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■20125 / inTopicNo.61)  現代思想1月臨時増刊は
  
□投稿者/ pipit -(2021/12/25(Sat) 22:56:59)
    うましかさん、こんばんはー
    (^ω^)

    No20122
    > 現代思想1月臨時増刊は<

    なんと!!
    『総特集=ウィトゲンシュタイン -『論理哲学論考』100年- 』
    発売日2021年12月21日
    『現代哲学の最重要文献を読みなおす
    現代哲学の方向性を決定づけた20世紀最大の哲学書にして、ウィトゲンシュタインが生前に出版した唯一の著作『論理哲学論考』。その刊行から100年を迎える節目の年に、その解釈の古典から最前線までを見渡し、その哲学的思考のコアに迫る記念碑的総特集。』

    ではないですか!
    pipitにはウィトゲンシュタインさんは難しいので、コアな内容であろうこの号は買う予定ないのですが、
    ウィトさんファンには楽しそうー(?)

    新年号なんてめでたいですねー

    ウィトゲンシュタインさん、人気あるんだなー (o^^o)
引用返信/返信 削除キー/
■20124 / inTopicNo.62)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/12/25(Sat) 22:46:20)
    No20119
    悪魔ちゃん、こんばんは!

    仏教が好きだから買った本に永井均さんの対談が載ってて、
    哲学書じゃないから珍しい人には珍しいかな?と思ったし、
    永井さんの考え方の大枠をわかりやすくお話しされてた印象があったので、
    引用したよー
    悪魔ちゃん、読んでくれてありがとう
    (^_^)

    瞑想についてが話題の中心の本だから、永井さんも詳細な説明は省かれてるだろうから、もしかしたら、
    また悪魔ちゃんの印象も変わることあるかもしれないね。

    私は、悪魔ちゃんと話すと、
    あー、そういうことで、そういう発言だったんだ!
    よく考えてるなー
    きちんとしてるなー
    と感心することがよくあるよ。

    いつもいろいろありがとう!
    おやすみー(^ ^)☆彡


引用返信/返信 削除キー/
■20123 / inTopicNo.63)  精神科医と哲学者の対談(;゚Д゚)
□投稿者/ うましか -(2021/12/25(Sat) 21:14:30)
    pipitさん、こんばんはー

    No.20113 (pipitさん)

    >『マインドフルネス最前線』(サンガ新書)という本で、香山リカさんがいろいろな立場の方と対談をしてる本です。


    なんかこれ以前に立ち読みしたかもしれないです、、、(◎_◎;)


         なんとなーく記憶の彼方に、、、ね?(;゚Д゚)(゚Д゚; )な?



    そうそう、うましかは以前、こんな投稿してました。

    No.14660

    精神科医と哲学者をむすぶものは、「マインドフルネス」なんですねー(;´・ω・)



    謎沼〜(/・ω・)/






引用返信/返信 削除キー/
■20122 / inTopicNo.64)  なんと!(;゚Д゚)現代思想1月臨時増刊は
□投稿者/ うましか -(2021/12/25(Sat) 20:45:52)
    『論理哲学論考』100年だった!

    もうパニチェさんはチェック済みかなあ(;´・ω・)


    (あたまにhttpつけてください)



    ://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3645

    *******

    ◇『論理哲学論考』100年
    ・飯田 隆 『論理哲学論考』五〇周年から一〇〇周年へ
    ・吉田 寛 現代社会の中の『論理哲学論考』一〇〇年
    ・野家啓一 日本におけるウィトゲンシュタイン受容・補遺

    ◇論理と世界
    ・C・ダイアモンド 次田瞬+大谷弘[訳] はしごを投げ捨てる
    ・荒畑靖宏 世界が存在するのにどうして論理がありえようか?――論理学をめぐるラッセル・フレーゲとウィトゲンシュタイン
    ・槇野沙央理 『論考』を意味あることとして取り扱おうとした主体は本当にあなた自身であるか

