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No17662 の記事


■17662 / )  Re[14]: アドヴァイタ
□投稿者/ みのり -(2021/10/17(Sun) 10:13:27)
    2021/10/17(Sun) 12:00:05 編集(投稿者)

    No17658に返信(パニチェさんの記事)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    > ■No17653に返信(みのりさんの記事)
    >>まず。みのり的には、みのりの身体とみのりの〈私〉は不分離です。
    >>そして、眼のところから広がる、みのり的〈私〉世界には、他者はもちろん普通に存在しています。
    >>ただ、これは、〈私〉でも自我の私でもどちらでもいいのですが、「自分」というものを認識している、意識している時の世界の見え方なんです。
    >>(みのりにとってはそうだということです。)
    >
    >>自分というものを認識していない、意識していない時には、他者という認識も意識も特にはなく、今見えているもの、聞こえているもの、そういうものが不分離にある、という感じなんです。
    >>こういうことを指して、〈私〉は世界に溶け込んでいる、と表現しました。
    >>そして、〈私〉ということをニークラで書いている今のような時とか、リアルで嫌なことを感じた時、心配事が出たような時などには、ギューッと圧縮されて「自分」が表れてくる、という感じです。
    >
    > これよく分かりますし、パニチェが探究しているまさに最先端のところです。
    > ポイントは意識していない時にも存在するのが〈私〉かどうか、もしそうであるなら〈私〉はどこに位置しているのか?というようなところです。

    「自分」という認識、意識がなく、いわゆる何気過ごしているというような時でも、普通に世界を認識はしていますものね。
    パニチェさんとしては、そういう際の認識している主体を〈私〉と考えられているのだろうな、と思いました。
    そして、その〈私〉は、どこに位置しているのか、なのですね。

    この部分、私の感覚としては少し違っていて。何かを認識しているものはたしかにある、そうでなければ認識できませんから。
    ただ、〈私〉が溶けている世界はすべてが不分離なのだから、その不分離を認識している主体というのも不分離であり、つまり一つしかないのではないか、ということなんです。
    それを「気づき」とか「真我」などで表わしているみたいな。
    「気づき」「真我」は、「意識」でも同じような意味合いです。


    > 意識してない時に存在するのが〈私〉であるなら、意識した時に存在するのは言語的な「私」である可能性もあるということ。

    ここはそうなるのだと思います。
    文章の後半については、みのりも同じです。
    前半部分は、上に書いたような感じを思っているので、少し違うようです。

    > さらに、ひょっとしたら身体と不分離な(身体に閉じている)のは〈私〉ではなく「私」ではないか?というようなところが現時点での探究の最先端です。

    なるほど。だから、〈私〉は、世界の中には位置していない、ということになるのですね。
    もしかしたらですが、パニチェさんのおっしゃるパニチェさんの〈私〉には、みのりのいう「気づき」「真我」の意味するもの、つまり「意識」が含まれているのかもしれないです。

    非二元での「気づき」、アドヴァイタだと「真我」「意識」。
    (非二元とアドヴァイタは、ほぼ同じようなものです。)
    これらは、限定することができないもの、どこにあるここにあるとは言えないもの、
    とされています。
    これは、つまり、パニチェさんの〈私〉が、「世界には属していないのではないか」というのと、似ているのかもしれないです。
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