それをまだ上手に言葉で表現できない感じ〜。
    ま、いいわ、とりあえず書いてくことにする。だって、自己に思われたものを“表現する”ことによって自己を知るみたいだし。

    No20337のつづきね
    わたし、「言語は意味をもっている」っていうの“あたりまえ”のようにわたし思える、って言ったけど、ちょっと想い出したのが、
    No11520「哲学者はまさに《自明なこと》の背後に最も困難な諸問題が隠れていることをも当然承知していなければなるまい。逆説的ではあるが、しかし深い意味をこめて、哲学とは平凡な事柄についての学であるとさえ言えるほどである」

    現象学って、だったね。

引用返信/返信 削除キー/
■20428 / inTopicNo.3)  Re[2]: 言葉する
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/15(Sat) 15:08:09)
    このごろはメルポンの「言葉(parole)」についての見方を見てるんだけど、つづけます。
    メルポンのを見てて思ったんだけど、「言葉(パロール)」を運動とか働きとして見て、「言葉する」とか「パロールする」っていう表現の方がわたしにはわかりやすいって。

    No20271の〔失語症における経験主義と主知主義、いづれも説明として十分ではない〕のところに書いてあるのを書き写して見ます。

    【語の調音の障害たる構語不能不全(anarthrie)から、知能障害を必ず伴う真正の失語症が確認され、――事実上第三人称的な運動現象にすぎない自動的言語のほかに、大多数の失語症において問題となる唯一の機能たる意図的言語が見分けるようになったとき、失語症ならびに言語の理論は完全に一変したかと思われた。「語心像」の個体性は事実解体した。患者が喪失した正常人が所有しているものは、語の一定の貯蔵ではなく、それを使用する一定の仕方である。自動的言語の平面においては患者の思うがままになる同じ語が、動機なく自由にしゃべる言葉(langage gratuity)の平面においては彼から逃れる。――例えば医師の質問を拒むためには、すなわち現実に体験された否定を意味するときには、「否」という語を造作なく見いだす同じ患者が、感情的な生活的な興味のない言語行使においてはそれを発音することができないのだ。したがって語の背後に一つの態度が、つまり語を条件づける発語(パロール)の機能が発見されたのである。行動の道具としての語と、欲得を離れた単なる呼称の手段としての語とが区別された。「具体的な」言語は依然として第三人称的な過程であったが、動機のない自由な言語(langage gratuit)、本来の呼称は、思惟の現象となったのである。そして若干の失語症の起源は、ほかならぬ思惟の障害のなかに求められなければならないとされた。分類の実験は患者におけるある根本的な障害の存在を示しているのであって、色の名称に関する健忘症は、そのもう一つの現れにすぎないであろう。なぜなら一つの対象の名を挙げるということは、それがもっている個性的なもの、それ独特のものから離れて、そこにひとつの本質、あるいはカテゴリーの代表を見ることだからである。患者が見本の名を挙げることができないのは、赤とか青とかという語の「語心像」を失ったからではなく、感覚的与件を一つのカテゴリーのもとに包摂する一般的能力を失ったからである。つまり、彼が範疇的態度から具体的態度に舞い戻ったからである。これらの分析、その他の同様な分析は、一見、「語心像」の説の正反対にわれわれを導くように見える。というのも、言語は今や思惟によって条件づけられたものとして現れるからである。】

    失語症についてはわたしわかんない。これは横に置いといて。

    【「具体的な」言語は依然として第三人称的な過程であったが、動機のない自由な言語(langage gratuit)、本来の呼称は、思惟の現象となったのである。】
    【言語は今や思惟によって条件づけられたものとして現れるからである。】
    っていうところ、メルポンのはそういんじゃなくて、っていうことなんだと思う。
    言葉(パロール)は「思惟の現象」でも、「言語は思惟によって条件づけられたもの」ではない、って言ってるんだと思う。