    ◇倫理と生
    ・古田徹也 前期ウィトゲンシュタインにおける「意志」とは何か
    ・大谷 弘 「倫理学講話」と倫理的言語使用

    ◇戦争と祈り
    ・小泉義之 兵士ウィトゲンシュタイン――言語の省察
    ・田中祐理子 同時代人たちの「世界」――ウィトゲンシュタインとアラン
    ・鈴木祐丞 ウィトゲンシュタインの「宗教的観点」――『論考』とトルストイ、『探究』とキェルケゴール

    ◇哲学者とその弟子
    ・G・E・M・アンスコム 吉田 廉+京念屋隆史[訳] ウィトゲンシュタインは誰のための哲学者か
    ・吉田 廉 我々はみなどこか愚かである――アンスコムとウィトゲンシュタイン 

    ◇ことばとかたち
    ・山田圭一 見ることの日常性と非日常性――アスペクト論の展開と誤解と新たな展開可能性
    ・谷田雄毅 ポイント(Witz)とアスペクト(Aspekt)――言語ゲームの意味を問うとはどのようなことか

    ◇心と他者
    ・菅崎香乃 『哲学探究』第二部は何を目指したのか――草稿から推測する
    ・鈴木崇志 自分に向けて話すこと、他者に向けて話すこと――ウィトゲンシュタインとフッサール

    ◇おとなと子ども
    ・齋藤直子+P・スタンディッシュ 正しく目を閉じること――ウィトゲンシュタインとおとなの教育
    ・杉田浩崇 ウィトゲンシュタインと子ども――言語ゲームの習得/刷新モデルを超えて、その機微へ

    ◇懐疑と治療
    ・野上志学 蝶番認識論、とりわけそのウィトゲンシュタイン的反懐疑論について
    ・白川晋太郎 なぜ懐疑論者は懐疑論者でないのか?――ブランダムの推論主義を「治療」に活用

    *******

    先ほどちょっとだけ開いてみたんですが、

    >・吉田 寛 現代社会の中の『論理哲学論考』一〇〇年

    は『論理哲学論考』の「解釈」史がまとめてあって、お得(*‘∀‘)

    それにしても、執筆者の顔ぶれをみると、飯田隆とか野家啓一はともかく、永井均とか野矢茂樹は出てこないんですね(´;ω;`)ウゥゥ




引用返信/返信 削除キー/
■20119 / inTopicNo.65)  Re[9]: 底なし沼探査メモ(;´・ω・)3
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/12/25(Sat) 20:14:43)
    お邪魔しま〜す。

    ■20113、pipitさまって、知識人〜、
    永井均さんの発言部分の引用、
    おかげで、他トビの、

    >「ウィトゲンシュタイン入門」永井均p81〜82につぎのように述べています。
    *************
    >(以下、引用)
    通常、超越論的哲学においては、主体としての自我が、素材としての世界に対して形式(形相)を、つまり意味を付与することによって、内的関係がはじめて設定される、と考えられている。ウィトゲンシュタインにおいてはそうではない。自我は、すでに形式によって満たされた世界の限界なすことによって、それにいわば実質を、もっと強くいえば存在を、付与するのである。「私」とは、世界に意味を付与する主体ではなく、世界をこの世界として存在させている世界の実質そのものなのである。それが『論考』的独我論の真意であり、だからこそ、それは、形式上は純粋な実在論とぴったりと重なるのである。
     それゆえ、他者とは、自分とは別の意味付与を行う別の主体のことではなく、この世界とは別の限界を持った別の世界のことでなければならない。なぜなら、限界が異なる世界は別の世界だからである。自我と形式の、主体と意味の、この分裂と逆接の感覚こそが、ウィトゲンシュタイン哲学のー前期後期を通じて変わらぬー強烈な現代性である。
    **********
    って言う、永井ちゃんの発語は、
    わたしには意味をもってないっていうことがわかったよ。

    ありがと、pipitさま。



引用返信/返信 削除キー/
■20113 / inTopicNo.66)  Re[8]: 底なし沼探査メモ(;´・ω・)3
□投稿者/ pipit -(2021/12/25(Sat) 18:12:11)
    うましかさん、パニチェさん、こんにちはー
    (^ω^)

