□投稿者/ パニチェ -(2021/10/17(Sun) 16:05:30)
| レスありがとうございます。
■No17662に返信(みのりさんの記事)
> 「自分」という認識、意識がなく、いわゆる何気過ごしているというような時でも、普通に世界を認識はしていますものね。 > パニチェさんとしては、そういう際の認識している主体を〈私〉と考えられているのだろうな、と思いました。 > そして、その〈私〉は、どこに位置しているのか、なのですね。
そうです。
> この部分、私の感覚としては少し違っていて。何かを認識しているものはたしかにある、そうでなければ認識できませんから。 > ただ、〈私〉が溶けている世界はすべてが不分離なのだから、その不分離を認識している主体というのも不分離であり、つまり一つしかないのではないか、ということなんです。 > それを「気づき」とか「真我」などで表わしているみたいな。 > 「気づき」「真我」は、「意識」でも同じような意味合いです。
それも分かりますし、可能性として「あり」ます。 その「気づき」「真我」あるいは「意識」は可能性として万人に共通するようなものですか、それとも比類なき唯一無二のものですか?
>>意識してない時に存在するのが〈私〉であるなら、意識した時に存在するのは言語的な「私」である可能性もあるということ。 > ここはそうなるのだと思います。 > 文章の後半については、みのりも同じです。 > 前半部分は、上に書いたような感じを思っているので、少し違うようです。
了解です。
>>さらに、ひょっとしたら身体と不分離な(身体に閉じている)のは〈私〉ではなく「私」ではないか?というようなところが現時点での探究の最先端です。 > なるほど。だから、〈私〉は、世界の中には位置していない、ということになるのですね。 > もしかしたらですが、パニチェさんのおっしゃるパニチェさんの〈私〉には、みのりのいう「気づき」「真我」の意味するもの、つまり「意識」が含まれているのかもしれないです。
ここはまだよく分からないんですよねぇ〜。
> 非二元での「気づき」、アドヴァイタだと「真我」「意識」。 > (非二元とアドヴァイタは、ほぼ同じようなものです。) > これらは、限定することができないもの、どこにあるここにあるとは言えないもの、 > とされています。
「気づき」「真我」「意識」については同意です。 ここで言う意識とは「無意識」の方が近いような気がしますが。。。
> これは、つまり、パニチェさんの〈私〉が、「世界には属していないのではないか」というのと、似ているのかもしれないです。
ここは探究中です。 きっと山下良道さんや藤田一照さんなら迷わず〈私〉と真我は同じだと主張されるでしょうね。
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