    メルポンは【言葉(パロール)の現象】とか【語る(パロール)という現象】って言ってる。
    ハイデガーによると、現象学の「現象」っていうのは、「おのれを示す当のもの」っていうことだった。
    だから、「言葉(パロール)の現象」は〈言葉(パロール)の、おのれを示す当のもの〉、「語る(パロール)という現象」は〈語る(パロール)という、おのれを示す当のもの〉ってなる。メルポンはこういうんで「言葉(パロール)」を見よとしてるんで、言葉(パロール)を「思惟の現象」(思惟の、おのれを示す当のもの)として見ようとしてない、っていうことなんじゃないかしら。

    つづくよ

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■20429 / inTopicNo.4)  Re[3]: 言葉する
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/15(Sat) 17:36:35)
    メルポンの現象学に興味がない人には関係ない物語りなんだけど、でもね、こニーチェラブでは「言葉」を使って表現するの主じゃない。だから「言葉」についてのわたしの見方を考えておくことに時間をついやしてもいいかな、って。

    No20428のつづきね

    メルポンによると、失語症の例から、
    「語を条件づける発語(パロール)の機能」が発見され、言語は二つに区別されたみたい。

    *自動的言語
    第三人称的な運動現象にすぎない言語
    単なる呼称の手段としての語
    感情的な生活的な興味のない言語行使

    *意図的言語
    行動の道具としての語
    具体的な言語
    感情的な生活的な興味のある言語行使

    の二つね。たぶん。

    「言語」についてネット調べたなかに、言葉を第三人称的な運動現象として見ている例の一つとして、
    言語中枢 - 脳科学辞典 (neuroinf.jp)
    っていう科学的知見があるみたい。

    でも、「言葉」に関して、メルポンのはそういうんじゃなくて、ん〜ん、〈言葉を“対象として”見る〉っていうんじゃなくて〜。
    「話す主体が存在している」、「私が言葉する」っていう〈私の志向性〉を問題にしてるよな気がしてる。
    「科学」は、“すでにそこにあること”を点線でなぞってる、って、こんなようなことをメルポンは言っていたような。ん〜ん、「現象学」っていうフィロソフィアは〈原本に向かう〉、〈おのれを示す当ものへ向かう〉〈Xそのものへ向かう〉っていうことなのかもしれない、ってね。

    「範疇的態度」と「具体的態度」、
    次に「範疇的態度」について見て見ま〜す。

    つづク〜

引用返信/返信 削除キー/
■20433 / inTopicNo.5)  Re[4]: 言葉する 分類的態度
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/16(Sun) 13:39:43)
    No20337(2-p139)に「範疇作用」ってあって、No20428(2-p142)に「範疇的態度」っていうのが出てきて、あと「範疇活動」っていうのもある。
    わたしそれぞれ、〈分類作用〉、〈分類的態度〉、〈分類活動〉ってしちゃてる。〈分類作用〉と〈分類活動〉っていうのは同じものとして見て〈分類作業〉って呼ぶことにした。「範疇」ってなんかかたいじゃん。

    メルポンのわたしの〈分類作業〉っていうのは、世界を分類することだけじゃなくて、分類されたそれぞれに名(語)をつける、っていうのね。そして〈分類的態度〉のひとつに〈分類作業〉がある、ってして見たのね。

    No20428(2-p142)の
    【分類の実験は患者におけるある根本的な障害の存在を示しているのであって、色の名称に関する健忘症は、そのもう一つの現れにすぎないであろう。なぜなら一つの対象の名を挙げるということは、それがもっている個性的なもの、それ独特のものから離れて、そこにひとつの本質、あるいはカテゴリーの代表を見ることだからである。患者が見本の名を挙げることができないのは、赤とか青とかという語の「語心像」を失ったからではなく、感覚的与件を一つのカテゴリーのもとに包摂する一般的能力を失ったからである。つまり、彼が範疇的態度から具体的態度に舞い戻ったからである。】
    っていうところ、