    話題の永井均さんで、もしかしたら珍しいかも?と思うpipitが持ってる対談本から、我と他者についての箇所の一部を引用しますね。

    対談には相手がいるので、遠慮して?発言されてることもあるかもしれないけど、
    引用しますね。
    『マインドフルネス最前線』(サンガ新書)という本で、香山リカさんがいろいろな立場の方と対談をしてる本です。

    抜粋引用する箇所は、全て永井均さんの発言部分です。

    引用開始
    『それと、また別の話ですが、現在の日本語の「自我」という言葉は、ラテン語の「Ego」とかドイツ語の「das Ich」の訳語でしょうけど、第一人称でかつ主格であるというポイントをとらえきれていない、ということも、ついでにちょっと言っておきたい。
    人称と格の組み合わせをわざと固定して、その固定性自体を名詞化して、対象として、ということはつまり主格以外の格として、扱えるようにしているわけですが、その格を固定しているというポイントが理解されない。
    日本語の「私」にはそもそも格がないのでね。
    「自我」では、一人称を三人称化しているだけではなく、主格性を対格化してもいるというポイントが見えてこないんです。
    これは人間的煩悩の構造を理解するのにも重要なことなんですけどね。』
    (p81)

    『自我を客体としてとらえることができると、自分と他人を対等に存在する二つのもののあいだの関係としてもとらえることができるようになるじゃないですか。
    本当は対等じゃないんですよ。
    自分のほうは自分だから世界そのもので、相手はその世界の中に登場する一項目にすぎないんだから。
    しかし対等にもとらえられて、そっちが本当のあり方だともいえる。
    この「も」が問題で、つまり矛盾した二つの世界把握の仕方が共存してしまう。
    片方なら問題ないじゃないですか。
    対等なほうだけでいいなら、そういう事実があります。ってだけだし、
    逆に、私が世界そのものなら、そもそも他者との対比が成り立たないですから。
    しかし、我々は二重になった矛盾した世界を生きているし、二重になった矛盾した本質を持っているわけですよ。
    その矛盾こそが問題の根源だと思います。』
    (p83)

    以上、抜粋引用でしたー
    おつかれさまです♪
    (^_^)


引用返信/返信 削除キー/
■20109 / inTopicNo.67)  Re[7]: 超越論的感性論 第三項:W−8
□投稿者/ pipit -(2021/12/25(Sat) 17:26:44)
    2021/12/25(Sat) 18:20:49 編集(投稿者)

    うましかさん、こんにちは!
    年末大忙しおつかれさまですー

    うましかさんの投稿に便乗させてもらって、中山先生訳本の該当箇所を見てみました(独自段落番号052)

    ちょうど
    No20100を投稿したので、
    関連させて考えることにチャレンジしてみます。

    No20105
    > ◇しかしこの空間以外には、ア・プリオリに客観的と呼ばれ得るでもあろうような、主観的な、しかし何か外的なもの≠ニ連関づけられたいかなる他の表象もない。
    >
    >  ※中山元訳1、p.91では、「外的なものにかかわる主観的な像[=表象]のうちで、アプリオリに客観的なものと主張できるのは、空間のほかには何もない。」と訳される。<

    @(・●・)@.。oO
    『認識は直観(イントゥイトゥス)であるか概念(コンケプトゥス)であるかのどちらかである。
    直観は対象と直接的にかかわり、個別的である。』
    の、直観の形式(純粋直観)が空間なのかな



    > ◇{以下は第一版のみ →}だから、すべての外的現象のこの主観的条件はいかなる他の表象とも比較されえない。<

    @(・●・)@.。oO
    主観的条件、とは、空間のことかな。
    それとは比較されえない、
    「他の表象」についてを以下で述べていくのかな。

    >酒の美味は、その酒の客観的な諸規定の一つではなく、したがって現象とすらみなされた客観の諸規定の一つではなく、その酒を味わう主観がもつ感官の特殊な性質に属する。<

