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Re[16]: 真我と〈私〉
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□投稿者/ みのり -(2021/10/18(Mon) 08:07:52)
| 2021/10/20(Wed) 07:54:32 編集(投稿者)
パニチェさん、レスありがとうございます。
■No17678に返信(パニチェさんの記事)
>>パニチェさんとしては、そういう際の認識している主体を〈私〉と考えられているのだろうな、と思いました。 >>そして、その〈私〉は、どこに位置しているのか、なのですね。 > > そうです。
はい。
>>この部分、私の感覚としては少し違っていて。何かを認識しているものはたしかにある、そうでなければ認識できませんから。 >>ただ、〈私〉が溶けている世界はすべてが不分離なのだから、その不分離を認識している主体というのも不分離であり、つまり一つしかないのではないか、ということなんです。 >>それを「気づき」とか「真我」などで表わしているみたいな。 >>「気づき」「真我」は、「意識」でも同じような意味合いです。 > > それも分かりますし、可能性として「あり」ます。 > その「気づき」「真我」あるいは「意識」は可能性として万人に共通するようなものですか、それとも比類なき唯一無二のものですか?
ちょっと説明させていただきます。 世界の様々なもの(もちろん人間も含めて) を海と波の関係で喩えて書いてみます。。
海があります。 その海が姿を変えて現象しているのが波。 波と波は繋がり合いながら変化しつつ、海とは不分離です。 しかし、やってくる一つ一つの波というのはあり、人間にも認識可能です。 そして、今、書いたようなことから考えれば、人間一人一つずつあると半ば常識のように考えられている「意識」というものも、ただ一つしかないのではないか、というのが私の考えです。 そしてその「意識」を言い換えたものが、「真我」「気づき」です。 アドヴァイタ(非二元)の考え方もそうです。 ですので、質問への答えは、「ただ一つあるもの」になります。
喩えの中の表現を使うと、波、これが個別の人間です。 その個別の人間は、それぞれに唯一無二の〈私〉でもあります。 波も一つとして同じものはないと思います。季節や気象条件により変化します。 この〈私〉というのを永井均さんやパニチェさんは考えていらっしゃるのだと私的には思っています。 ウィトゲンシュタインについては、まだまったくというほど知らないので、彼が問題としていた「人間」がどういうものかについては、私的には白紙にしています。
> 了解です。
はい。
> >>さらに、ひょっとしたら身体と不分離な(身体に閉じている)のは〈私〉ではなく「私」ではないか?というようなところが現時点での探究の最先端です。 >>なるほど。だから、〈私〉は、世界の中には位置していない、ということになるのですね。 >>もしかしたらですが、パニチェさんのおっしゃるパニチェさんの〈私〉には、みのりのいう「気づき」「真我」の意味するもの、つまり「意識」が含まれているのかもしれないです。 > > ここはまだよく分からないんですよねぇ〜。
そうなんですね。 ただ一つの正解というのもなく、観方は人それぞれと思います。^^
>>非二元での「気づき」、アドヴァイタだと「真我」「意識」。 >>(非二元とアドヴァイタは、ほぼ同じようなものです。) >>これらは、限定することができないもの、どこにあるここにあるとは言えないもの、 >>とされています。 > > 「気づき」「真我」「意識」については同意です。 > ここで言う意識とは「無意識」の方が近いような気がしますが。。。
「気づき」「真我」「意識」。 これらは、存在することの基盤のようなことを表す意味で用いられています。 スクリーンと映画の喩えです。
ですので、先ほど出した、海と波の譬えの海ですが・・・ ここからは、自然の海(太平洋などの)で書いてみます。 これも「気づき」に現れるものです。 それを、個別の分離した人間であると考えている私たち人間が、それぞれの眼を通して認識しているので、それぞれの人が観る海になっている。 そもそも本来の「海」を人間は誰もそのままには認識できないのだと思います。 (本質は言語化できない、物自体は知りえない、とも共通するかもしれないです。)
宇宙もそうです。 宇宙の完全なる姿を人間はまだ知りませんし、そもそもなぜ宇宙は存在するのかも人間には知りえないでいます。 しかし、宇宙は存在しているということだけは、現代の大人の人間であればほとんどの人が知っています。 宇宙の存在に気づいているからです。 その「気づく」を成立させているのが「気づき」(もちろん、「意識」「真我」でも可)です。 そして、その仕組みによって、私たち人間は、自分たちが存在していることに気づきました。 (それらを可能にするには、もちろん知能の発達も必要でした。)
>>これは、つまり、パニチェさんの〈私〉が、「世界には属していないのではないか」というのと、似ているのかもしれないです。 > > ここは探究中です。 > きっと山下良道さんや藤田一照さんなら迷わず〈私〉と真我は同じだと主張されるでしょうね。
あくまで、みのりが考えるにはですが、〈私〉というのは、禅でいう「無位の真人」と同じようなもののように考えています。 (もし、〈私〉が身体の中に位置するものであるとするなら、それが合うと思うのです。)
ラマナ・マハルシ(アドヴァイタ)も真我という言葉を使うのですが、ラマナ・マハルシの言う真我というのは、身体に閉じ込められているものではないのです。 梵我一如ということで言えば、ブラフマン=アートマンではあるのですが、アートマンは個人の身体内にあるものとされますよね。 ラマナの言う真我というのは、ブラフマンのほうなんです。 そうした意味で、アドヴァイタでの真我と、パニチェさんの〈私〉というのは、また別のものなのではないか、と考えたのです。 (もし、パニチェさんが〈私〉を身体内に位置するものと考えられているならになります。 身体に閉じ込められているものではないとするならば、真我と〈私〉は同じようなものを指す可能性はあるのかもしれません。)
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