    で、ちょっと思ったんだけど、〈分類的態度〉には二つの側面があるって。

    a.個々を、共通性によって括りまとめ、名をつける。(分類作業)
    b.個を分類名で呼ぶ。

    の二つね。
    これについて書いて見る。
    ここでは絵文字がNGだから、書きずらいけど、なんとか表現してみる。
    簡単に、
    個々、〇□〇〇△△□△△があるとするよね。これを、
    〇〇〇
    □□
    △△△△
    ってするのね。
    そしてそれぞれに名をつけるのね。
    〇〇〇 ←ミカン
    □□  ←リンゴ
    △△△△←イチゴ
    って。
    「ミカン」「リンゴ」「イチゴ」は〈分類名(語)〉になるよね。
    こういうのがa(分類作業)。

    bは、
    わたしの前に実際に一個の〇があるのね。それをわたしは「ミカン」っていう名(分類語)で呼ぶ。こういうこと。
    実際に私の前にある一個の〇、これを「ミカン」っていう名(分類語)で呼ぶこと、これは〇に【カテゴリーの代表を見ること】だったり、〇をわたしが見て、わたしに感-知覚された〇という【感覚的与件】を「ミカン」という分類語で呼ぶことは、〇を【一つのカテゴリーのもとに包摂】してる、ことっていうことなんじゃないかって、ね。

    どうかしら?

    〈分類的態度〉っていうの、〈分類作業(分類と命名)〉と〈分類語での発語〉の両方の態度のこと、ってして見た。

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■20440 / inTopicNo.6)  Re[5]: 言葉する 分類的態度
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/16(Sun) 19:36:34)
    ちょっと想い出したから、書いとく。わたし用に。

    分類作業については、
    No11664で「分類」
    No11665で「概念」
    No11679で「カテゴリー」
    No11696で「ゲシュタルト」
    を見て見たんだけど、
    で、メルポンのは【ゲシュタルトというカテゴリーを導入する】ことだった。
    そして、メルポンのわたしのは「分類」と「分節」とを区別して、その分け方、あるいは分ける基準が問題になるんだけど、いづれにしても分類あるいは分節したものものに〈名(語)をつける〉っていうことはしてるよね。

引用返信/返信 削除キー/
■20441 / inTopicNo.7)  Re[6]: 言葉する 分類的態度
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/16(Sun) 19:56:49)
    分類作業、もうちょっと考えて見たよ。

    「ミカン」「リンゴ」「イチゴ」をもっと大きな範囲に包みいれて見ることもしてるよね。
    メロン、スイカ、キュウリ、トマト、ナス、…、なども見て、少し大きな括りで、「果物」とか「野菜」っていう分類名で括ることもできるし、もっと大きな括りで、「植物」っていうのもあるし、さらに「生物」っていう分類語でそれを呼ぶっていうのもあるかな。

    ところで、「イチゴ」って、果物?野菜?
    ふと疑問に思って、ネットでいろいろ調べて見たんだけど、どちらに分類されるのか、っていうの、「広辞苑」「植物学上」「生産上」「農林水産省」などなど、「科」によって微妙に違ってる感じ〜。
    ネットからのをざっと書いて見るね。

