(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■17936 / inTopicNo.37)  Re[32]: 返信
  
□投稿者/ みのり -(2021/10/24(Sun) 07:53:22)
    17911について、了解です。
引用返信/返信 削除キー/
■17935 / inTopicNo.38)  Re[25]: クオリアと〈私〉
□投稿者/ みのり -(2021/10/24(Sun) 07:50:57)
    2021/10/25(Mon) 18:06:00 編集(投稿者)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    No17900に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/10/23(Sat) 07:50:00 編集(投稿者)

    > パニチェにとってこれほど充実した〈私〉についてのレス交換できる対話者はゴウさん以来で感謝です。

    ゴウさんというのは、行者さんで仏教にとても詳しい方のようですから、私とは雲泥の差です。
    でも、私としても、これまでなかなか対話が誰ともできなかった内容について、パニチェさんとやりとりできたのは、貴重です。

    > >>もしそうだとすると「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」のはどこですか?
    >>その人その人の視点から観る世界、言わば、その人その人が主人公である映画。
    >>(私たちが生きている世界を映画として喩えているわけですが。)
    >
    > これニーチェの無垢なる子供にも相通じますね。
    >
    > 「子供は無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動、一つの聖なる肯定である。(ツァラトゥストラ 三つの変化について)」
    > 「世界を『人間化する』こと、すなわち世界のうちで自分自身をますます主人と感じること──(力への意志 第614番)」
    >
    > 自ら価値を創出した世界には自己と何ら対立するものなどなく忘我のうちに遊戯に高じる子供如くであり、世界の中心であり主人公にして世界の創造者でもありうる、みたいな。。。

    自らが世界を創造していけるのだ、という視点というか理想的な考え方に立てればその通りだと思います。
    困難、苦悩さえも成長の糧と前向きに考えられるような。
    しかし、実際には、個人だけではなかなかどうすることもできない環境にいたり、問題を抱える人々がとても多く、苦悩が多いままで右往左往せざるを得ない人々が多いと思います。

    非二元の視点では、不分離ゆえに個人は存在しない、すべては気づきなのだ( 気づきだけが実体であり、すべてのものは気づきに現れたイメージである )、と究極においては考えます。
    ちなみに、私は、不分離ゆえに個人は存在しない、については実感としていますが、すべてのものは気づきに現れたイメージである、つまり、生死もイメージであるを含むと思うのですが、ここまでは実感できていないので、完全に底が抜ける状態を理解しているのではないと考えています。
    非二元って人によっては、虚無を感じるみたいなんですが、みのり的には究極の楽観性なんですね。
    なので、ニーチェの厳しさと非二元の楽観性が合わさると、自分の中ではとても具合がいいのです。

    >>しかし、この、その人にとっての映画(ストーリー)が成立するためには、本質的なところまで考えれば、その映画内だけには収まり切れない膨大な映画が下(裏でもいいです。)にはあると考えるのです。
    >>なぜなら本来、世界は、「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」からです。
    >>個別に存在していると考えている個々の人間は、「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」世界から、自分にとっての世界を切り取る、掬い取るようにして生きているのだと考えています。
    >>もちろん、こうしたことはなんら批判すべきことでもなんでもなく、そのようにしなければ、社会生活を送ることは不可能です。
    >>質問の、
    > >>もしそうだとすると「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」のはどこですか?<
    >>の答えは以下になります。
    >>喩えとして、「下」「裏」などを使っていますが、それは、具体的に「ここ」だと指定することはできないからです。
    >>大乗仏教の言葉で、「一即多・多即一」というのがありますよね、これなどは、「不分離の世界観」を表すものなのではないか、と考えています。
    >
    > スクリーンに映る個別の映画も世界ですよね?

    そうです。

    > 本来の世界、不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」世界と個別の世界は不二ではなく、本来の世界の部分ということでしょうか?

