□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/18(Fri) 18:53:43)
| ここまで、メルポンの〈身振りの意味〉、とくに〈言葉と意味〉について、だったんだと思うけど、これ、ひとまず横に置いといて。
やっぱ「表現すること」によってわたしに分かってくる気がする。
で、
このごろ、「現象学事典」の「想像」っていうところをもういちど読み返してるのね。 なんか雰囲気的に「意味」と「想像」って怪しげに深くかかわってる気がしたからかな?
[imagination]は「想像(力)」、[image]は「イマージュ」、[creation]は「創造」って訳されてるみたいだけど、これからのわたしの物語り、「イメージ」っていう題名にして見ました。
No12814で、 「想像」を〈思考の領域〉ってしてわたし見てたんだけど、ちょっと違うのかも? もう一回見なおしていくとこにする。あ、とくに現象学のをね。
「現象学事典」のNo12814のを再掲しとく。 《想像力 [(仏・英)imagination ] 想像する能力。再生産的想像力と創造的想像力に分けられる。想像力は人間的識の本質的作用であるにもかかわらず、従来の心理学や形而上学は、想像力が身体と関わることから、これを低級な能力と見なしてきた。デカルトにおいて、想像するとは精神が己を物体に向け、その物体のうちに、精神自身によって理解された観念ないし感覚に知覚された観念に対応するものを、直観することのである。つまり心像は外部の対象と同じ資格のひとつの対象であり、想像することは、物体的なものの形ないし像を眺めることなのである。ベルクソンは、イマージュとは、観念論者が表象と呼ぶものよりは劣っている存在、つまり表象と事物の中間にある存在と考える。以上のように心像は従来、しばしば物ないし物のような存在と捉えられてきた。これに対し、現象学は、知覚と想像とは意識の対象に対するかかわり方が本質的に異なることを明らかにした。知覚は対象を現にここに存在するものとして定立するが、想像とは対象を無として定立し、現実を超え出る作用である。サルトルが主張するように、想像力は人間的意識の本質的作用であり、積極的に評価されるべきである。意識の非現実化する優れた作用である想像力は、現実世界との交通を遮断して、可能性の世界を開示する能力である。そしてこの能力をその存在の本質とする意識そのものが、すでに自由なのである。》(想像1)
これから、ひとまず、
(1)「想像」を「再生産的想像」と「創造的想像」に分けて見ることにする。 《現象学は、知覚と想像とは意識の対象に対するかかわり方が本質的に異なることを明らかにした。知覚は対象を現にここに存在するものとして定立するが、想像とは対象を無として定立し、現実を超え出る作用である》 から、 (2)「対象」−「知覚」−「想像」の関係性を問題としてる感じ。 (3)「知覚」は、対象を現にここに存在するものとして定立している。 (4)「想像」は、対象を無として定立している。
(想像1)からはこれを抽出しとく。
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