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■17781 / inTopicNo.73)  Re[14]: 自分が一番したいこと
  
□投稿者/ flora -(2021/10/20(Wed) 14:39:56)
    みのりさん、こんにちは

    色々大変ですね・・・

    restさんがご提案くださった、刑法の名誉棄損罪や侮辱罪なんですが、私もYAHOO時代、あまりにも罵詈雑言/誹謗中傷がひどかったので、もう一人の投稿者と一緒に弁護士さんに相談したことがありますが、これはリアルな生活で実害を受けないと難しいようです。

    みのりさんはお優しいので、貴女ご自身が反省なさっている部分があるように見受けますが、かのような投稿によりにあなたが気分を害したという事実があるわけですから、ひどい場合はやはり管理人さんのパニチェさんに、不快な投稿の削除等をご相談なされたらいいと思います。

    議論と個人攻撃の区別がつかない人間が混ざっていると掲示板はとてもやりにくいものになりますね。老婆心とは思いますが、ご参考までに。 

    お寒くなりましたね、お体ご自愛を。

引用返信/返信 削除キー/
■17779 / inTopicNo.74)  Re[13]: 自分が一番したいこと
□投稿者/ みのり -(2021/10/20(Wed) 11:14:18)
    2021/10/20(Wed) 12:03:44 編集(投稿者)

    restさん、投稿ありがとうございます。

    いろいろと心配していただいて、観ていてくださる方はいるのだな、と心強く感じさせていただきました。

    Mさんは、自分が「こう」と考えたことについてはそれが正しいと思い込んでしまう、いわゆる融通の利きにくいところがあり、それによって、ニークラのいろいろな方々に自分の見立てを押し付ける、そういうことをこれまでしてきたのだと考えています。
    そのあたりについて、彼には何度も話してはみたので、伝わっていることを願っています。

    ですので、今、なにか名誉棄損のようなかたちでどうのとは、何も考えてはいないです。
    彼が、他人の動向に囚われずに、ニークラで投稿を楽しまれるのを願うだけです。

    彼とやりとりする中で、私自身も言葉が過ぎた部分は多々あったと思っています。
    そうしたことにより、収拾がつきにくくなった部分があったと自覚しているんです。

    彼の件に関わらず、広い意味において、パニチェさんは、各自の自主性に任せる、自律に任せるという考えでいらっしゃると思っています。
    私としても、ニーチェクラブが誰にとっても自由で開かれた憩いの場になるといいな、と思っています。
    ヤフーでは自分自身のいろんな意味での力不足により、なかなかできなかった投稿(哲学など)をニークラではできたらいいな、というのも個人的には考えています。

    restさんには、先日も声をかけていただいて感謝でいっぱいです。
    ほんとうにありがとうございます。^^
引用返信/返信 削除キー/
■17778 / inTopicNo.75)  Re[12]: 自分が一番したいこと
□投稿者/ rest -(2021/10/20(Wed) 10:43:32)
    横レス 失礼。M.Mがみのりさんをあほう呼ばわりしたことに関して対処法をいろいろ考えてみたのですが、有効と思ったのが次の法的措置です。

     刑法230条第1項(名誉棄損罪)
       「公然と事実を摘示し、人の名誉を棄損した者はその事実の有無に関わらず、三年以下の懲役若しくは禁錮または50万円以下の罰金に処する」


     刑法231条(侮辱罪)
       「事実を摘示しなくても公然と人を侮辱した者は拘留または科料に処する」

     これに該当するなら、パニチェさんもアクセス禁止にするのではないかと思います。遅ればせながら、余計なお世話でした。   
引用返信/返信 削除キー/
■17776 / inTopicNo.76)  真我(ブラフマンとアートマン)
□投稿者/ みのり -(2021/10/20(Wed) 08:07:01)
    2021/10/20(Wed) 08:10:14 編集(投稿者)