    二つではないです。分かれてはいません。
    人間は、自分の視点から観る世界を生きることしかできないし、それで何の問題もないと言えば言えると思います。
    ただ、その自分の視点からの世界の「影、裏、下」などと表現せざるをえないのですが、自分には知りえない膨大な物が関わり合い、絡み合いして、今の自分のその世界は成立している、というようなことです。
    すべては、相互依存的に成り立っている、というようなことです。
    こうしたことを、コインの裏としてみのり的には喩えました。
    表に見えているのは、まったく個別のものとして存在しているかのような、様々なものの喩えです。

    別の言い方をしてみます。 思考が立ち上がらないと、今、目の前に見えている様々な個別と通常考えられるもの達も「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」です。
    これについては、『悟りを生きる』にも書かれている内容です。
    実体としての「私」がいて何かをする、という世界観ではなく、「今、している経験の中に溶けている私」それが当たり前という世界観です。
    そう感じる時がある、ではなく、もともとそれが自然なのだけれど、「私」という思考が立ち上がることによって、「私」が○○している、となっている、ということ。
    包丁で肉を切っている時なら、肉と包丁と切る には当然分離がなく、それらのものと「私」と呼ばれるものも当然分離していなくて、「気づき」にただそれらが現れている。
    こういうことになります。
    通常の主語に当たる「私」を主体とするのでなく、あえて言うならですが、「気づき」が主体とも言えると思います。
    それが「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」の、もう一つの言い方になります。
    そしてこの後の方の説明の仕方のほうが、本来の非二元の考え方に乗っ取ったものです。

    >>でも、クオリアというのは、ちょっとした思い付きで言ってみたようなものですし、クオリアというものの概念を正しく私が理解していないとも思うので(今、私がサラダを例に書いてみたようなことは、クオリアとは違うかもしれない、自信がないということ)ので、クオリアについてはここで終了とさせてください。
    >
    > 嫌ですが(笑)無理強いはしません。が、以下の理由によって返信します。(爆)
    > パニチェの編集とみのりさんの返信が前後してしまいましたが、先の返信でも追記したようにクオリアは「鋭い指摘だと思いますし、パニチェも〈私〉というクオリアではないか?と考察、探究したことがある」からです。
    > もの凄く重要で〈私〉に関するパニチェの考察を深め、整理する意味でもカキコしてみます。

    はい。

    >>クオリアに対する見方が、パニチェさんと私とで違い、〈私〉についての見方も違うんだと思うのです。
    >>(もちろん、私が正しいんですよ、なんては思ってないです。こういうの、馬鹿っぽいけど(笑)、けっこう大切かなとも思い、一応書かせてくださいね。)
    >>私はクオリアについてほとんど知らないです。
    >>個人個人が特有に感じる質感、こうしたものをクオリアと言うのだと、思っていました。
    >>(でも、そういうことではないのかもしれないですね。)
    >
    > いえ、その通りです。
    > 厳密に言うとクオリアに関してもさまざまな議論があるので、少なくともこの対話でみのりさんとパニチェの共通の定義を上記としましょう。

    はい。

    >>個人個人が特有に感じる質感。
    >>例えば、サラダを食べていて・・・レタスのシャキシャキした食感、キュウリのパリッとした食感、茹でたチキンの旨味・・・こうした食感みたいなものは、その人その人特有の質感、感じ方であって、その人が感じた質感そのものを他者がそのまままったく同じように味わうことは不可能だし、まるっきりそのままを伝えることも不可能だと、私は思うのですね。
    >>つまり、唯一無二なのだろうと。
    >>こうしたところが〈私〉と通じるのではないか、と考えたのです。
    >
    > 上記の場合、シャキシャキした食感の対象はレタス、パリッとした食感の対象はキュウリですよね。
    > 〈私〉にはそういう対象がない。
    > で、同じような感覚器官を持つ他者と、同じような(全く同一のものはありえないので)レタスやキュウリを味わうことで「シャキシャキ」や「パリッ」の“クオリア”が共有される。

    > そしてそのクオリアを「シャキシャキ」や「パリッ」という言葉を交わす言語ゲームによってラベリングすることが(言語化することが)可能となるが〈私〉は言語化できない。

    > 実際、みのりさんとパニチェで「シャキシャキ」と「パリッ」でクオリアが共有されているし、そのクオリアを今想像することも可能です。
    > これって言語で伝わっていることになりませんか?
    > 〈私〉はこのようには伝わりません。本質的に共有できないし、言語化できない。
    > 言い換えれば共有できない、言語化できないことが〈私〉の本質でもある、と。

    パニチェさんの〈私〉とクオリアは、無関係であると考えられているというのはわかりました。

    確認なのですが、みのりは、〈私〉とクオリアが同一でそのものである、とは考えていません。
    みのり的には、その二つの「あり方」が似ているのではないか、と考えたのです。
    「あり方」とは、唯一無二性です。
    それと、みのりが考えるみのりの〈私〉においては、何かしら関係があるように思えたので書いてみたのです。
    なので、もしかしたらパニチェさんにも通じるところがあるかな、と。
    ないのであればそれで了解です。