    (A)
    ≪広辞苑≫
    野菜=食用とする草本植物の総称。
    果物=草木の果実の食用となるもの。
    ≪大辞林≫
    野菜=食用に育てた植物。青物。
    果物=木や草につく果実で食べられるもの。
    (B)
    メロン、スイカ、イチゴ、植物学上、生産上の分類では、野菜。
    キュウリ、ナス、トマトは農林水産省では果菜。
    農林水産省では、野菜と果物(果実)の分類についてははっきりした定義はない。
    農林水産省では、食用に供し得る草本性の植物で、加工の程度の低いまま副食物として利用されるものを「野菜」。
    2年以上栽培する草本植物及び木本植物であって、果実を食用とするものを「果樹」として取り扱うとしている。
    (C)
    キュウリは野菜として扱われ、同じウリ科でもスイカやメロンは果物として扱われるように、野菜と果物は学術的に区別されていない。
    (D)
    分類する明確な定義はないものの、野菜と果物を区別する際の基礎となるのは、草として生えるものか、木になるものかという違いである。
    (E)
    生産の段階ではこのような分類の仕方になるが、実際に売られている場所でいえば、イチゴ・スイカ・メロンは、果物屋やスーパーの果物コーナーである。
    八百屋でもスイカなど売られているが、果物屋でトマトは売られていないため、果物専門店で売られているものを「果物」として区別することも間違いではなく、最終的には大半の消費者が野菜と思っているか、果物と思っているかの違いとなる。
    (F)
    分類の仕方は、国によっても違い日本でも生産・流通・消費などの分野で分類の仕方が異なるものもある。
    (G)
    ちなみに、100年以上前のアメリカでは、輸入野菜に10%の税率を課すという法律が作られたため、トマトが野菜か果物かという論争が起き、最高裁判所で「トマトは野菜である」と判決が下されている。
    現代の日本ではどうかといえば、税関の事項関税率で、トマトは「食用の野菜」、イチゴ・スイカ・メロンは「食用の果実」と決められている。

    イチゴは果物?野菜?
    この問い、わたしにとってはあまり意味なかったかも。
    身近では(E)だけど、この問いが意味をもってくるのは(G)のようなときかな。
    けっきょく、文化的分類の仕方なのかもね。
    あ、ちょっと思いついた、文化的分類に対して自然的分類っていうの、この区別、後で考えて見よっと。
    生活世界で、一般私は、△(イチゴ)を見て、「あ、植物だ」とか「あ、生物だ」なんてふつう言わないよね。まして「あ、有機物だ」な〜んて言う?

    「わたし、イチゴ、好きな、食べもの。」
    これでいいかな。

    自己完結しちゃいました。
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■20448 / inTopicNo.8)  Re[7]: 言葉する 
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/16(Sun) 20:23:22)
    失語症、
    No20428のつづきに
    メルポンのは、次のようなことなんだとわたし思う。

    【〔失語症の現代的理論による確証〕
    言語に関する以上のような考え方は、失語症の最もすぐれた、また最近の分析の、延長線上に成立するものなのである。今まで述べたところではこれらの分析のうち、ほんの一部分が利用されたにすぎない。われわれは本章の冒頭で、失語症の理論が経験主義の時期を経た後にピエール・マリー以来の主知主義に移行したように見えること、それは言語障害において「表現機能」もしくは「範疇的」活動を問題としていること、したがって言葉の基礎を思惟においたこと、などであった。ところが実は失語症の理論がたどりつつある途は、新しい主知主義への道ではない。この理論の形成者たちも自分が知ってか知らずかはさておき、彼らが定式化しようとしているものは、われわれがやがて失語症の実存論的理論と呼ぶべきところの、つまり思惟と客観的言語(訳注70)とを二つながら、人間が一つの「世界」に向かって自己を企投する根本的な活動の二つの現れと見なす理論である。】

    (訳注70)〔客観的言語langage objectifは客観的叙述という言語活動のこと。
     具体的記述に立ち戻ってみると、範疇活動なるものは、思惟あるいは認識である以前に世界に関係する一定の仕方であり、したがって経験の一つの様式もしくは形態であることに気づく。われわれの視線のもとで同じ色はおのずからあい集まる。色彩の経験そのものが問題なのである。健忘症患者に色彩の名を提示し、それに対応する見本を選んでくれと頼むと、彼はあたかも何かをもっているかのように、その名を繰り返す。しかしその名は彼にとってもはや何の役にも立たない。もはや彼に何ものも語らない。それは見知らぬものであり、不条理なものである。語を生きた意味に結びつける関係は、連合という外的な関係ではない。意味が語に住まうのであり、言語は「知的過程の外的随伴者ではない。」それゆえ既述のように、われわれは言葉の身振り的もしくは実存的意義を認めざるをえないであろう。〕

    No20428に、【したがって語の背後に一つの態度が、つまり語を条件づける発語(パロール)の機能が発見されたのである】ってあるけど、
    これが【人間が一つの「世界」に向かって自己を企投する根本的な活動】っていう機能で、その【二つの現れ】としての【思惟】と【客観的言語】っていうことかな?