    @(・●・)@.。oO
    おいちい♪は、感覚なのかな。
    『意識を伴う観念(知覚ペルケプティオ)がある。
    この知覚が主体の状態の変様として、もっぱら主体にかかわるときには、それは感覚(センサティオ)となる。』



    > ◇物体の直観にはその諸性質が結びついているが、いろいろな色は物体のそうした諸性質ではなく、光によって或る仕方で触発される視覚の感官の変様でしかない。<

    @(・●・)@.。oO
    色、も、
    『意識を伴う観念(知覚ペルケプティオ)がある。
    この知覚が主体の状態の変様として、もっぱら主体にかかわるときには、それは感覚(センサティオ)となる。』
    だとカントはするのかぁ。

    >これに反して空間は、外的な諸客観の条件として、必然的にこれらの外的な諸客観の現象ないしは直観に属している。<

    @(・●・)@.。oO
    『また客観的な知覚は認識(コグニティオ)である。
    認識は直観(イントゥイトゥス)であるか概念(コンケプトゥス)であるかのどちらかである。
    直観は対象と直接的にかかわり、個別的である。』
    感性的直観における外的客体としての条件が空間なのかな


    > ◇味や色は、諸対象がそのものでのみ私たちにとって感官の客観となり得る必然的な条件では全然ない。
    >それらは、特殊な有機的組織の偶然的に付加された結果としてのみ、現象として結合しているに過ぎない。<
    > ◇だからそれらは、いかなるア・プリオリな表象でもなく感覚に根拠付けられているのであり、しかもそのうえ美味は感覚の結果としての感情(快と不快の)にすら根拠付けられている。また誰一人としてア・プリオリには、色の表象をも、何らかの味の表象をも、もつことはできない。{以上は第一版のみ → 続く}<


    @(・●・)@.。oO
    おいちい♪や赤色は、感官の客観対象の条件ではなく、あくまで偶然的に現象と結びつくものにすぎない、、、アポステリオリってことかな。
    『この知覚が主体の状態の変様として、もっぱら主体にかかわるときには、それは感覚(センサティオ)となる。』

    おつかれさまです♪

引用返信/返信 削除キー/
■20108 / inTopicNo.68)  Re[8]: 底なし沼探査メモ(;´・ω・)3
□投稿者/ パニチェ -(2021/12/25(Sat) 17:18:23)
    こんにちは、うましかさん。横レス失礼します。

    No20106に返信(うましかさんの記事)
    > 今日本を整理していたら、段ボールの底から、秘宝発見(゚д゚)!

    > 永井均の『〈私〉の存在の比類なさ』

    > お掃除のはずが、ついページをめくってしまう…まずい展開(;´・ω・)

    > 私うましかは、永井均は正直あまり好みではありません。たんじゅんうましかな私にはどうも文章が読みづらい、、というのがその理由です。

    > ただ、この方の考えていることの文章には、どうも無視できないものがある。

    > たぶん私のなかに、永井均は倫理学者だという先入観があるからでしょう。

    うましかさんも本持ちですねぇ〜。
    「〈私〉の存在の比類なさ」がダンボールの底で眠ってましたか。
    もし、いつか「I他者」のところだけでも読まれる機会があれば感想を聞かせてもらえたら有難いです。

引用返信/返信 削除キー/
■20106 / inTopicNo.69)  底なし沼探査メモ(;´・ω・)3
□投稿者/ うましか -(2021/12/25(Sat) 14:14:26)
    今日本を整理していたら、段ボールの底から、秘宝発見(゚д゚)!

    永井均の『〈私〉の存在の比類なさ』

    お掃除のはずが、ついページをめくってしまう…まずい展開(;´・ω・)