    前にも書きましたが、そもそも、〈私〉についての感覚が、パニチェさんとみのりで違いがあるのだと思います。
    昨年、教えていただいた時は、パニチェさんの〈私〉の要点を理解はしたと思うのですが、その後、みのり的なものにみのりの中で再編した感じです。
    みのり的〈私〉には、「気づき」「真我」に当たるものは含まれていません。
    「気づき」は、存在の基盤として考えていますが、位置などについては特定が不可能です。
    おそらくですが、パニチェさん的〈私〉というのは、身体内に位置するものと考えられているのだと想像しています。(違っていたらすみません。)

    みのり的〈私〉というのは。
    刻々と世界と溶け合いながら変化していきつつ、個として掬い挙げられ考えられた時の「私」(この私は、他者から観ての私を含む)の、他者には知りえない私秘性を持つ、「私」の本質。
    このような感じです。
    こうしたことから、みのり的には、クオリアは〈私〉の一要素とも言えるのではと考えたのです。( あくまで、みのりの〈私〉においてです。唯一無二性に加えて、私秘性ということも足して。)
    つまり、みのりにとっての〈私〉は、「自分」「私」というものについて、日常の中で考え出すと立ち現われてくる「私」の本質部分のようなものです。
    何気に世界に溶け合うように生活している際には、「私」も〈私〉も意識していません。


    スクリーンと映画の喩えの「映画」は、独在論的視点とも関わってくるのだろうな、とは思い、前の投稿でも出してみたりしたのですが、モデルとしてどうですか?、独在論的視点と重なるものでしょうか?
    それともまったく違いますか?

引用返信/返信 削除キー/
■17911 / inTopicNo.39)  Re[31]: 返信
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/23(Sat) 10:18:47)
    2021/10/23(Sat) 10:19:43 編集(投稿者)

    No17907に返信(みのりさんの記事)
    > パニチェさん、レスありがとうございます。
    > クオリアのことも含めて、明日の朝に返信させていただきます。
    > 今、家族が休みで起きてきて、集中できなくなってしまったので。(^▽^;)
    > そういうことで、よろしくお願いします。

    了解しました。
    私の返信が早い時もありますがBBSはチャットやラインではないので返信は何日後でも結構ですしお気遣いなく。
    私も遅くなることも多々あるので、以後はお互い返信のタイミングは気遣いなしでいきましょう♪^^
引用返信/返信 削除キー/
■17907 / inTopicNo.40)  返信
□投稿者/ みのり -(2021/10/23(Sat) 09:36:58)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    クオリアのことも含めて、明日の朝に返信させていただきます。
    今、家族が休みで起きてきて、集中できなくなってしまったので。(^▽^;)
    そういうことで、よろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■17900 / inTopicNo.41)  Re[24]: クオリアと〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/23(Sat) 07:29:57)
    2021/10/23(Sat) 07:50:00 編集(投稿者)

    おはようございます、みのりさん。レスありがとうございます。
    パニチェにとってこれほど充実した〈私〉についてのレス交換できる対話者はゴウさん以来で感謝です。

    No17896に返信(みのりさんの記事)
    >>その場合、無数にある映画同士は不二ではないわけですよね。
    > そうです。 
    > その人その人の視点から観る世界、言わば、その人その人が主人公である映画と言ってもいいです。

    なるほど。

    >>すみません、ここちょっと分かりません。〈私〉のストーリーとは映画のことでしょうか?
    > 今、上に書いた
    > >>その人その人の視点から観る世界、言わば、その人その人が主人公である映画と言ってもいいです。<<
    > それと、補足になりますが、みのり的には、〈私〉のストーリーのところを「私」のストーリーとしても問題はないです。
    > むしろそのほうがすっきりと自分の中ではする感じがあります。
    >>一番興味があるのは底が抜けた後も独在論的な色が残るかどうかです。<
    > というパニチェさんの文章に答える形でのレスだったので(もともと)、〈私〉を使ってみたのでした。

    ありがとうございます、分かりました。

    >>もしそうだとすると「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」のはどこですか?
    > その人その人の視点から観る世界、言わば、その人その人が主人公である映画。
    > (私たちが生きている世界を映画として喩えているわけですが。)

    これニーチェの無垢なる子供にも相通じますね。

    「子供は無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動、一つの聖なる肯定である。(ツァラトゥストラ 三つの変化について)」
    「世界を『人間化する』こと、すなわち世界のうちで自分自身をますます主人と感じること──(力への意志 第614番)」