    NO17691の投稿について。 詳細に書ききれていなかった部分があったので、以下の部分を中心として加筆編集しています。
    自分の中で明確に把握しきれていなかった部分でもあったので、今回、再確認できてよかったと思っています。
    (真我という言葉は、アートマンとしての意味、ブラフマンとしての意味の二通りに使用される。 もともと、ブラフマン=アートマンである。)

    ・・・・・

    >>これは、つまり、パニチェさんの〈私〉が、「世界には属していないのではないか」というのと、似ているのかもしれないです。
    >
    > ここは探究中です。
    > きっと山下良道さんや藤田一照さんなら迷わず〈私〉と真我は同じだと主張されるでしょうね。

    あくまで、みのりが考えるにはですが、〈私〉というのは、禅でいう「無位の真人」と同じようなもののように考えています。
    (もし、〈私〉が身体の中に位置するものであるとするなら、それが合うと思うのです。)

    ラマナ・マハルシ(アドヴァイタ)も真我という言葉を使うのですが、ラマナ・マハルシの言う真我というのは、身体に閉じ込められているものではないのです。
    梵我一如ということで言えば、ブラフマン=アートマンではあるのですが、アートマンは個人の身体内にあるものとされますよね。
    ラマナの言う真我というのは、ブラフマンのほうなんです。
    そうした意味で、アドヴァイタでの真我と、パニチェさんの〈私〉というのは、また別のものなのではないか、と考えたのです。
    (もし、パニチェさんが〈私〉を身体内に位置するものと考えられているならになります。
    身体に閉じ込められているものではないとするならば、アドヴァイタ(梵我一如の一形態である)での真我と〈私〉は同じようなものを指す可能性はあるのかもしれません。)
引用返信/返信 削除キー/
■17761 / inTopicNo.77)  Z 第一部 説話[15]
□投稿者/ みのり -(2021/10/19(Tue) 09:00:19)
    2021/10/19(Tue) 09:03:34 編集(投稿者)

    [15] 千一の目標について

    ・・・・・
    16 評価することによって、初めて価値が存在する。かくて、評価することが
      なければ、現存在のクルミはうつろであることだろう。
     それを聞け、きみら創造する者たちよ!
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫p107より引用

    評価するためには、まずそのものを認識する必要がある。
    認識したその○○を自分・自分たちの基準に則して評価する。
    なんの評価もされえない(良い・悪いに関わらず)ということは、そのものは存在しないとも同じと言える。
    そうしたことを、創造する者たちは気に留めておかなければならない。

    ・・・・・
    18 最初には、諸民族が創造者であった。のちになって、初めて諸個人が創造者
      になった。
      まことに、個人そのものがなお最近の被造物であった。
    ・・・・・同書p107より引用

    古代には、個人の人権や思想が大切にされるということはなく、現代に近くなりやっと、個人が独自の考えを持てるようになってきた。
    古代においては、個人ではなく民族(それの利益)のための神、という形式であったけれど、次第に個人の信仰という形式に移行してきた。


引用返信/返信 削除キー/
■17759 / inTopicNo.78)  自分が一番したいこと
□投稿者/ みのり -(2021/10/19(Tue) 08:03:35)
    2021/10/19(Tue) 08:20:22 編集(投稿者)

    リアルの生活においてはなかなかその通りにはできないことだけれど、ネット上でならそれが可能ということがある。
    それは、「自分が一番したいと思うことをする」というもの。
    もちろんルールだったりがあるし、それに乗っ取った上にはなるけれど。

    私はこれまでネット上で見かける、自己中心的で何でも他人のせいにする人に対して、「そういうのはおかしい」と言う場面が多かったし、ニークラでもそうだった。
    また、そうした人たちに対応する中で、自分自身が逆に自己中心的な言動をとる場面というのが、各種のネット上で多々あったことも痛感する。

    自ら省みることのない人についてはどう変えることも難しいのだ。
    自分がどうであるかだけが大切なのだというのも痛感した。
    自分が一番したいことだけに邁進する、それは結果として良いものをもたらすものになるのだ。

