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■18868 / inTopicNo.37)  Re[21]: お気軽日記
  
□投稿者/ pipit -(2021/11/14(Sun) 21:21:49)
    > 知覚から「知る」対象を規定・措定するというプロセス<

    これ、自分が目が見えない仮定をしてみたら、
    プロセスが見えやすくなるんじゃないかと思ってる。

    目を瞑って、残る感覚で、自分の中で対象を規定する。

    それに、プラス眼識で、わたしたちは、知の対象を規定してる。

    、、、これは、知る・側、からの、プロセスの描き出しの実験としてだね

引用返信/返信 削除キー/
■18867 / inTopicNo.38)  お気軽日記
□投稿者/ pipit -(2021/11/14(Sun) 21:15:12)
    今の時点で考えてることを、お気軽日記に書いてみる。
    知覚から「知る」対象を規定・措定するというプロセスの描写を試みるとき、
    「超越論的◯◯」は、その対象の条件を表現しているとpipitは思ってる。

    それから、、、
     
    以前に目にして、もう一度見たいと気になってた、カントの文章の箇所をやっと見つけた!
    B377あたり。

    『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p63より引用

    『ここでさまざまな観念の段階を示すと次のようになるだろう。

    まず[最上位の]類概念は、観念一般(レプレセンタティオ)であり、

    この類の下に、

    意識を伴う観念(知覚ペルケプティオ)がある。

    この知覚が主体の状態の変様として、もっぱら主体にかかわるときには、それは感覚(センサティオ)となる。

    また客観的な知覚は認識(コグニティオ)である。

    認識は直観(イントゥイトゥス)であるか概念(コンケプトゥス)であるかのどちらかである。

    直観は対象と直接的にかかわり、個別的である。

    概念は多くのものに共通な特徴によって、対象と間接的にかかわる。

    概念は経験的な概念であるか、純粋な概念であるかのどちらかである。

    純粋な概念が(純粋な感性的な形象においてではなく)知性だけを起源とするときは、それは知性の概念(ノティオ)と呼ばれる。

    知性の概念から生まれたものではあるが、経験の可能性を越え出た概念は、理念あるいは理性の概念と呼ばれる。』

    くー、見つけ出すの、長かったー
    第4巻だったのかー


引用返信/返信 削除キー/
■18848 / inTopicNo.39)  Google翻訳さんが進化してる気がする
□投稿者/ pipit -(2021/11/14(Sun) 18:59:41)
    Google翻訳に翻訳してもらった部分

    I. Introduction
    Man knows and his capacity to know depends on his bi- ological integrity; furthermore, he knows that he knows. As a basic psychological and, hence, biological func- tion cognition guides his handling of the universe and knowledge gives certainty to his acts; objective knowl- edge seems possible and through objective knowledge the universe appears systematic and predictable. Yet knowl- edge as an experience is something personal and private that cannot be transferred, and that which one believes to be transferable, objective knowledge, must always be created by the listener: the listener understands, and ob- jective knowledge appears transferred, only if he is pre- pared to understand. Thus cognition as a biological func- tion is such that the answer to the question, “What is cog- nition?” must arise from understanding knowledge and the knower through the latter’s capacity to know.
    Such is my endeavor.

    I.はじめに
    人は知っており、知る能力は彼の生物学的完全性に依存します。 さらに、彼は自分が知っていることを知っています。 基本的な心理的、したがって生物学的機能の認知は、彼の宇宙の取り扱いを導き、知識は彼の行動に確実性を与えます。 客観的な知識は可能であるように思われ、客観的な知識を通して宇宙は体系的で予測可能に見えます。 しかし、経験としての知識は、移転できない個人的かつ私的なものであり、移転可能で客観的な知識であると信じる知識は、常にリスナーによって作成されなければなりません。リスナーは理解し、客観的な知識は移転されたように見えます。 彼が理解する準備ができていれば。 したがって、生物学的機能としての認知は、「認知とは何か」という質問に対する答えとなるようなものです。 知識と知識者の知識能力を通じて知識と知識者を理解することから生じなければなりません。
    これが私の努力です。
引用返信/返信 削除キー/
■18847 / inTopicNo.40)  英文論文やったー
□投稿者/ pipit -(2021/11/14(Sun) 18:57:33)
    >> マトゥラーナ「認知の生物学」(1970年)を発見しました〜(;゚Д゚)
    >> あたまにhttpつけてくださいませ。
    >> ://www.biolinguagem.com/ling_cog_cult/maturana_1970_biology_of_cognition.pdf<<

    >読んでみますね!<

    英文論文でしたーΣ(・□・;)
    多分正確には読めないっ(T ^ T)

    > 河本英夫 訳の『オートポイエーシス − 生命システムとのなにか』の第二部「認知の生物学」〔同書p.161〜p.241〕(マトゥラーナ)を補助的に?読んでいます。<

    この本買うかなー、でも、pipitの能力では沈むなー

    でも、序論のとこだけGoogle翻訳にかけたけど、一昔前より随分正確に訳してくれてる気はするなー。
    昔は、漫才か、みたいな翻訳やった気が(#^.^#)

    でも、論文の存在知れて嬉しいです!
    うましかさん、ありがとうー(о´∀`о)


引用返信/返信 削除キー/
■18846 / inTopicNo.41)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/14(Sun) 18:42:01)
    うましかさん、こんばんは沼 ♪(`・∀・´)

    No18832
    >
    > 河本英夫 訳の『オートポイエーシス − 生命システムとのなにか』の第二部「認知の生物学」〔同書p.161〜p.241〕(マトゥラーナ)を補助的に?読んでいます。
    >
    > 第一部の「オートポイエーシス − 生命の有機構成』〔1973年〕(マトゥラーナ/ヴァレラ)よりも前の1970年に書かれた、「オートポイエーシスの概念が、はじめて明確に提起され、この概念についてもっともよくまとまった論考」(=第一部)以前の、しかしAPの論理に「ほとんど到達している」と河本の訳者あとがきで評価された論考です(同書 p.315〜p.316参照)。<

    うましかさんは、勉強家だなー
    自ら学ぶとき、勉強って、すごーく楽しいですよね
    それでも、カント沼は、うぎゃー気分になりがちですけどψ(`∇´)ψ
    うましかさんの存在に感謝してますm(_ _)m

    そうかぁ、もともとのAP論から、結構好き勝手に拡大されてるところもあるかもしれないなぁと、うましかさんの投稿を読んで思いました。

    > 『オートポイエーシス』の内容は、私うましかにとっては非常に難解で、例によって(´;ω;`)ウッ…全然分からないのですが、どちらかというと自分には第二部の記述のほうが抵抗が少なく頭に入ってくるように感じられますが、、、
    >
    > たぶん気のせいでしょうねー(;´・ω・)
    >
    >
    > (/・ω・)/沼まみれ沼
    >
    > 【追記】
    >
    > マトゥラーナ「認知の生物学」(1970年)を発見しました〜(;゚Д゚)
    >
    > あたまにhttpつけてくださいませ。
    >
    > ://www.biolinguagem.com/ling_cog_cult/maturana_1970_biology_of_cognition.pdf<

    読んでみますね!

    貴重な情報をありがとうございます
    o(・x・)/
    @(・●・)@ ン?キミダレ?ヌマー

引用返信/返信 削除キー/
■18844 / inTopicNo.42)  カント哲学を推測してみる日記
□投稿者/ pipit -(2021/11/14(Sun) 18:31:19)
    みなさまこんばんはー(o^^o)
    No18750 の続き

    >思考による内容空虚な編集の働きだから、感性による内容に依存して、各々唯一無二のコンテンツに仕上がってる。<

    No18750

    ================

    >感性による内容は、カント的には、二値論理(真偽)の世界にあるものではなく、<

    関連すると思う文章を複数引用します。

    (カントの文章)『純粋理性批判』(B350あたり)
    『真理と仮象は、対象が直観されているかぎりでの対象そのものにあるのではなく、対象が思考されているかぎりで、対象について人間が下した判断のうちにあるからである。
    だから「感覚能力は誤らない」と主張するのは正しいが、それは感覚能力がつねに正しく判断するからではなく、そもそもまったく判断しないからである。』
    『純粋理性批判4』カント、中山元先生訳、p20より引用。

    (カント文章&御子柴善之先生の解説文)
    『仮象は感官の責任ではなく悟性の責任である。現象に基づいて客観的な判断を下すのは、ひとり悟性である。(Ak291、中公65、岩波85)
    ↑カント先生
    ↓御子柴善之先生
    先の「全感性界がまったくの仮象と化してしまう」という反論は、感性のことがらに真偽を持ち込んでいる点で的外れであることがこの引用文から明らかだろう。
    感性界はたしかに現象の世界である。
    しかし、それは仮象の世界ではない。
    現象は仮象ではないのである。』
    『カント哲学の核心』p105.106より引用

    ※ここで補足です。
    @カント的には、超越論哲学とは形而上学の一部である。
    A批判哲学『超越論的原理論』の二大区分、『感性論』と『論理学』。
    についての記述を引用します。

    @についての引用
    (カントの文章)プロレゴーメナより
    『(略)超越論哲学という名前をもつのは、本来、形而上学の一部分であるが、前者の学問〔超越論哲学〕がはじめて後者〔形而上学〕の可能性を決定するのであり、それゆえすべての形而上学に先行しなければならないからである。(Ak279、中公45、岩波61)』
    『カント哲学の核心』御子柴善之先生、p69

    Aについての引用
    (御子柴善之先生の解説文)
    『『純粋理性批判』には、ア・プリオリな認識を可能にする原理を論じる「超越論的原理論」という長大な論述がある。
    その箇所は「超越論的感性論」と「超越論的論理学」とに分けられる。
    この区分は批判哲学にとって重要である。
    というのは、それによって「感性論」が「論理学」の外部に位置すること、すなわち感性論と論理学が扱う悟性や理性とはまったく異なる能力であることが明示されるからである。
    他方、「超越論的原理論」に「感性論」が含まれることは、論理学が扱う悟性や理性のことがらのみならず、感性論が扱う感性のことがらもまた、認識にとって、それもア・プリオリな認識にとって不可欠であることを示唆している。』
    同上本、p76

    ここまでで一旦投稿します。
    また、後に、以下の書き込みに対応するかなと思う文章を探して引用する予定をしています。

    > しかも本当の感覚の生の接点、源泉点は、触発による受動。<

    >解説者の方が、文字通りの地動説としての回転という感じにおっしゃってた記憶あるけど、過去に引用してるので、そこらへんも絡めて書きたいと思ってます。<

引用返信/返信 削除キー/
■18832 / inTopicNo.43)  pipitさんへ
□投稿者/ うましか -(2021/11/14(Sun) 16:28:06)
    2021/11/14(Sun) 16:51:06 編集(投稿者)

    No18806に返信(pipitさんの記事)
    > ■No18766に返信(うましかさんの記事)
    >> No.18684 に返信

    pipitさん、こんにちはー

    *******

    河本英夫 訳の『オートポイエーシス − 生命システムとのなにか』の第二部「認知の生物学」〔同書p.161〜p.241〕(マトゥラーナ)を補助的に?読んでいます。

    第一部の「オートポイエーシス − 生命の有機構成』〔1973年〕(マトゥラーナ/ヴァレラ)よりも前の1970年に書かれた、「オートポイエーシスの概念が、はじめて明確に提起され、この概念についてもっともよくまとまった論考」(=第一部)以前の、しかしAPの論理に「ほとんど到達している」と河本の訳者あとがきで評価された論考です(同書 p.315〜p.316参照)。

    『オートポイエーシス』の内容は、私うましかにとっては非常に難解で、例によって(´;ω;`)ウッ…全然分からないのですが、どちらかというと自分には第二部の記述のほうが抵抗が少なく頭に入ってくるように感じられますが、、、

    たぶん気のせいでしょうねー(;´・ω・)


    (/・ω・)/沼まみれ沼

    【追記】

    マトゥラーナ「認知の生物学」(1970年)を発見しました〜(;゚Д゚)

    あたまにhttpつけてくださいませ。

    ://www.biolinguagem.com/ling_cog_cult/maturana_1970_biology_of_cognition.pdf





引用返信/返信 削除キー/
■18806 / inTopicNo.44)  Re[15]: 沼まみれ沼日記(´;ω;`)ウッ…
□投稿者/ pipit -(2021/11/13(Sat) 22:45:01)
    No18766に返信(うましかさんの記事)
    > No.18684 に返信
    >
    > >今思いついてるアイデアは、例えば『旅館』という働きをオートポイエーシスシステムとして描くことです。
    >
    >
    > これなかなか沼おもしろそーですねー(;゚Д゚)<

    オートポイエーシス論者さんからはしかられるかもしれませんけど
    一度考えてみたいと思ってますσ(^_^;)


    > 随分前に煮詰まってしまったので時間をあけてまた再開するつもりですが、私の場合、
    >
    > >「人間の認識には、おそらくは共通の、しかし我々には未知な根から生える二つの幹がある、すなわち、感性と悟性である。前者によって我々に対象が与えられ、後者によってしかし思惟される」(B29) 
    > → No.18758,17945,16076
    >
    > を手掛かりに、カント『純理』による人間の認識構造をスケッチしたいとおもっています。<

    はい、これは、カントに好きで関わる人には、とても印象的な言葉ですね。


    > オートポイエーシス(APと略)論は参考になるのかどうか、、、まあAP論自体、私には全然分からないのですがね(;´・ω・)<

    まだ固まってない論かもしれませんしね。
    私はとりあえず山下先生の語る範囲で、カント認識論の理解の補助として、APを見ていこうと思ってます。
    AP本沼はそれこそちょっと無理かも。。。(^◇^;)



    > 沼が沼を呼び、その沼がまた別の沼を呼ぶ、、、(/・ω・)/沼まみれ<

    ほんとにー (´-ω-`)。。。。
引用返信/返信 削除キー/
■18805 / inTopicNo.45)  Re[20]: 謎沼探検記(;´・ω・)
□投稿者/ pipit -(2021/11/13(Sat) 22:35:08)
    No18758
    うましかさん、沼ーーー_(┐「ε:)_
    --------------|---.---------------9????----------|-

    > ◇第二章 理性と認識システム
    ・オートポイエーシスの認識論の基本となる三つのシステム、生命システム、意識システム、認識システムと、カントのあげる三つの認識能力、感性、悟性、理性との対応を考える
    ・この図式が山下の展開する認識論の基礎となる。〔p.15〕<

    、、、うそーん、ここでまだp.15.....

    > 認識システムとは、認識表象を構成素とし、認識を構造とする。<

    お、認識を構造とする、って、今の段階では想像できないなぁ。
    わかるようになるといいな♪

    > 山下のイメージでいえば、感性と悟性とによって個別の認識が成立し、理性によってそれが体系化される。<

    体系化される、かー。

    うましかさん、わたしも謎謎沼調査してみますね!

    沼ーーーp(^_^)qナゾー




引用返信/返信 削除キー/
■18802 / inTopicNo.46)  超越論的感性論 第三項:W−1
□投稿者/ うましか -(2021/11/13(Sat) 22:03:40)
    2021/11/14(Sun) 11:11:23 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、こんばんはー

    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第一節 空間について 〔Von den Raume〕 
     第三項 空間概念の超越論的論究 〔§3 Transzendentale Eroerterung des Begriffs vom Raume〕

    ◇ 私は超越論的論究≠ニいうことを、他のア・プリオリな綜合的諸認識の可能性がそこから洞察されうる原理としての或る概念の説明と理解する。

    ◇この目的〔Absicht〕のために必要なのは、1) 現実に、そうした諸認識が、その与えられた概念から出てくるということ 2) これらの諸認識は、この概念の与えられた説明様式を前提してのみ可能であるこということである。


    † 原佑訳上巻、p.153参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    W−1 No.18802
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802

引用返信/返信 削除キー/
■18766 / inTopicNo.47)  沼まみれ沼日記(´;ω;`)ウッ…
□投稿者/ うましか -(2021/11/13(Sat) 11:41:56)
    No.18684 に返信

    >今思いついてるアイデアは、例えば『旅館』という働きをオートポイエーシスシステムとして描くことです。


    これなかなか沼おもしろそーですねー(;゚Д゚)

    随分前に煮詰まってしまったので時間をあけてまた再開するつもりですが、私の場合、

    >「人間の認識には、おそらくは共通の、しかし我々には未知な根から生える二つの幹がある、すなわち、感性と悟性である。前者によって我々に対象が与えられ、後者によってしかし思惟される」(B29) 
    No.18758,17945,16076

    を手掛かりに、カント『純理』による人間の認識構造をスケッチしたいとおもっています。

    オートポイエーシス(APと略)論は参考になるのかどうか、、、まあAP論自体、私には全然分からないのですがね(;´・ω・)



    沼が沼を呼び、その沼がまた別の沼を呼ぶ、、、(/・ω・)/沼まみれ




引用返信/返信 削除キー/
■18764 / inTopicNo.48)  超越論的感性論 第二項:V−8
□投稿者/ うましか -(2021/11/13(Sat) 11:04:41)
    2021/11/13(Sat) 22:11:28 編集(投稿者)

    pipitさん、皆さん、こんにちはー(/・ω・)/ 

    *******

    ◆ 4 〔第二版では3〕 空間は、諸物一般の諸関係についてのいかなる論弁的な概念ないしは、よく言われるように、一般的な〔allgemainer〕概念ではなく、一つの純粋な直観である。なぜなら、第一に、人は唯一の空間〔einigen Raum〕を表象し得るに過ぎず、だから多くの諸空間についての語るときには、それらを同一の唯一の空間の諸部分と解しているに過ぎないからである。これらの諸部分もまた、すべてを包括する唯一の空間のいわば諸構成要素(それからこの空間の合成が可能であるような)として、この唯一の空間に先行するのではなく、この唯一の空間のうちで≠フみ、思考されるに過ぎない。空間は本質的に唯一であり、空間における多様なもの、したがって諸空間一般についての一般的な概念もまた、もっぱらこの唯一の空間の制限〔Einschraenkung〕に基づいている。このことから生ずるのは、空間に関しては一つのア・プリオリな直観(経験的ではない直観〔die nicht empirisch ist〕)が空間についての全ての概念の根底にあるということである。そこで、全ての幾何学的な原則も、例えば、三角形における二辺の和は他の一辺のよりも大きいという原則も、決して線と三角形とについての一般的な概念から導出されるのではなく、直観から、しかもア・プリオリに確然的な〔apodiktischer〕確実性をもって導出されるのである。

    --- No.18323,18378 からの続き ---

    ◆ 5 空間は与えられた無限の大きさ〔eine unendliche Groesse〕として表象される。空間の一般的な概念は(これは1フィートにおいても、1エレ〔*1〕においても、共通して含まれているが)、大きさに関しては何ものをも規定し得ない。

    *1 エレ(Elle)は、ドイツの昔の尺度で55〜85cmとのこと〔原訳上巻,p.542〕

    ◇ 直観の進行において無際限〔Grenzenlosigkeit〕ということがなかったなら、諸関係についてのいかなる概念も無限性〔Unendlichkeit〕という原理をおびることはないであろう。

    ◆ 4〔*2〕 空間は無限の与えられた¢蛯ォさとして表象される。
    ところで、人はなるほどそれぞれの概念を、無数のさまざまの可能的な諸表象のうちに(それらの共通的徴表として)含まれているところの、
    したがってそれらの無数の諸表象をおのれ自身のもとに♀ワむところの、
    一つの表象として思考するに違いない。

    *2 第二版による。

    ◇ しかしいかなる概念も、一つの概念としては、あたかも無数の諸表象もおのれ自身のうちに♀ワむかのように思考されることはできない。ところが、それにもかかわらず、空間はそのように思考されるのである。(なぜなら、無限に分割された空間のすべての諸部分は同時に存在するからである)。

    ◇ それゆえ空間についての根源的な表象はア・プリオリな直観≠ナあって、だから概念≠ナはない。

    † 原佑訳上巻、p.152〜p.153参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    No.16440,16454,16495,16741,16783,17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764

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