    自ら価値を創出した世界には自己と何ら対立するものなどなく忘我のうちに遊戯に高じる子供如くであり、世界の中心であり主人公にして世界の創造者でもありうる、みたいな。。。

    > しかし、この、その人にとっての映画(ストーリー)が成立するためには、本質的なところまで考えれば、その映画内だけには収まり切れない膨大な映画が下(裏でもいいです。)にはあると考えるのです。
    > なぜなら本来、世界は、「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」からです。
    > 個別に存在していると考えている個々の人間は、「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」世界から、自分にとっての世界を切り取る、掬い取るようにして生きているのだと考えています。
    > もちろん、こうしたことはなんら批判すべきことでもなんでもなく、そのようにしなければ、社会生活を送ることは不可能です。
    > 質問の、
    >>もしそうだとすると「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」のはどこですか?<
    > の答えは以下になります。
    > 喩えとして、「下」「裏」などを使っていますが、それは、具体的に「ここ」だと指定することはできないからです。
    > 大乗仏教の言葉で、「一即多・多即一」というのがありますよね、これなどは、「不分離の世界観」を表すものなのではないか、と考えています。

    スクリーンに映る個別の映画も世界ですよね?
    本来の世界、不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」世界と個別の世界は不二ではなく、本来の世界の部分ということでしょうか?

    > ピンと来ないですか〜。^^
    > 観方、感覚は人それぞれだと思うので。
    > もし、ピンと来なくてもそれはそれでとは思うのですが・・・。

    これね、結論から言えばパニチェの底が抜けてないからです。^^
    それを分かった上で駄々っ子のように質問してます、嫌じゃなければ母親のように答えてやって下さい(笑)


    > でも、クオリアというのは、ちょっとした思い付きで言ってみたようなものですし、クオリアというものの概念を正しく私が理解していないとも思うので(今、私がサラダを例に書いてみたようなことは、クオリアとは違うかもしれない、自信がないということ)ので、クオリアについてはここで終了とさせてください。

    嫌ですが(笑)無理強いはしません。が、以下の理由によって返信します。(爆)
    パニチェの編集とみのりさんの返信が前後してしまいましたが、先の返信でも追記したようにクオリアは「鋭い指摘だと思いますし、パニチェも〈私〉というクオリアではないか?と考察、探究したことがある」からです。
    もの凄く重要で〈私〉に関するパニチェの考察を深め、整理する意味でもカキコしてみます。

    > クオリアに対する見方が、パニチェさんと私とで違い、〈私〉についての見方も違うんだと思うのです。
    > (もちろん、私が正しいんですよ、なんては思ってないです。こういうの、馬鹿っぽいけど(笑)、けっこう大切かなとも思い、一応書かせてくださいね。)
    > 私はクオリアについてほとんど知らないです。
    > 個人個人が特有に感じる質感、こうしたものをクオリアと言うのだと、思っていました。
    > (でも、そういうことではないのかもしれないですね。)

    いえ、その通りです。
    厳密に言うとクオリアに関してもさまざまな議論があるので、少なくともこの対話でみのりさんとパニチェの共通の定義を上記としましょう。

    > 個人個人が特有に感じる質感。
    > 例えば、サラダを食べていて・・・レタスのシャキシャキした食感、キュウリのパリッとした食感、茹でたチキンの旨味・・・こうした食感みたいなものは、その人その人特有の質感、感じ方であって、その人が感じた質感そのものを他者がそのまままったく同じように味わうことは不可能だし、まるっきりそのままを伝えることも不可能だと、私は思うのですね。
    > つまり、唯一無二なのだろうと。
    > こうしたところが〈私〉と通じるのではないか、と考えたのです。

    上記の場合、シャキシャキした食感の対象はレタス、パリッとした食感の対象はキュウリですよね。
    〈私〉にはそういう対象がない。
    で、同じような感覚器官を持つ他者と、同じような(全く同一のものはありえないので)レタスやキュウリを味わうことで「シャキシャキ」や「パリッ」の“クオリア”が共有される。
    そしてそのクオリアを「シャキシャキ」や「パリッ」という言葉を交わす言語ゲームによってラベリングすることが(言語化することが)可能となるが〈私〉は言語化できない。

    実際、みのりさんとパニチェで「シャキシャキ」と「パリッ」でクオリアが共有されているし、そのクオリアを今想像することも可能です。
    これって言語で伝わっていることになりませんか?
    〈私〉はこのようには伝わりません。本質的に共有できないし、言語化できない。
    言い換えれば共有できない、言語化できないことが〈私〉の本質でもある、と。

