□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/04(Tue) 10:44:29)
| もうお正月休みも終わっちゃう。この休み中にいっぱい考えたの書いとくことにする。 No20262についてのわたしの、の前に〜、「言語」についてね。 メルポンの『知覚の現象学』のなかで、 Y「表現としての身体と言葉(パロール)」と題してあって、そこにメルポンのがいっぱい書いてある。 前に、 No15611 No11365 No15014 で書き写したのはここからの。
ふたたび、Yのところどころ抜粋しながら見ていくことにしま〜す。
【〔失語症における経験主義と主知主義、いづれも説明として十分ではない〕】 って題してあって、失語症の患者のを例にして、経験主義と主知主義の「言語についての考え方」を批判(鵜呑みにせずよく吟味すること)しながら、メルポンの考えを記述している。
【われわれは身体に、科学的対象の統一とは区別される別種の統一を認めた。われわれは今しがた身体の「性的機能」のなかにまで、志向性と意味能力とを発見したばかりである。言葉(parole)の現象と明白な意義作用との記述を試みることによって、われわれは主観と客観という古典的な二分法を決定的に超える機会に恵まれるだろう。言葉(パロール)を独自の領域として意識するようになったのは、当然のことながら、後世になってからのことである。ここでも例によって、「持つ」(avoir)という関係が「習慣」(habitude)という語の語源にはっきり現れているにもかかわらず、さしあたり「ある」(etre)という領域に属する関係によって、あるいはこういってよければ世界内部的(intra-mondaines)な、存在的(ontiques)な諸関係によって、掩いかくされている。】(抜粋1) (etreのeの上の^は省略してあります。)
Yの前は「性欲」について書いてあるんだけど、これも〈私と世界との関係性〉を見ていくのにははずせないテーマだけど、これはまた気が向いたときに。
「parole」を「言葉」って訳されてる。そして【言葉(パロール)を独自の領域として意識するようになったのは、当然のことながら、後世になってからのことである。】から、これって「言語学」のこと?で、「パロール」っていうの、ソシュールのかな?ということで、ソシュールの、ネットからのを一部書き写して置く。
「ランガージ・ラング・パロール」 ウィッキより、 〔ソシュールは、言語(language ランガージ)には、ラング(langue)とパロール(parole)という二つの側面があると考えた。ラングとは、ある言語社会の成員が共有する音声・語彙・文法の規則の総体(記号体系)である。それに対して、パロールは、ラングが具体的に個人によって使用された実体である。そして、パロールは、個人・場面によって異なり、言いよどみ、言い誤りなども含むことから、ソシュールは、言語学の研究はラングを対象とすべきであるとした。ソシュールによれば、パロールとは、個人がラングの規則と条件に従ってその意志を表現するために行う具体的な発話行為である。また、ラングが社会的な側面に立つのに対して、パロールは個人的な側面に立つが、必ずしもこの概念は対立しているわけではなく、むしろ相互依存的な形を取っている。〕
「シーニュ・シニフィアン・シニフィエ」 コトバンクより、 〔もともとフランス語で「シニフィアン」は「意味するもの(能記)」、「シニフィエ」は「意味されるもの(所記)」にあたる表現だが、彼の講義の記録から弟子の手によって死後編集され出版された『一般言語学講義』Cours de linguistique générale(1916)では、これがそれぞれ「聴覚映像image acoustique」および「概念concept」という、シーニュsigneすなわち言語記号の二つの構成要素を指す用語として用いられていた。〕
わたし簡単に見ちゃうと、 「言語」は、「音声・語彙・文法の規則(ラング)」と「日常会話(ランガ―ジュ)」に区別され、語を記号(シーニュ)の一つ(言語記号)として見て、それは聴覚映像(シニフィアン)と概念(シニフィエ)が構成要素となってる、ってソシュールは言ってるんだと思う。 言語記号(シーニュ)の構成要素としてのシニフィアンとシニフィエについては「意味」にかかわってくるから後で見ていくことになるのかも。
つづく
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