□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/03(Mon) 19:17:42)
| このごろメルポンの『知覚の現象学』のW「表現としての身体と言葉(パロール)」っていうところ読み返してる。
そのなかにこんなのが書いてある。
【カントの有名な問い(訳注59)に対して、われわれは内的もしくは外的言語によって自己に対して自分の思惟を提示するという意味おいては、思惟することも実際の一つの経験であると答えることができる。 なるほど思惟は一瞬のうちに稲妻の如く進展する。しかし次にそれをわれわれのものとするという仕事が残っている。そしてそれがわれわれのものとなるのは表現によってである。対象が再認されてしかる後にその名が呼ばれるのではない。呼称は再認そのものである。】
(訳注59) 〔「カントの有名な問い」とは例の「先天的総合判断はいかにして可能なりや」だと思われる。総合判断(主概念のなかに意味的に含まれていない概念を賓概念とする判断)は、一般に経験の媒介を必要とする。そこでカントのいわゆる先天的(非経験的)総合判断(因果律その他の経験の構成原則)は、一見自己矛盾した概念に見え「いかにして可能なりや」という問いが生ずる。メルロの文章は思惟も実は言語による経験だということによって、この問いに答えることができるということなのであろう。〕
これについてのわたしのは後で。
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