    もちろん、上記の返信はスルーでも結構です。^^

引用返信/返信 削除キー/
■17897 / inTopicNo.42)  クオリア
□投稿者/ みのり -(2021/10/23(Sat) 06:25:10)
引用返信/返信 削除キー/
■17896 / inTopicNo.43)  Re[24]: クオリアと〈私〉
□投稿者/ みのり -(2021/10/23(Sat) 06:17:49)
    2021/10/23(Sat) 06:20:57 編集(投稿者)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>一つのスクリーンに無数かつ唯一無二の映画が上映され続ける、ということなので、独在論的〈私〉の世界というのは、保たれるのではないでしょうか。
    >>そしてこのことは、すべては不分離であるというのとも矛盾しないと私の中では考えています。
    >
    > その場合、無数にある映画同士は不二ではないわけですよね。

    そうです。 
    その人その人の視点から観る世界、言わば、その人その人が主人公である映画と言ってもいいです。

    >>〈私〉のストーリーとなっているけれど、その下(わかりやすくするために下と喩えます)には不分離の世界が途切れなのない連続性としてある、と思うのです。
    >
    > すみません、ここちょっと分かりません。〈私〉のストーリーとは映画のことでしょうか?

    今、上に書いた
    >>その人その人の視点から観る世界、言わば、その人その人が主人公である映画と言ってもいいです。<<

    それと、補足になりますが、みのり的には、〈私〉のストーリーのところを「私」のストーリーとしても問題はないです。
    むしろそのほうがすっきりと自分の中ではする感じがあります。

    > 一番興味があるのは底が抜けた後も独在論的な色が残るかどうかです。<
    というパニチェさんの文章に答える形でのレスだったので(もともと)、〈私〉を使ってみたのでした。


    > もしそうだとすると「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」のはどこですか?

    その人その人の視点から観る世界、言わば、その人その人が主人公である映画。
    (私たちが生きている世界を映画として喩えているわけですが。)

    しかし、この、その人にとっての映画(ストーリー)が成立するためには、本質的なところまで考えれば、その映画内だけには収まり切れない膨大な映画が下(裏でもいいです。)にはあると考えるのです。
    なぜなら本来、世界は、「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」からです。
    個別に存在していると考えている個々の人間は、「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」世界から、自分にとっての世界を切り取る、掬い取るようにして生きているのだと考えています。
    もちろん、こうしたことはなんら批判すべきことでもなんでもなく、そのようにしなければ、社会生活を送ることは不可能です。

    質問の、
    > もしそうだとすると「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」のはどこですか?<
    の答えは以下になります。

    喩えとして、「下」「裏」などを使っていますが、それは、具体的に「ここ」だと指定することはできないからです。
    大乗仏教の言葉で、「一即多・多即一」というのがありますよね、これなどは、「不分離の世界観」を表すものなのではないか、と考えています。


    > >>でも、それを体験というか実現しているのは個としての主体ですよね?その辺はどう折り合いがついていますか?
    >
    >>全体性と個別性は、どちら側から観るかの違いがあるだけで、一枚のコインの裏表のようなものと思うのです。
    >>なので、私の中では矛盾はないです。
    >
    > 全体性と個別性は表裏というのが私的にはピンと来ないんですねぇ〜。
    > その理由はクオリアのところでも述べてみます。

    ピンと来ないですか〜。^^
    観方、感覚は人それぞれだと思うので。
    もし、ピンと来なくてもそれはそれでとは思うのですが・・・。

    >>別の投稿で少し書いたのですが、クオリアはどうでしょう?
    >>〈私〉とも関わるもののように感じるのですが。
    >
    > パニチェが思うところのクオリアと〈私〉が根本的に異なる点は次の二点です。
    >
    > まず一点目は、クオリアは経験に基づいたものであるのに対して〈私〉は経験には基づかない。
    > 質感にせよ、鮮やかな色彩にせよ、かつての経験があって成立する。例えば新雪や綿のフワフワはその感触を経験していないと生じません。
    > ところが〈私〉は経験の元となるような記憶も経験もありません。
    >
    > 二点目は、他者とも共有可能であるために言語化可能であること。逆の言い方をすれば言語によってその質感や色彩やその他の感覚を教わる後に生じます。
    > そういう意味では痛みに近い。母親から「痛いよね」と言われて、この泣いている不快な感覚が「痛み」であると子供が知ることに似ています。
    > これに対して〈私〉は他者と共有可能どころか、他者と異なる、あるいは隔絶しているところがその本質であるということです。

    クオリアに対する見方が、パニチェさんと私とで違い、〈私〉についての見方も違うんだと思うのです。
    (もちろん、私が正しいんですよ、なんては思ってないです。こういうの、馬鹿っぽいけど(笑)、けっこう大切かなとも思い、一応書かせてくださいね。)

    私はクオリアについてほとんど知らないです。
    個人個人が特有に感じる質感、こうしたものをクオリアと言うのだと、思っていました。
    (でも、そういうことではないのかもしれないですね。)

    個人個人が特有に感じる質感。
    例えば、サラダを食べていて・・・レタスのシャキシャキした食感、キュウリのパリッとした食感、茹でたチキンの旨味・・・こうした食感みたいなものは、その人その人特有の質感、感じ方であって、その人が感じた質感そのものを他者がそのまままったく同じように味わうことは不可能だし、まるっきりそのままを伝えることも不可能だと、私は思うのですね。
    つまり、唯一無二なのだろうと。
    こうしたところが〈私〉と通じるのではないか、と考えたのです。

    でも、クオリアというのは、ちょっとした思い付きで言ってみたようなものですし、クオリアというものの概念を正しく私が理解していないとも思うので(今、私がサラダを例に書いてみたようなことは、クオリアとは違うかもしれない、自信がないということ)ので、クオリアについてはここで終了とさせてください。



引用返信/返信 削除キー/
■17868 / inTopicNo.44)  クオリアと〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/22(Fri) 20:49:00)
    2021/10/23(Sat) 06:12:35 編集(投稿者)

    こんばんは、みのりさん。レスありがとうございます。

    No17862に返信(みのりさんの記事)
    > 幼稚園ぐらいからというのがすごいです。^^
    > 永井均さんも、5歳ぐらいから〈私〉を知っていた、って言ってましたよね。

    すごくはないですが(笑)、永井さんもそうみたいですね。

    > そうなんですか。偶然なのか必然なのか、どっちなんでしょうね。

    類は友を呼ぶかな(笑)

    > そういうのがあるんですね。 知りませんでした。
    > 解離性同一性障害であっても、全人格を知る主人格があるんですね。

    人間の精神とか自己って不思議で面白いですね。
    最も身近で最も知ってるはずなのに未知な領域が広がってる。

    > 一つのスクリーンに無数かつ唯一無二の映画が上映され続ける、ということなので、独在論的〈私〉の世界というのは、保たれるのではないでしょうか。
    > そしてこのことは、すべては不分離であるというのとも矛盾しないと私の中では考えています。

    その場合、無数にある映画同士は不二ではないわけですよね。

    > 〈私〉のストーリーとなっているけれど、その下(わかりやすくするために下と喩えます)には不分離の世界が途切れなのない連続性としてある、と思うのです。

    すみません、ここちょっと分かりません。〈私〉のストーリーとは映画のことでしょうか?
    もしそうだとすると「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」のはどこですか?

    > 覚者になっても、もともとの人格の影響は残ると私も思います。
    > ラマナマハルシは清らかで素晴らしい人なのですが、もともとそういう感じの人だったんじゃないかな、と思うんです。
    > 一変した、とかではなく。

    同意です。

    >>でも、それを体験というか実現しているのは個としての主体ですよね?その辺はどう折り合いがついていますか?

    > 全体性と個別性は、どちら側から観るかの違いがあるだけで、一枚のコインの裏表のようなものと思うのです。
    > なので、私の中では矛盾はないです。

    全体性と個別性は表裏というのが私的にはピンと来ないんですねぇ〜。
    その理由はクオリアのところでも述べてみます。

    > 例えば、ニーチェの哲学は私にとってはですが、世俗諦としての教えとして勉強になり、非二元は勝義諦としてのもの、という感じになっています。

    世俗諦が言語可能な形式知であり、勝義諦が言語不可能な暗黙知という意味で、ニーチェと非二元を対比することは同意します。

    >>おそらく何かに集中している時とか、または何かに同化しているかのような時は思いっきり不分離で溶けているとは思うのです。
    >>ところが先にも述べましたがそれはあくまでも個としての主体の直接経験であって、隣の人や万人も同時に同じ直接経験をしているわけではないので、無色透明ではあるが独在論的な色?匂い?は残していると考えています。
    > パニチェさんのおっしゃる〈私〉の場合において、そのように考えられているということですね。