    あるホームページが、我儘な投稿をする人たちの投稿により最近荒れていた。
    私はそのホームページを主催する方とある話をしたかったので、我儘な投稿は目に留めないようにして目的だけに邁進してみたら、そうした我儘な投稿については一切気にならなくなったのだ。
    そのことをそのホームページに記載したところ、他の投稿者の方も、我儘な投稿に対して何か言うことをやめたようだった。
    そして目的に邁進されるようになっていた。

    このことはとても貴重な経験だった。
    ニーチェクラブでも、目的を成すことだけに邁進したいと思う。
    目的とは、「自分がその時、心から一番書きたいことを書くこと」(ルールに乗っ取って)

引用返信/返信 削除キー/
■17698 / inTopicNo.79)  Re[10]: 秋はモンブラン
□投稿者/ みのり -(2021/10/18(Mon) 10:54:13)
    No17696に返信(田秋さんの記事)
    > おはようございます、みのりさん

    おはようございます、田秋さん。

    > ボクは平日の朝10時頃に行ったのですぐ食べられましたが、土日は当日の予約制でかなり待つようです。

    おいしくて大人気なのですね。 
    今、まさに秋ですし、食べたくなりますものね。^^

    > floraさんの質問に答え忘れていたのですが、勿論あの小山全部が栗ではなく中は焼きメレンゲです(floraさん、ここ見てくれるかな)。メレンゲと栗の間にも何かあったような気がします(何だったのだろう)。


    焼きメレンゲなんですね。 全部が栗だとくどくなりそうですから、それが食感の変化もありいいんでしょうね。

    > 昨日、研究所にアップしましたが、この店で買った栗羊羹、羊羹と栗が同じ固さで(好みはあるかもしれませんが)美味しかったです。

    栗も柔らかく煮たのが使われているんですね。^^

    栗羊羹、日本茶を飲みながら食べたらおいしいですよね〜。
    うちの家族はそういうよさがわからないのです。(^▽^;)

    手作りのスィートポテトもとてもおいしそうでした。
    秋はいいですね。^^  いろんなものがおいしいです。
引用返信/返信 削除キー/
■17696 / inTopicNo.80)  Re[9]: 秋はモンブラン
□投稿者/ 田秋 -(2021/10/18(Mon) 10:02:06)
    おはようございます、みのりさん

    ボクは平日の朝10時頃に行ったのですぐ食べられましたが、土日は当日の予約制でかなり待つようです。
    floraさんの質問に答え忘れていたのですが、勿論あの小山全部が栗ではなく中は焼きメレンゲです(floraさん、ここ見てくれるかな)。メレンゲと栗の間にも何かあったような気がします(何だったのだろう)。

    昨日、研究所にアップしましたが、この店で買った栗羊羹、羊羹と栗が同じ固さで(好みはあるかもしれませんが)美味しかったです。



引用返信/返信 削除キー/
■17692 / inTopicNo.81)  秋はモンブラン
□投稿者/ みのり -(2021/10/18(Mon) 08:31:39)
    田秋さんご紹介のモンブランケーキが、とてもおいしそうでした〜。

    ケーキの中ではモンブランが一番好き。
    生クリームのケーキ、レアチーズケーキはたまに作るのだけど、モンブランは手間がかかると思い、作ったことがないな〜。

    何かの番組で観た、栗がごろっと入った高級そうな羊羹がおいしそうで、ネットで探して注文しようかと家族に言ってみたら、「羊羹なんていらない」だそうでつた。(笑)

    羊羹、不人気説。。。。。?