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■20462 / inTopicNo.9)  Re[8]: ロゴス 
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/18(Tue) 18:33:31)
    ちょっと想い出したんで、

    No20319で、
    >私に〈思われてるもの〉は見えないもの。それを言葉で表現(言ったり、書いたり)することによって、私に見えるようにすること。私によって「表現されてるもの」は、(私の前に提示され、それを私が見、)私に感-知覚され、それを私(自己)が見る、これって「経験する」っていうこと。<
    ってわたししたんだけど、これ、
    No11269、ハイデガーの「ロゴスという概念」からのだったのかもしれない。
    もう一度そこんところを抜粋しとく。

    【…語りとしてのロゴスは、デェールーンと同じことであり、このデェールーンとは、語りにおいてそれについて「語られて」いる当のものをあらわならしめる、ということである。アリストテレスは語りのこの機能をアポファイネスタイとしていっそう鋭く究明した。ロゴスは、或るものを見えるようにさせる(ファイネスタイ)のである、つまり、それに関して語られている当のものを、しかも、語りつつある者にとって(中動相)、ないしはたがいに語りあいつつある者たちにとって、見えるようにさせるのである。語りは、それについて語られている当のもの自身のほうから(アポ)「見えるようにさせる」。語り(アポファンシス)においては、その語りが真正のものであるかぎり語られている当の内容は、それに関して語られている当の話題から汲み取られているべきであり、したがって、語りつつ伝達するときにはこの伝達は、この伝達がそれに関して語っている当の話題を、言われた伝達内容のうちであらわにし、かくして他人に近づきうるものにする。これがアポファンシスといてのロゴスの構造なのである。あらゆる「語り」が、提示しつつ見えるようにさせるという意味でのあらわにするというこの様態を固有にもっているわけではない。たとえば願うこと(エウケー)もあらわにするのであるが、しかしそれは別の仕方においてなのである。具体的に遂行されるときには語ること(見えるようにさせること)は、発言という性格を、つまり、言葉を声に出して口外するとう性格をもっている。ロゴスは、フォーネー、すなわち音声であり、しかも、フォーネー・メタ・ファンタシアス、すなわち、見エル像ヲトモナッタ音声であり――声に出して口外することであるが、そこではそのつど何ものかが看取されているのである。…】

    ロゴス――「語ること」、これって表現すること、発語することだったり、発音することって見ちゃうね。

    乳幼児の発語「ママ」、これもロゴスね。

    なんかメルポンのとつながった感じ。

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■20465 / inTopicNo.10)  Re[9]: 発語すこと 
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/18(Tue) 20:00:47)
    今日はもうちょっと、