    私うましかは、永井均は正直あまり好みではありません。たんじゅんうましかな私にはどうも文章が読みづらい、、というのがその理由です。

    ただ、この方の考えていることの文章には、どうも無視できないものがある。

    たぶん私のなかに、永井均は倫理学者だという先入観があるからでしょう。

    この本の目次はこうなっています。

    https://www.keisoshobo.co.jp/book/b26890.html

    はじめに

    I

    他者

    II

    独在性と他者――独我論の本質

    ウィトゲンシュタインの独我論

    独我論と他者――あるいは宇宙の選択の問題

    III

    独在性の意味――山田友幸氏の批判に答え、入不二基義氏の所論を批評する

    独在性の意味(二)――大庭健氏の批判に答え、入不二基義氏の所論を更に検討する

    IV

    書評1 大森荘蔵著『時間と自我』

    書評2 野矢茂樹著『心と他者』

    書評3 B・マクギネス『ウィトゲンシュタイン評伝』 レイ・モンク『ウィトゲンシュタイン1・2』

    V

    差異と実質――ヴィトゲンシュタイン・ソシュール・フッサール
    関連書籍

    *******

    目次からもわかるように永井は「他者」を論じています。ウィトゲンシュタインの、独我論についての思索を叩き台とし、それを通して他者の存在を意識している、、そう感じます。

    私が永井を、好みではないが、無視できないのは、そんなところに魅力を感じたからだったかもしれません。(私の感じたことは的外れかもしれませんが(;´・ω・))


    *******

    底なし沼シリーズ
    No.18341,18382,18440,18490,19701,19720,19763,19807

    私うましかの「底なし沼」に返信くださった投稿につきましては、「検索」ボタンに「底なし沼」と記入していただくと表示されます(・ω・)ノ
引用返信/返信 削除キー/
■20105 / inTopicNo.70)  超越論的感性論 第三項:W−8
□投稿者/ うましか -(2021/12/25(Sat) 12:31:22)
    2021/12/25(Sat) 12:32:27 編集(投稿者)

    pipitさん、こんにちはー

    すこし時間ができたので、ひさしぶりの沼浴ですー(*‘∀‘)

    *******

    ◆{No.19817 「したがって…」からの続き}私たちが判断のこの制限を主語の概念に付加するなら、そのときにはその判断は無条件的に妥当する。「全ての諸物は空間において並存している〔Alle Dinge sind neben einander im Raum〕」という命題は、これらの諸物が私たちの感性的直観の対象と理解されるという制限〔Einschraenkung〕のもとでのみ妥当する。この場合、私たちがこの条件をその概念に付加して、「全ての諸物は、外的現象として、空間において並存している」と言うなら、この規則は普遍的に制限なしに妥当する。したがって私たちの論究が教えるのは、空間は、外的に対象として私たちにあらわれうる全てのもの関しては、実在性〔Realitaet〕(言いかえれば、客観的な妥当性)をもつが、同時に、空間は、理性によってそれ自体において考究されるときの、言いかえれば、私たちの感性の性質を顧慮することなしに扱われるときの諸物に関しては、観念性〔Idealitaet〕≠もつということである。それゆえ私たちは、空間の経験的な実在性〔empirische Realitaet〕(全ての可能的な外的経験〔aller moeglichen ausseren Erfahrung〕に関しての)を主張するが、もっとも、同時に、空間の超越論的な観念性〔transzendentale Idealitaet〕≠も、言いかえれば、私たちが全ての経験の可能性の条件を捨て去り、だから空間を諸物自体そのもの〔Dinge an sich selbst〕の根底にある或るものとして想定するやいなや、空間は何ものでもなくなるということをも、主張するのである。

    --- No.19817 からの続き---

    ◇しかしこの空間以外には、ア・プリオリに客観的と呼ばれ得るでもあろうような、主観的な、しかし何か外的なもの≠ニ連関づけられたいかなる他の表象もない。

     ※中山元訳1、p.91では、「外的なものにかかわる主観的な像[=表象]のうちで、アプリオリに客観的なものと主張できるのは、空間のほかには何もない。」と訳される。

    ◇{以下は第一版のみ →}だから、すべての外的現象のこの主観的条件はいかなる他の表象とも比較されえない。酒の美味は、その酒の客観的な諸規定の一つではなく、したがって現象とすらみなされた客観の諸規定の一つではなく、その酒を味わう主観がもつ感官の特殊な性質に属する。

