| No21035のつづきです。
《こうした「対象性のノエマ的構成」の問題は、判断論へとつながる。さらに意味の発生の問いを予想させ、「受動性の領域」および「根源的時間意識」の構成の問題とも関わる[Hu 11.52,333]。発生の問題はノエシス・ノエマ的「静態的」分析の方法的限界を超えていくが[CM§37]、「ノエシス・ノエマ的意味解明」は、その後の発生的構成的現象学の[FTL 298, Hu 11. 342-5]、そして相互主観的構成の諸問題の手引きとなっている[CM§55]。 ノエマ概念をめぐってはさまざまな解釈がある。ノエマを「体系的に組織された射映的呈示」とするA.グールヴィッチの解説については、ドレイファスらの批判がある。「射映は体験である」[IdeenT75]という意味でグールヴィッチの解釈はノエシス的側面との混同が指摘できよう。フェレスダールに始まるフレーゲの’Sinn’(意義、表現的意味)の概念との類比の試みは、ノエマを対象的なものであるというよりは志向的意義の特性として捉える点でソコロウスキらに批判されている。フェレスダールの解釈を発展させてノエマ的意味を言語的意味と同一視する解釈もあるが、フッサール自身は、ノエマとしての「意味」(Sinn)と、狭義の言語表現の「意義」(Bedeutung)とを区別している。表現作用は諸作用の一つで諸ノエシスの上に加わる新たな作用であり[256-258]、表現作用と表現されているものの層は区別される[259]。したがって「ノエマ的意味」を言語的意味と同一視する解釈にも問題が残る。しかし、これらの解釈の試みはいずれもフッサールの知覚論や言語論に新たに光をあてるものとなっている。》
以上で〜す。
「ノエシスーノエマ」のところからは、 (26)ノエシス的契機あるいはノエシスは意識の作用的側面を、そしてノエマ的契機あるいはノエマはその対象的側面を表す。 (27)志向性はノエシスとノエマとの両側面を本質的に持ち、しかもそれら両本質は相互に不可分である。 (28)ノエマは広義での「意味」と解され、いかなる志向的体験もみなあるノエマを持ち、そのノエマにおいてある意味を持ち、この意味を介して、その体験は対象へと関係する。
を抽出しとく。
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