    内言であれ外言であれ、ね。

    メルポンの『知覚の現象学』、〔言語は思惟を予想するのではなく、それを成就する〕のところ、他に書いてあるのを書き写して見ます。

    【私が薄暗がりのなかで一つの物を見つめ、「これはブラシだ」というとき、私の精神のなかにブラシなる概念があって、そのもとに対象が包摂され、他方、頻繁におこなわれた連合によってこの概念が「ブラシ」なる語と結びつけられている、というのではなく、「ブラシ」なる語そのものが意味を担い、私はこの語で対象を名ざすことによって対象に到達したという意識をもつのである。よくいわれるように、幼児にとっては対象が名づけられたとき、はじめてそれが知られるのであり、名称は対象の本質であり、その色彩や形と同じ資格で対象のなかに宿るのである。科学以前の考え方にとっては、対象を名づけるということは、それを存在せしめ、もしくはそれを変容せしめることに等しい。神は命名することによって諸存在を創造し、呪術はそれらについて語ることによって、それらに作用する。もしも言葉が概念に根拠を置くものならば、これらの「誤謬」は不可解となろう。なぜなら、もしそうなら概念はいつでも言葉とは別ものとして自己を知り、また言葉を外的な随伴者として知っているはずなのだから。以上の主張に対して、幼児は言語による指示を通して対象を知ることを学ぶのであって、対象は最初は言語的存在として彼に提示され、後になってから初めて自然的存在となるのだ、要するに言語的共同体の事実上の存在によって幼児の信念は十分説明されると、こう反論してみても、これは問題の性格を変えるものではない。というのは、もし幼児が自然に関する思惟として自己を知る以前に言語的共同体の一員として自己を知ることが可能だとすれば、それは主体が普遍的思惟として自己を知らぬがままに言葉(パロール)として自己を捉えるのとが可能であり、語が対象や意義の単なる記号にとどまるどころか、事物そのものに住まい、意義を担い運ぶものであるとすることを条件としているからである。こういうわけで言葉は発語する人にあって、既成の思想をいい表すのではなく、思想を完成するのである。】

    今日はここまでにしとく。
    あ〜、疲れた〜。



引用返信/返信 削除キー/
■20481 / inTopicNo.11)  Re[10]: 語ること
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/20(Thu) 19:24:24)

    「哲学」は「フィロソフィア」については何も語ってはいない。
引用返信/返信 削除キー/
■20493 / inTopicNo.12)  Re[11]: 言葉する 分類活動
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/22(Sat) 15:18:59)
    まだメルポンの『知覚の現象学』Y「表現としての身体と言葉(パロール)」のつづきね。

    No20448の(訳注70)についてなだけど、

    〔範疇活動なるものは、思惟あるいは認識である以前に世界に関係する一定の仕方であり、したがって経験の一つの様式もしくは形態であることに気づく〕のところ、
    メルポンは主知主義を批判(鵜呑みにせずよく吟味すること)してる見たいだから、ここにある〔思惟あるいは認識〕っていうのは〈真正な知識〉とか〈真正な認識作用〉っていう意味だとわたし見てる。
    ここんとこわたしなりに書くと、
    〈分類活動(個々を分類し、命名する)は、思考以前の、世界に関係する一定の仕方である。それは経験の一つの様式、形態である。〉ってして見た。〔形態〕っていうのは〈ゲシュタルト〉のことって見てる。
    わたしもそう見ることにしてる。
    もっと言うと、〈分類活動は、一般的実存私と世界との関係性の一つの自然的原初的な仕方〉ってして見た。

    〔意味が語に住まう〕っていう言い方なんだけど、
    No20465でメルポンは
    【名称は対象の本質であり、その色彩や形と同じ資格で対象のなかに宿るのである】って言ってる。

    〔意味が語に住まう〕は〔語に意味が住まう〕とも言えるよね。こういう言い方だと、「語」という大きなくくりのなかに「意味」が含まれているようなイメージをわたし受けるのね、でね、わたし、
    〈語が意味に住んでいる〉、〈意味に語が住んでいる〉ってして見てる。語のなかに意味があるんじゃなくて、意味のなかに語がある、あるいは意味は語を“もっている”、っていう感じ。

    No20308で見た、メルポンの言う【言語は意味をもっている】の【もっている】――[ete a …]なんだけど、
    メルポンは「私」と「私の身体」との関係性を、
    【私の身体は私の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。】
    って表現してる。このような見方を「言語」と「意味」の関係性にあてはめてみると、
    「言語は意味のなかにいる。いやむしろ言語は意味である。」ってなる。
    「意味は言語のなかにいる。いやむしろ意味は言語である」こう言っても同じかな。
    このような関係性の見方をメルポンはしてるんじゃないかしら?
    こういう意味で、訳者の〔意味が語に住まう〕と、わたしの〈語が意味に住んでいる〉(意味が語を“もっている”)とは同じことをいってることになるのかもしれないけどね。

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