    『ツァラトゥストラ』の読解、延期になってますが、それこそライフワーク的にしていこうと思ってまして、今年中に終わらす可能性はあまりありません。
    ゆったりとしていきます。^^
引用返信/返信 削除キー/
■17691 / inTopicNo.82)  Re[16]: 真我と〈私〉
□投稿者/ みのり -(2021/10/18(Mon) 08:07:52)
    2021/10/20(Wed) 07:54:32 編集(投稿者)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    No17678に返信(パニチェさんの記事)


    >>パニチェさんとしては、そういう際の認識している主体を〈私〉と考えられているのだろうな、と思いました。
    >>そして、その〈私〉は、どこに位置しているのか、なのですね。
    >
    > そうです。

    はい。

    >>この部分、私の感覚としては少し違っていて。何かを認識しているものはたしかにある、そうでなければ認識できませんから。
    >>ただ、〈私〉が溶けている世界はすべてが不分離なのだから、その不分離を認識している主体というのも不分離であり、つまり一つしかないのではないか、ということなんです。
    >>それを「気づき」とか「真我」などで表わしているみたいな。
    >>「気づき」「真我」は、「意識」でも同じような意味合いです。
    >
    > それも分かりますし、可能性として「あり」ます。
    > その「気づき」「真我」あるいは「意識」は可能性として万人に共通するようなものですか、それとも比類なき唯一無二のものですか?

    ちょっと説明させていただきます。
    世界の様々なもの(もちろん人間も含めて) を海と波の関係で喩えて書いてみます。。

    海があります。
    その海が姿を変えて現象しているのが波。
    波と波は繋がり合いながら変化しつつ、海とは不分離です。
    しかし、やってくる一つ一つの波というのはあり、人間にも認識可能です。
    そして、今、書いたようなことから考えれば、人間一人一つずつあると半ば常識のように考えられている「意識」というものも、ただ一つしかないのではないか、というのが私の考えです。
    そしてその「意識」を言い換えたものが、「真我」「気づき」です。
    アドヴァイタ(非二元)の考え方もそうです。
    ですので、質問への答えは、「ただ一つあるもの」になります。

    喩えの中の表現を使うと、波、これが個別の人間です。
    その個別の人間は、それぞれに唯一無二の〈私〉でもあります。
    波も一つとして同じものはないと思います。季節や気象条件により変化します。
    この〈私〉というのを永井均さんやパニチェさんは考えていらっしゃるのだと私的には思っています。
    ウィトゲンシュタインについては、まだまったくというほど知らないので、彼が問題としていた「人間」がどういうものかについては、私的には白紙にしています。

    > 了解です。

    はい。

    > >>さらに、ひょっとしたら身体と不分離な(身体に閉じている)のは〈私〉ではなく「私」ではないか?というようなところが現時点での探究の最先端です。
    >>なるほど。だから、〈私〉は、世界の中には位置していない、ということになるのですね。
    >>もしかしたらですが、パニチェさんのおっしゃるパニチェさんの〈私〉には、みのりのいう「気づき」「真我」の意味するもの、つまり「意識」が含まれているのかもしれないです。
    >
    > ここはまだよく分からないんですよねぇ〜。

    そうなんですね。 ただ一つの正解というのもなく、観方は人それぞれと思います。^^

    >>非二元での「気づき」、アドヴァイタだと「真我」「意識」。
    >>(非二元とアドヴァイタは、ほぼ同じようなものです。)
    >>これらは、限定することができないもの、どこにあるここにあるとは言えないもの、
    >>とされています。
    >
    > 「気づき」「真我」「意識」については同意です。
    > ここで言う意識とは「無意識」の方が近いような気がしますが。。。


    「気づき」「真我」「意識」。 これらは、存在することの基盤のようなことを表す意味で用いられています。
    スクリーンと映画の喩えです。

    ですので、先ほど出した、海と波の譬えの海ですが・・・ 
    ここからは、自然の海(太平洋などの)で書いてみます。  
    これも「気づき」に現れるものです。
    それを、個別の分離した人間であると考えている私たち人間が、それぞれの眼を通して認識しているので、それぞれの人が観る海になっている。
    そもそも本来の「海」を人間は誰もそのままには認識できないのだと思います。
    (本質は言語化できない、物自体は知りえない、とも共通するかもしれないです。)

