□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/20(Sun) 15:12:02)
| No20924の「想像」の書き写しのつづきね。
《広義の想像には二種類ある。すなわちここで取り上げる端的な想像(狭義の想像)と知覚を基底にもつ「像意識」とである。狭義の想像は、知覚が感覚与件を内容とするのに対し、感覚の変様態であるファンタスマを内容にして、その上に想像・像(想像対象)を構成していて、二層的であるのに対し、後者では最下底に知覚の対象たる物理的像があり、それに基づけられて、物理的像の変様した像客体が現出し、それをアナロゴンとして像主体(想像・像に対応する)が呈示されてくる。両者は想像・像の構成に向かう二つのまったく異なるありかただといえよう。狭義の想像とは、対象を意識に自己現前する(selbstgegenwärtigen)ものとして表象する知覚に対して、「像のうちに対象を準現在化する(vergegenwärtigen)」働きのことをいう。後者の性格は、記憶(erimmerung)や期待(Erwartung)もまた共有するところであるが、「記憶」が対象をかつてあったと定立し、「期待」が対象を将来あるだろうとして定立するのに対し、想像は対象を非定立のまま保持しつづける。また対象が現前しないがゆえに、想像は知覚の特色である内容充足を成就することができない。想像は『イデーン』以降、対象の存在定立を排去してノエシス−ノエマの純粋構造を取り出す操作作用として活用されるようになる(中立性変様Neutralitäsmodifikation)。なぜならば、想像とは存在定立の排去を自然的に遂行された知覚のことであるといえるからである。従来の意識の現象学的研究は、とかく知覚を範例として論じる傾向が強かったが、想像も知覚に劣らず重要な現象学的主題となるであろう。一方、サルトルは『イデーン』におけるフッサールの像(Bild)分析に触発されて、独自の想像力分析を行い、やがてこれをもとにして、即自−対自あるいは存在−無の対立図式による大著『存在と無』へと結実させていった。サルトルの想像力論は『想像力』(1936)と『想像力の問題』(1940)につきるが、これは彼が一方で行っていた『壁』(1937)、『嘔吐』(1938)などの文学創作の方法論をなすものであり、想像界を知覚界と対峙(向かい合ってそびえること、対立する者どおしが、にらみ合ったままじっと動かずにいること)するもう一つの領域であることを論証しようとするものであった。》(想像3) これでここの部分の書き写しはおわりね。
「想像」について、現象学では、 《広義の想像には二種類ある。すなわちここで取り上げる端的な想像(狭義の想像)と知覚を基底にもつ「像意識」とである‥‥》っていうところ、よく分かんない。「アナロゴン」、ネットで「コツ」みたいなこと書いてあったけど、分かんない。「ファンタスマ」については「現象学事典」に書いてあるので、後で書き写して見ま〜す。
ひとまず、現象学のは、 (7)「感覚の変様態」を「ファンタスマ」って呼んでる。 (8)知覚は対象を意識に自己現前するものとして表象する。 (9)想像は、像のうちに対象を準現在化する働き。 (10)想像の性格は、「記憶」や「期待」も共有している。 (11)記憶は対象をかつてあったと定立する。 (12)期待は対象を将来あるだろうとして定立する。 (13)想像は対象を非定立のまま保持しつづける。 (14)想像は対象が現前してない。 (15)想像とは存在定立の排去を自然的に遂行された知覚のことである。 ってしとく。
現象学では「現在化―準現在化」っていうのがあって、前に、 No13399でちょっと書き写したのあるけど、 「知覚」と「想像」の違いを見るときに関係してくるみたい。あとで「現象学事典」の書き写しておこっかな。 あ、それと、 No20902でわたしが抽出した (2)を、現象学では、知覚と想像とは意識の対象に対するかかわり方が本質的に異なる、とした。 に変えとく。
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