□投稿者/ pipit -(2021/12/25(Sat) 00:22:04)
| ふと、なんか気になったことを。
(カントの文章。下記に引用文章を再掲します) 『ここでさまざまな観念の段階を示すと次のようになるだろう。 まず[最上位の]類概念は、観念一般(レプレセンタティオ)であり、 この類の下に、 意識を伴う観念(知覚ペルケプティオ)がある。』
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意識を伴う観念を知覚とする、ということは、 意識を伴わない観念もある、とカントは考えてるのかなあ?
足とかケガしてて気が付かなくて、途中で痛くなって気づくとかあるけど、 気づく前に『観念』出てるんかなぁ。 (人間は観念を出してるんかなぁ)
痛み、は、出てるの? 痛み、を、意識するの?
で、知覚は、感覚と認識に分かれる、と。 知覚判断と、経験判断、だね。
おもしろいね、知覚から客体を規定する判断
『純理』においての判断は、表象と表象の関係性のコネクトを作る作業のようにpipitは今のところ思ってるんだよね。 違うかもだけど。 『純理』での、カントの論理に対する考え方もまた読み直したいな。
でもとりあえず、オートポイエーシス論、がんばろー o(・x・)/ オー
(カントの観念についての文章の一つ) No19495 > 『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p63より引用 『ここでさまざまな観念の段階を示すと次のようになるだろう。 まず[最上位の]類概念は、観念一般(レプレセンタティオ)であり、 この類の下に、 意識を伴う観念(知覚ペルケプティオ)がある。 この知覚が主体の状態の変様として、もっぱら主体にかかわるときには、それは感覚(センサティオ)となる。 また客観的な知覚は認識(コグニティオ)である。 認識は直観(イントゥイトゥス)であるか概念(コンケプトゥス)であるかのどちらかである。 直観は対象と直接的にかかわり、個別的である。 概念は多くのものに共通な特徴によって、対象と間接的にかかわる。 概念は経験的な概念であるか、純粋な概念であるかのどちらかである。 純粋な概念が(純粋な感性的な形象においてではなく)知性だけを起源とするときは、それは知性の概念(ノティオ)と呼ばれる。 知性の概念から生まれたものではあるが、経験の可能性を越え出た概念は、理念あるいは理性の概念と呼ばれる。』<
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