    宇宙もそうです。 宇宙の完全なる姿を人間はまだ知りませんし、そもそもなぜ宇宙は存在するのかも人間には知りえないでいます。
    しかし、宇宙は存在しているということだけは、現代の大人の人間であればほとんどの人が知っています。
    宇宙の存在に気づいているからです。 その「気づく」を成立させているのが「気づき」(もちろん、「意識」「真我」でも可)です。
    そして、その仕組みによって、私たち人間は、自分たちが存在していることに気づきました。
    (それらを可能にするには、もちろん知能の発達も必要でした。)

    >>これは、つまり、パニチェさんの〈私〉が、「世界には属していないのではないか」というのと、似ているのかもしれないです。
    >
    > ここは探究中です。
    > きっと山下良道さんや藤田一照さんなら迷わず〈私〉と真我は同じだと主張されるでしょうね。

    あくまで、みのりが考えるにはですが、〈私〉というのは、禅でいう「無位の真人」と同じようなもののように考えています。
    (もし、〈私〉が身体の中に位置するものであるとするなら、それが合うと思うのです。)

    ラマナ・マハルシ(アドヴァイタ)も真我という言葉を使うのですが、ラマナ・マハルシの言う真我というのは、身体に閉じ込められているものではないのです。
    梵我一如ということで言えば、ブラフマン=アートマンではあるのですが、アートマンは個人の身体内にあるものとされますよね。
    ラマナの言う真我というのは、ブラフマンのほうなんです。
    そうした意味で、アドヴァイタでの真我と、パニチェさんの〈私〉というのは、また別のものなのではないか、と考えたのです。
    (もし、パニチェさんが〈私〉を身体内に位置するものと考えられているならになります。
    身体に閉じ込められているものではないとするならば、真我と〈私〉は同じようなものを指す可能性はあるのかもしれません。)
引用返信/返信 削除キー/
■17678 / inTopicNo.83)  真我と〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/17(Sun) 16:05:30)
    レスありがとうございます。

    No17662に返信(みのりさんの記事)

    > 「自分」という認識、意識がなく、いわゆる何気過ごしているというような時でも、普通に世界を認識はしていますものね。
    > パニチェさんとしては、そういう際の認識している主体を〈私〉と考えられているのだろうな、と思いました。
    > そして、その〈私〉は、どこに位置しているのか、なのですね。

    そうです。

    > この部分、私の感覚としては少し違っていて。何かを認識しているものはたしかにある、そうでなければ認識できませんから。
    > ただ、〈私〉が溶けている世界はすべてが不分離なのだから、その不分離を認識している主体というのも不分離であり、つまり一つしかないのではないか、ということなんです。
    > それを「気づき」とか「真我」などで表わしているみたいな。
    > 「気づき」「真我」は、「意識」でも同じような意味合いです。

    それも分かりますし、可能性として「あり」ます。
    その「気づき」「真我」あるいは「意識」は可能性として万人に共通するようなものですか、それとも比類なき唯一無二のものですか?

    >>意識してない時に存在するのが〈私〉であるなら、意識した時に存在するのは言語的な「私」である可能性もあるということ。
    > ここはそうなるのだと思います。
    > 文章の後半については、みのりも同じです。
    > 前半部分は、上に書いたような感じを思っているので、少し違うようです。

    了解です。

    >>さらに、ひょっとしたら身体と不分離な(身体に閉じている)のは〈私〉ではなく「私」ではないか?というようなところが現時点での探究の最先端です。
    > なるほど。だから、〈私〉は、世界の中には位置していない、ということになるのですね。
    > もしかしたらですが、パニチェさんのおっしゃるパニチェさんの〈私〉には、みのりのいう「気づき」「真我」の意味するもの、つまり「意識」が含まれているのかもしれないです。

    ここはまだよく分からないんですよねぇ〜。

    > 非二元での「気づき」、アドヴァイタだと「真我」「意識」。
    > (非二元とアドヴァイタは、ほぼ同じようなものです。)
    > これらは、限定することができないもの、どこにあるここにあるとは言えないもの、
    > とされています。

    「気づき」「真我」「意識」については同意です。
    ここで言う意識とは「無意識」の方が近いような気がしますが。。。

    > これは、つまり、パニチェさんの〈私〉が、「世界には属していないのではないか」というのと、似ているのかもしれないです。

    ここは探究中です。
    きっと山下良道さんや藤田一照さんなら迷わず〈私〉と真我は同じだと主張されるでしょうね。

引用返信/返信 削除キー/
■17662 / inTopicNo.84)  Re[14]: アドヴァイタ
□投稿者/ みのり -(2021/10/17(Sun) 10:13:27)
    2021/10/17(Sun) 12:00:05 編集(投稿者)

    No17658に返信(パニチェさんの記事)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    > ■No17653に返信(みのりさんの記事)
    >>まず。みのり的には、みのりの身体とみのりの〈私〉は不分離です。
    >>そして、眼のところから広がる、みのり的〈私〉世界には、他者はもちろん普通に存在しています。
    >>ただ、これは、〈私〉でも自我の私でもどちらでもいいのですが、「自分」というものを認識している、意識している時の世界の見え方なんです。
    >>(みのりにとってはそうだということです。)
    >
    >>自分というものを認識していない、意識していない時には、他者という認識も意識も特にはなく、今見えているもの、聞こえているもの、そういうものが不分離にある、という感じなんです。
    >>こういうことを指して、〈私〉は世界に溶け込んでいる、と表現しました。
    >>そして、〈私〉ということをニークラで書いている今のような時とか、リアルで嫌なことを感じた時、心配事が出たような時などには、ギューッと圧縮されて「自分」が表れてくる、という感じです。
    >
    > これよく分かりますし、パニチェが探究しているまさに最先端のところです。
    > ポイントは意識していない時にも存在するのが〈私〉かどうか、もしそうであるなら〈私〉はどこに位置しているのか?というようなところです。

    「自分」という認識、意識がなく、いわゆる何気過ごしているというような時でも、普通に世界を認識はしていますものね。
    パニチェさんとしては、そういう際の認識している主体を〈私〉と考えられているのだろうな、と思いました。
    そして、その〈私〉は、どこに位置しているのか、なのですね。

    この部分、私の感覚としては少し違っていて。何かを認識しているものはたしかにある、そうでなければ認識できませんから。
    ただ、〈私〉が溶けている世界はすべてが不分離なのだから、その不分離を認識している主体というのも不分離であり、つまり一つしかないのではないか、ということなんです。
    それを「気づき」とか「真我」などで表わしているみたいな。
    「気づき」「真我」は、「意識」でも同じような意味合いです。


    > 意識してない時に存在するのが〈私〉であるなら、意識した時に存在するのは言語的な「私」である可能性もあるということ。

    ここはそうなるのだと思います。
    文章の後半については、みのりも同じです。
    前半部分は、上に書いたような感じを思っているので、少し違うようです。

    > さらに、ひょっとしたら身体と不分離な(身体に閉じている)のは〈私〉ではなく「私」ではないか?というようなところが現時点での探究の最先端です。

    なるほど。だから、〈私〉は、世界の中には位置していない、ということになるのですね。
    もしかしたらですが、パニチェさんのおっしゃるパニチェさんの〈私〉には、みのりのいう「気づき」「真我」の意味するもの、つまり「意識」が含まれているのかもしれないです。

    非二元での「気づき」、アドヴァイタだと「真我」「意識」。
    (非二元とアドヴァイタは、ほぼ同じようなものです。)
    これらは、限定することができないもの、どこにあるここにあるとは言えないもの、
    とされています。
    これは、つまり、パニチェさんの〈私〉が、「世界には属していないのではないか」というのと、似ているのかもしれないです。
引用返信/返信 削除キー/

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