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Re[14]: アドヴァイタ
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□投稿者/ みのり -(2021/10/17(Sun) 10:13:27)
| 2021/10/17(Sun) 12:00:05 編集(投稿者)
■No17658に返信(パニチェさんの記事)
パニチェさん、レスありがとうございます。
> ■No17653に返信(みのりさんの記事) >>まず。みのり的には、みのりの身体とみのりの〈私〉は不分離です。 >>そして、眼のところから広がる、みのり的〈私〉世界には、他者はもちろん普通に存在しています。 >>ただ、これは、〈私〉でも自我の私でもどちらでもいいのですが、「自分」というものを認識している、意識している時の世界の見え方なんです。 >>(みのりにとってはそうだということです。) > >>自分というものを認識していない、意識していない時には、他者という認識も意識も特にはなく、今見えているもの、聞こえているもの、そういうものが不分離にある、という感じなんです。 >>こういうことを指して、〈私〉は世界に溶け込んでいる、と表現しました。 >>そして、〈私〉ということをニークラで書いている今のような時とか、リアルで嫌なことを感じた時、心配事が出たような時などには、ギューッと圧縮されて「自分」が表れてくる、という感じです。 > > これよく分かりますし、パニチェが探究しているまさに最先端のところです。 > ポイントは意識していない時にも存在するのが〈私〉かどうか、もしそうであるなら〈私〉はどこに位置しているのか?というようなところです。
「自分」という認識、意識がなく、いわゆる何気過ごしているというような時でも、普通に世界を認識はしていますものね。 パニチェさんとしては、そういう際の認識している主体を〈私〉と考えられているのだろうな、と思いました。 そして、その〈私〉は、どこに位置しているのか、なのですね。
この部分、私の感覚としては少し違っていて。何かを認識しているものはたしかにある、そうでなければ認識できませんから。 ただ、〈私〉が溶けている世界はすべてが不分離なのだから、その不分離を認識している主体というのも不分離であり、つまり一つしかないのではないか、ということなんです。 それを「気づき」とか「真我」などで表わしているみたいな。 「気づき」「真我」は、「意識」でも同じような意味合いです。
> 意識してない時に存在するのが〈私〉であるなら、意識した時に存在するのは言語的な「私」である可能性もあるということ。
ここはそうなるのだと思います。 文章の後半については、みのりも同じです。 前半部分は、上に書いたような感じを思っているので、少し違うようです。
> さらに、ひょっとしたら身体と不分離な(身体に閉じている)のは〈私〉ではなく「私」ではないか?というようなところが現時点での探究の最先端です。
なるほど。だから、〈私〉は、世界の中には位置していない、ということになるのですね。 もしかしたらですが、パニチェさんのおっしゃるパニチェさんの〈私〉には、みのりのいう「気づき」「真我」の意味するもの、つまり「意識」が含まれているのかもしれないです。
非二元での「気づき」、アドヴァイタだと「真我」「意識」。 (非二元とアドヴァイタは、ほぼ同じようなものです。) これらは、限定することができないもの、どこにあるここにあるとは言えないもの、 とされています。 これは、つまり、パニチェさんの〈私〉が、「世界には属していないのではないか」というのと、似ているのかもしれないです。
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