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Re[84]: ちょっと戻って
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/07(Fri) 18:14:42)
| No20237の(訳注81)なんだけど、
No20244の〔本章の冒頭〕っていうのは、 No20271の(抜粋1)のところね。
そして〔原注第一部170〕は、 〔「持つ」ことと「ある」こととの区別はG・マルセル氏(Etre et Avoir)のそれを排斥するものではないが、それと一致するものでもない。マルセル氏は、所有(私は家屋を持つ、私は帽子を持つ)という関係を表すときに「持つ」という語に与えられる弱い意味に、それをとっている。そして「ある」という語を一挙に、「‥‥においてある」(etre a ‥‥)あるいは「引き受ける」(assumer)(私は私の身体である、私はわたしの生である)という実存的な意味において用いている。私はむしろ、物としての存在もしくは述定機能(このテーブルはある、もしくは、大きいものである)という弱い意味を「ある」という語に与え、「持つ」という語で、主体と主体とが自己を企投するものとの関係(私は一つの考えをもつ、私は欲求をもつ、私は恐れをもつ)を表すことにしたい。そこからすると、私のいう「持つ」はマルセル氏の「ある」にほぼあたり、私の「ある」は氏の「持つ」にほぼあたることになる。〕 (etre a ‥‥)の[e]の上の[^]と、[a]の上の[、]は省略してあります。 です。
訳者の[voir]と[etre]の訳し方についてだと思う。メルポンのは[etre]の方で、これを「持つ」――「…においてある」「引き受ける」という実存的な意味――と訳してるんだと思う。だって、etre au monde−―世界における(への)存在 だから、【「持つ」(avoir)】【「ある」(etre)】ってなってるけど、逆の意味っていうことになるのかな。 「もっている」って訳されてるところはこのような意味として見る必要があるのかも。
あ、ここらへんはこの本読んでない人にはどうでもいいことだけど、わたし用に書いとく。
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