(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

No20465 の記事


■20465 / )  Re[9]: 発語すこと 
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/18(Tue) 20:00:47)
    今日はもうちょっと、

    内言であれ外言であれ、ね。

    メルポンの『知覚の現象学』、〔言語は思惟を予想するのではなく、それを成就する〕のところ、他に書いてあるのを書き写して見ます。

    【私が薄暗がりのなかで一つの物を見つめ、「これはブラシだ」というとき、私の精神のなかにブラシなる概念があって、そのもとに対象が包摂され、他方、頻繁におこなわれた連合によってこの概念が「ブラシ」なる語と結びつけられている、というのではなく、「ブラシ」なる語そのものが意味を担い、私はこの語で対象を名ざすことによって対象に到達したという意識をもつのである。よくいわれるように、幼児にとっては対象が名づけられたとき、はじめてそれが知られるのであり、名称は対象の本質であり、その色彩や形と同じ資格で対象のなかに宿るのである。科学以前の考え方にとっては、対象を名づけるということは、それを存在せしめ、もしくはそれを変容せしめることに等しい。神は命名することによって諸存在を創造し、呪術はそれらについて語ることによって、それらに作用する。もしも言葉が概念に根拠を置くものならば、これらの「誤謬」は不可解となろう。なぜなら、もしそうなら概念はいつでも言葉とは別ものとして自己を知り、また言葉を外的な随伴者として知っているはずなのだから。以上の主張に対して、幼児は言語による指示を通して対象を知ることを学ぶのであって、対象は最初は言語的存在として彼に提示され、後になってから初めて自然的存在となるのだ、要するに言語的共同体の事実上の存在によって幼児の信念は十分説明されると、こう反論してみても、これは問題の性格を変えるものではない。というのは、もし幼児が自然に関する思惟として自己を知る以前に言語的共同体の一員として自己を知ることが可能だとすれば、それは主体が普遍的思惟として自己を知らぬがままに言葉(パロール)として自己を捉えるのとが可能であり、語が対象や意義の単なる記号にとどまるどころか、事物そのものに住まい、意義を担い運ぶものであるとすることを条件としているからである。こういうわけで言葉は発語する人にあって、既成の思想をいい表すのではなく、思想を完成するのである。】

    今日はここまでにしとく。
    あ〜、疲れた〜。



返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -