■18892 / inTopicNo.35) |
今朝思ったこと
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□投稿者/ pipit -(2021/11/15(Mon) 06:57:12)
| みなさまおはようございます(^○^)
『形而上学の中身』という対象も、人間の認識能力(感性・知性・理性の協働)が措定する対象だから、 まず、人間の認識能力の法則、源泉、限界などを目極めようとするのが、 『純粋理性批判』の目的の一つなのかな、と、今の段階では思いました。
No18867,18868 >知覚から「知る」対象を規定・措定するというプロセスの描写を試みるとき、 「超越論的◯◯」は、その対象の条件を表現しているとpipitは思ってる<
No18844 >(カントの文章)プロレゴーメナより 『(略)超越論哲学という名前をさもつのは、本来、形而上学の一部分であるが、前者の学問〔超越論哲学〕がはじめて後者〔形而上学〕の可能性を決定するのであり、それゆえすべての形而上学に先行しなければならないからである。(Ak279、中公45、岩波61)』 『カント哲学の核心』御子柴善之先生、p69<
※入力ミスしてました、すみません。 × 超越論哲学という名前をさもつのは、 ◯ 超越論哲学という名前をもつのは、
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