    ◇物体の直観にはその諸性質が結びついているが、いろいろな色は物体のそうした諸性質ではなく、光によって或る仕方で触発される視覚の感官の変様でしかない。これに反して空間は、外的な諸客観の条件として、必然的にこれらの外的な諸客観の現象ないしは直観に属している。

    ◇味や色は、諸対象がそのものでのみ私たちにとって感官の客観となり得る必然的な条件では全然ない。それらは、特殊な有機的組織の偶然的に付加された結果としてのみ、現象として結合しているに過ぎない。

    ◇だからそれらは、いかなるア・プリオリな表象でもなく感覚に根拠付けられているのであり、しかもそのうえ美味は感覚の結果としての感情(快と不快の)にすら根拠付けられている。また誰一人としてア・プリオリには、色の表象をも、何らかの味の表象をも、もつことはできない。{以上は第一版のみ → 続く}



    † 原佑訳上巻、p.157〜p.158参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−7 No.19817、W−8 No.20105
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105

引用返信/返信 削除キー/
■20100 / inTopicNo.71)  観念・日記
□投稿者/ pipit -(2021/12/25(Sat) 00:22:04)
    ふと、なんか気になったことを。

    (カントの文章。下記に引用文章を再掲します)
    『ここでさまざまな観念の段階を示すと次のようになるだろう。
    まず[最上位の]類概念は、観念一般(レプレセンタティオ)であり、
    この類の下に、
    意識を伴う観念(知覚ペルケプティオ)がある。』

    ------------------------

    意識を伴う観念を知覚とする、ということは、
    意識を伴わない観念もある、とカントは考えてるのかなあ?

    足とかケガしてて気が付かなくて、途中で痛くなって気づくとかあるけど、
    気づく前に『観念』出てるんかなぁ。
    (人間は観念を出してるんかなぁ)

    痛み、は、出てるの?
    痛み、を、意識するの?

    で、知覚は、感覚と認識に分かれる、と。
    知覚判断と、経験判断、だね。

    おもしろいね、知覚から客体を規定する判断

    『純理』においての判断は、表象と表象の関係性のコネクトを作る作業のようにpipitは今のところ思ってるんだよね。
    違うかもだけど。
    『純理』での、カントの論理に対する考え方もまた読み直したいな。

    でもとりあえず、オートポイエーシス論、がんばろー
    o(・x・)/ オー


    (カントの観念についての文章の一つ)
    No19495
    > 『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p63より引用
    『ここでさまざまな観念の段階を示すと次のようになるだろう。
    まず[最上位の]類概念は、観念一般(レプレセンタティオ)であり、
    この類の下に、
    意識を伴う観念(知覚ペルケプティオ)がある。
    この知覚が主体の状態の変様として、もっぱら主体にかかわるときには、それは感覚(センサティオ)となる。
    また客観的な知覚は認識(コグニティオ)である。
    認識は直観(イントゥイトゥス)であるか概念(コンケプトゥス)であるかのどちらかである。
    直観は対象と直接的にかかわり、個別的である。
    概念は多くのものに共通な特徴によって、対象と間接的にかかわる。
    概念は経験的な概念であるか、純粋な概念であるかのどちらかである。
    純粋な概念が(純粋な感性的な形象においてではなく)知性だけを起源とするときは、それは知性の概念(ノティオ)と呼ばれる。
    知性の概念から生まれたものではあるが、経験の可能性を越え出た概念は、理念あるいは理性の概念と呼ばれる。』<

引用返信/返信 削除キー/
■20060 / inTopicNo.72)  Re[23]: おーとぽいえーしすっ!日記
□投稿者/ pipit -(2021/12/22(Wed) 21:24:26)
    No.20032
    『美しい生物学講義』も読み終わりました
    ( ^ω^ )

    山下和也先生の『カントとオートポイエーシス』を理解したいので、
    まず、山下和也先生の論においてはオートポイエーシスシステムがどのように記述されているのかを見ていけたらなとおもうのですが、
    ネットで拝見できる論文があるので、その記述を参考に考えていこうかな、と、思っています。

    『システム論的自我論-カントとオートポイエーシス』
    山下和也先生著

    https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24254/1/Yamashita.pdf
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