    そうです。

    > 別の投稿で少し書いたのですが、クオリアはどうでしょう?
    > 〈私〉とも関わるもののように感じるのですが。

    鋭い指摘だと思いますし、パニチェも〈私〉というクオリアではないか?と考察、探究したことがあります。

    その結果、現時点ではクオリアは〈私〉と隣接しますが、〈私〉というクオリアではないという結論に至ってます。
    〈私〉がクオリアと根本的に異なる点は次の二点です。

    まず一点目は、クオリアは経験に基づいたものであるのに対して〈私〉は経験には基づかない。
    質感にせよ、鮮やかな色彩にせよ、かつての経験があって成立する。例えば新雪や綿のフワフワはその感触を経験していないと生じません。
    ところが〈私〉は経験の元となるような対象がありません。

    二点目は、クオリアは他者とも共有可能であるために言語化可能であること。逆の言い方をすれば言語によってその質感や色彩やその他の感覚を教わることも可能だということ。

    そういう意味では痛みに近い。母親から「痛いよね」と言われて、この泣いている不快な感覚が「痛み」であると子供が知ることに似ています。

    これに対して〈私〉は他者と共有可能どころか、他者と異なる、あるいは隔絶しているところがその本質であるということです。

    異論反論、質問歓迎します。

引用返信/返信 削除キー/
■17865 / inTopicNo.45)  Re[28]: 現存在
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/22(Fri) 19:18:58)
    No17845
    お邪魔のお邪魔に返信で〜す。

    >先のニーチェの「現存在」はハイデッガーの現存在とは全く違うものだと思います。<
    そうよね〜、パニさんありがとございます。

    ハイデガーは【人間というこの存在者をわれわれは述語的に現存在と表現する】って言ってるから、ハイデガーの「現存在」は「人間」のこと、ってわたし見てる。ハイデガーの「現存在」の意味で「現存在のクルミはうつろであることだろう。」を見ると「人間のクルミはうつろであることだろう」ってなって、何言ってるのかさっぱりになっちゃう。

    じゃあ、カントの「現存在」は?
    『悟性は、まさに現象を〔それとして〕認めることによって、物それ自体の現存在をも容認する』は、ハイデガーの意味から見ると、
    「悟性は、まさに現象を〔それとして〕認めることによって、物それ自体の人間をも容認する」
    ってなるんだけど、
    もうカントのもあまり立ち入らないことにしよっと。

    やっぱ、語の意味はその哲学者の意味で見ていかないと、わけわかんなくなっちゃうしね〜


引用返信/返信 削除キー/
■17862 / inTopicNo.46)  Re[22]: 観ているやつ
□投稿者/ みのり -(2021/10/22(Fri) 10:53:26)
    2021/10/22(Fri) 11:10:05 編集(投稿者)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    No17844に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/10/21(Thu) 22:11:26 編集(投稿者)

    > 「観ているやつ」ですか。。。しっくりきますね、その表現。^^

    実体験から出でいるので、同じような体験というか経験をしている方には通じやすいようで、出してみてよかったです。

    > 私は逆ですね。「観ているやつ」に助けられていました。
    > いつも「観ているやつ」がいることで冷静な自分を保てたということです。
    > 私の場合は幼稚園ぐらいからです(笑)

    幼稚園ぐらいからというのがすごいです。^^
    永井均さんも、5歳ぐらいから〈私〉を知っていた、って言ってましたよね。

    > 私もリアルでこの話が通じた人はいませんね。
    > Yahoo!掲示板からニークラ、ネットで知り合った人はおそらく数百人に及びますが「観てるヤツ」や〈私〉に関してレス交換できた人は4人だけです。
    > そのうちの3人がニークラメンバーですから驚きです。

    そうなんですか。偶然なのか必然なのか、どっちなんでしょうね。

    > なるほど、そうなんですね。
    > 「観照意識」や「観察者」はよ〜く分かります。

    そうなんですね。 よかったです。^^

    > アートポットさんの返信で触れた解離性同一障害(多重人格障害)治療のために役立つ主人格、内的自己救済者(Inner Self Helper)とも多少、あるいは一部のかぶるところがあるかもしれません。解離性同一障害で現れる人格はある人格が別の人格を知っていたり、知らなかったりしますが、内的自己救済者は全人格を知る観察者でもあります。

    そういうのがあるんですね。 知りませんでした。
    解離性同一性障害であっても、全人格を知る主人格があるんですね。


    > 私のイメージ通りですね。もちろん未だ底は抜けてませんが。
    > 一番興味があるのは底が抜けた後も独在論的な色が残るかどうかです。

    一つのスクリーンに無数かつ唯一無二の映画が上映され続ける、ということなので、独在論的〈私〉の世界というのは、保たれるのではないでしょうか。
    そしてこのことは、すべては不分離であるというのとも矛盾しないと私の中では考えています。
    〈私〉のストーリーとなっているけれど、その下(わかりやすくするために下と喩えます)には不分離の世界が途切れなのない連続性としてある、と思うのです。


    > 「観照の崩壊」はあったんですね、それは凄い!

    自分でそのように感じただけなので、確証はないですけど。

    > ちなみに底が抜けた人、つまり覚者が必ずしも人格者とは限らないと思いますよ。
    > 四苦(生苦・老苦・病苦・死苦)からは解放されるし、感情が流れる水のようにサラサラと後を引かないってのはあるようですが性格とか人格は別でしょうね。
    > だから覚者イコール聖者みたいなイメージではない、と、私は考えています。

    私の場合のは、探求でなんとなくわかった程度ですので除外してくださいね。(笑)
    という前置きをとりあえずしたところで・・。

    覚者になっても、もともとの人格の影響は残ると私も思います。
    ラマナマハルシは清らかで素晴らしい人なのですが、もともとそういう感じの人だったんじゃないかな、と思うんです。
    一変した、とかではなく。

    > なるほど。やっぱ個としての分離したものは何も存在しないのですね。

    そう思っています。

    > でも、それを体験というか実現しているのは個としての主体ですよね?その辺はどう折り合いがついていますか?

    全体性と個別性は、どちら側から観るかの違いがあるだけで、一枚のコインの裏表のようなものと思うのです。
    なので、私の中では矛盾はないです。

    例えば、ニーチェの哲学は私にとってはですが、世俗諦としての教えとして勉強になり、非二元は勝義諦としてのもの、という感じになっています。


    > >>■No17799に返信(みのりさんの記事)

    > おそらく何かに集中している時とか、または何かに同化しているかのような時は思いっきり不分離で溶けているとは思うのです。
    > ところが先にも述べましたがそれはあくまでも個としての主体の直接経験であって、隣の人や万人も同時に同じ直接経験をしているわけではないので、無色透明ではあるが独在論的な色?匂い?は残していると考えています。

    パニチェさんのおっしゃる〈私〉の場合において、そのように考えられているということですね。

    別の投稿で少し書いたのですが、クオリアはどうでしょう?
    〈私〉とも関わるもののように感じるのですが。

    > 幼稚園から小学校の低学年までですね、泣いていたのは。
    > それから、歳をとったつい最近まではほとんど泣いてません(笑)。

    そうなんですね。 ありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■17848 / inTopicNo.47)  返信
□投稿者/ みのり -(2021/10/21(Thu) 21:36:48)
    パニチェさん、レスありがとうございます。
    とても興味深いお話です。
    明日、こちらからも返信させていただきますね。
引用返信/返信 削除キー/
■17847 / inTopicNo.48)  pipitさんへ
□投稿者/ みのり -(2021/10/21(Thu) 21:29:45)
    pipitさん、レスありがとうございます。

    No17839に返信(pipitさんの記事)

    >>意識というものを私(みのり)は、身体や脳に閉じ込められたものとは考えていないんですね。
    >>分離した個別のそれぞれの人間たちが存在しているように見えてはいるけれど、それは実は錯覚で(そのように人間には見えているだけ)、そういう意味からも、意識は一つだけしかないと考えています。<
    >
    > お返事ありがとうございます。
    >
    > お聞きしたいのですが、
    > みのりさんが目の前のリモコンを見る意識と、
    > 大元の意識を知る意識は、
    > 同じ意識ということでしょうか?

    そうです。同じと思います。

    > 同じ意識が、さまざまなものを対象として、知る。
    > と考えられているということでしょうか?

    一つの意識(スクリーン)だけれども、そこに上映される映画は、人間の数だけ無数に存在する、ということです。
    環境、物の観方などそれぞれに違いますから、当然に、唯一無二の映画ストーリーが展開されます。


    > 同じ意識が、リモコンを知るように、(リモコンは無いとしても)
    > 同じ意識が、己自身を知る、感じということでしょうか?

    ここ、ちょっと書かれていることがわからないです。 すみません。


引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -