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■18062 / inTopicNo.25)  ホテルカリフォルニア
  
□投稿者/ みのり -(2021/10/29(Fri) 08:18:55)
    パソコンYouTubeで、イーグルスのホテルカリフォルニアを聴いていたところに、
    息子がたまたまやって来たので、「これ、どう思う、いいと思う?」と訊いたら、
    「昭和だな」と言いやがった。(笑)

    昭和ってなんじゃ。 アメリカの曲だよ。(笑)
引用返信/返信 削除キー/
■18060 / inTopicNo.26)  Re[36]: 千一の目標
□投稿者/ みのり -(2021/10/29(Fri) 08:03:23)
    あ〜、ここで繋がってきてたんですね。
    ありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■18059 / inTopicNo.27)  Re[27]: クオリアと〈私〉
□投稿者/ みのり -(2021/10/29(Fri) 07:59:18)
    2021/10/29(Fri) 12:37:46 編集(投稿者)

    パニチェさん、レスありがとうございます。
    それと、二度手間をおかけしてすみませんでした。

    No18033に返信(パニチェさんの記事)

    >>自らが世界を創造していけるのだ、という視点というか理想的な考え方に立てればその通りだと思います。
    >>困難、苦悩さえも成長の糧と前向きに考えられるような。
    >>しかし、実際には、個人だけではなかなかどうすることもできない環境にいたり、問題を抱える人々がとても多く、苦悩が多いままで右往左往せざるを得ない人々が多いと思います。
    >
    > え〜っと多分ニーチェが言ってることはもっとシンプルだと思います。
    > ニーチェは「人生は認識者にとって一個の実験でありうる(悦ばしき知識 第324番)」としていることから、そのことに気付いている、気付いていないはともかく、認識それ自体が価値を創出し続けているってことだと思います。認識する全てに価値を付与、あるいは創出しているのは生のど真ん中に存在する自己であり、これを突き詰めれば世界は自己によって創造されており、対立物など存在しないという主張ですね。

    誰であっても、自らの価値を自ら創造して生きている、つまり、その人の世界はその人自身が創造したものである、ということでいいのかな。
    こうしたことについて私は、コインの表としてはその通りと思うんですね。
    ただ、裏もあるよと、ほんとのところ、私は、ニーチェより親鸞型なんです。
    コインの裏側視点から言うと、自由意志もないと普通に考えています。
    表(個が存在する考え方)では、当然、自由意志が当たり前ですし、私の中ではですが、どちらも両立して考えています。

    > なるほど。ニーチェのニヒリズムとみのりさんの虚無は肯定的に捉えているところが共通してますね。
    > ニヒリズムは無限の創造性に転ずるし、虚無も肯定的に捉えれば悲しむ主体(自己)が滅している楽観性になりうると思います。

    偶然にもそうですね。^^

    >>別の言い方をしてみます。 思考が立ち上がらないと、今、目の前に見えている様々な個別と通常考えられるもの達も「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」です。
    >>これについては、『悟りを生きる』にも書かれている内容です。
    >>実体としての「私」がいて何かをする、という世界観ではなく、「今、している経験の中に溶けている私」それが当たり前という世界観です。
    >>そう感じる時がある、ではなく、もともとそれが自然なのだけれど、「私」という思考が立ち上がることによって、「私」が○○している、となっている、ということ。
    >>包丁で肉を切っている時なら、肉と包丁と切る には当然分離がなく、それらのものと「私」と呼ばれるものも当然分離していなくて、「気づき」にただそれらが現れている。
    >>こういうことになります。
    >>通常の主語に当たる「私」を主体とするのでなく、あえて言うならですが、「気づき」が主体とも言えると思います。
    >>それが「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」の、もう一つの言い方になります。
    >>そしてこの後の方の説明の仕方のほうが、本来の非二元の考え方に乗っ取ったものです。
    >
    > ここら辺は理屈では理解できますし、おそらく見性というか三昧というのはそういう状態だろうとは思います(想像します)。

    私もそうなのですが、パニチェさんもおそらく、何かに没頭しているとか何気に生活していて「私」を特に意識してなくているような時でも観照状態でいることが当たり前なのだと思うのですね。
    これはつまり、リラックスしながらもいつも気づいてるということです。
    私が思うに、普通に暮らしていく分には、悟りや見性を認定してもらうより、こうしたことのほうが役立つと思います。

    > 現時点でのパニチェの場合のリアルは三昧にあっても〈私〉は独在的な存在であり、世界には溶け込んでいません。

    そうなんですね。 そうなんですね、とは言ってみたものの、実はそれがどういうことかはまったくわかりません。(^▽^;)

    ・・・・・

    (クオリアについてこの間の部分については拝読して了解ということで略させていただきます。)

    > パニチェは真我や気づきを直接経験していないので、〈私〉とどう違うかは分かりません。

    パニチェさんの〈私〉については私はよくわからないですが、パニチェさんご自身は真我や気づきから離れたことはないというふうに、みのり的には考えますよ。
    (あくまで、みのり的にはそう思うということです。)

    上で触れた観照状態、それにいつもあるということは、自分のところで真我、気づきと離れていない、ということです。
    実は誰でもが離れていないんですが、厚く溜まったごちゃごちゃした思考によってその姿がすっかり隠されてしまい、働くことが難しくなってるんです。
    自分の身体の中にそういうものがある、と考えている間は正確な気づき、真我とは違うといえば違うのですが、非二元の探求をする人たちはそこを足掛かりにしていきます。
    ですので、万が一にも(^▽^;)、パニチェさんがその探求を本気でしようと思われたら、多分しばらくして本当の意味での真我、気づきも理解されると思いますよ。

    これについては、興味なければまったくのスルーでお願いします。

    >>「気づき」は、存在の基盤として考えていますが、位置などについてはお特定が不可能です。
    >>おそらくですが、パニチェさん的〈私〉というのは、身体内に位置するものと考えられているのだと想像しています。(違っていたらすみません。)
    >
    > 身体内かどうかはペンディングです。

    はい、わかりました。

    > 確実に言えることは世界内ではありませんね。

    世界内ではない、ということと(パニチェさんのおっしゃる)、例えばですが、「どこにあるここにあるとその存在の位置を言語化して示すことは不可能」というのは、まったく違いそうですか?
    ちなみに、「  」内は、気づきについてなのですが・・。

    > パニチェが理解したみのりさんの〈私〉は阿頼耶識みたいなものに思えました。
    > 九識説の阿摩羅識が「気づき」や「真我」であるのに対し個としての種子を蓄える阿頼耶識です。

    考えていただいてありがとうございます。仏教でも似たような部分のある観方があるのかもしれないですね。
    ただ、唯識とかあまり興味が持てていません。

    > ところが阿頼耶識も阿摩羅識も言語によって頽落(変質)するのでパニチェ的には〈私〉ではありえないのですが。。。
    > この辺の関係性は、同じような感覚を共有できるクリアと、それが絶対に不可能な〈私〉の関係性に似ています。

    そうなんですか。 ちょっとなんだかわからないですけど(^▽^;)
    ここ、スルーさせてください。

    >>スクリーンと映画の喩えの「映画」は、独在論的視点とも関わってくるのだろうな、とは思い、前の投稿でも出してみたりしたのですが、モデルとしてどうですか?、独在論的視点と重なるものでしょうか?
    >>それともまったく違いますか?
    >
    > 独在論的にはスクリーンに映る映画はたった一つであり、それが全てということになります。
    > その背後(バックグラウンド)や想像上のことは思考の俎上に載せません。

    私の眼の位置から開闢する世界は、私が創造したものである、ということなのかな。
    偶然なのかわかりませんが、さっきのニーチェの話とも似てるように思えますし。

    非二元(=アドヴァイタ)では、一つのスクリーン(一つの気づき、意識)に対して無数の人間の数だけの映画が上映されてるイメージですが、独在論的には、映画は自分の分ただ一つだけで、書かれているようにそれ以外のことについては考えに入れないということですね。

    独在論的には、他者というのはどうなりますか?
    存在しない、となるのですか?
引用返信/返信 削除キー/
■18034 / inTopicNo.28)  千一の目標
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/27(Wed) 21:57:08)
    「ツァラトゥストラの説話 三つの変化」より

    竜とは実在の動物ではなく、人間の想像によって作られた伝説の動物である。
    この有鱗動物は、一枚一枚に「汝なすべし」とラベリングされた千年におよぶ諸価値が金色のうろことなってわが身を輝かせている。

    かつて人間によって創造された諸事物のあらゆる価値の象徴であり、獅子にとっての最後の敵対者となる主神である。
    獅子の精神は自らが主となることを欲するが故に、かつての主や神と呼ぶところの最後にして最高の価値と闘争する。

    特定の他者によって創造され、数千年にも及んで人間を拘束してきた諸価値は想像上の動物であるからこそ個人によって内的世界で破壊されるのである。

    この千枚の「汝なすべし」という目標たるうろこを超人という一つの目標とすることが千一の目標であると思います。
引用返信/返信 削除キー/
■18033 / inTopicNo.29)  Re[26]: クオリアと〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/27(Wed) 21:52:56)
    みのりさん、こんばんは。レスありがとうございます。

    No17935に返信(みのりさんの記事)
    > ゴウさんというのは、行者さんで仏教にとても詳しい方のようですから、私とは雲泥の差です。

    雲泥の差なんてことはないのですがゴウさんには感謝でいっぱいです。

    > でも、私としても、これまでなかなか対話が誰ともできなかった内容について、パニチェさんとやりとりできたのは、貴重です。

    そう言ってもらえると有難いです。
    〈私〉に関しての返信も妥協や忖度なしで返信させてもらいます。^^

    > 自らが世界を創造していけるのだ、という視点というか理想的な考え方に立てればその通りだと思います。
    > 困難、苦悩さえも成長の糧と前向きに考えられるような。
    > しかし、実際には、個人だけではなかなかどうすることもできない環境にいたり、問題を抱える人々がとても多く、苦悩が多いままで右往左往せざるを得ない人々が多いと思います。

    え〜っと多分ニーチェが言ってることはもっとシンプルだと思います。
    ニーチェは「人生は認識者にとって一個の実験でありうる(悦ばしき知識 第324番)」としていることから、そのことに気付いている、気付いていないはともかく、認識それ自体が価値を創出し続けているってことだと思います。認識する全てに価値を付与、あるいは創出しているのは生のど真ん中に存在する自己であり、これを突き詰めれば世界は自己によって創造されており、対立物など存在しないという主張ですね。

    > 非二元の視点では、不分離ゆえに個人は存在しない、すべては気づきなのだ( 気づきだけが実体であり、すべてのものは気づきに現れたイメージである )、と究極においては考えます。
    > ちなみに、私は、不分離ゆえに個人は存在しない、については実感としていますが、すべてのものは気づきに現れたイメージである、つまり、生死もイメージであるを含むと思うのですが、ここまでは実感できていないので、完全に底が抜ける状態を理解しているのではないと考えています。
    > 非二元って人によっては、虚無を感じるみたいなんですが、みのり的には究極の楽観性なんですね。
    > なので、ニーチェの厳しさと非二元の楽観性が合わさると、自分の中ではとても具合がいいのです。

    なるほど。ニーチェのニヒリズムとみのりさんの虚無は肯定的に捉えているところが共通してますね。
    ニヒリズムは無限の創造性に転ずるし、虚無も肯定的に捉えれば悲しむ主体(自己)が滅している楽観性になりうると思います。

    > 二つではないです。分かれてはいません。
    > 人間は、自分の視点から観る世界を生きることしかできないし、それで何の問題もないと言えば言えると思います。
    > ただ、その自分の視点からの世界の「影、裏、下」などと表現せざるをえないのですが、自分には知りえない膨大な物が関わり合い、絡み合いして、今の自分のその世界は成立している、というようなことです。
    > すべては、相互依存的に成り立っている、というようなことです。
    > こうしたことを、コインの裏としてみのり的には喩えました。
    > 表に見えているのは、まったく個別のものとして存在しているかのような、様々なものの喩えです。

    > 別の言い方をしてみます。 思考が立ち上がらないと、今、目の前に見えている様々な個別と通常考えられるもの達も「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」です。
    > これについては、『悟りを生きる』にも書かれている内容です。
    > 実体としての「私」がいて何かをする、という世界観ではなく、「今、している経験の中に溶けている私」それが当たり前という世界観です。
    > そう感じる時がある、ではなく、もともとそれが自然なのだけれど、「私」という思考が立ち上がることによって、「私」が○○している、となっている、ということ。
    > 包丁で肉を切っている時なら、肉と包丁と切る には当然分離がなく、それらのものと「私」と呼ばれるものも当然分離していなくて、「気づき」にただそれらが現れている。
    > こういうことになります。
    > 通常の主語に当たる「私」を主体とするのでなく、あえて言うならですが、「気づき」が主体とも言えると思います。
    > それが「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」の、もう一つの言い方になります。
    > そしてこの後の方の説明の仕方のほうが、本来の非二元の考え方に乗っ取ったものです。

    ここら辺は理屈では理解できますし、おそらく見性というか三昧というのはそういう状態だろうとは思います(想像します)。
    現時点でのパニチェの場合のリアルは三昧にあっても〈私〉は独在的な存在であり、世界には溶け込んでいません。

    > パニチェさんの〈私〉とクオリアは、無関係であると考えられているというのはわかりました。
    > 確認なのですが、みのりは、〈私〉とクオリアが同一でそのものである、とは考えていません。

    了解しました。

    > みのり的には、その二つの「あり方」が似ているのではないか、と考えたのです。

    〈私〉とクオリアは隣接しています。

    > 「あり方」とは、唯一無二性です。

    存在様相としての唯一無二性なら同意です。

    > それと、みのりが考えるみのりの〈私〉においては、何かしら関係があるように思えたので書いてみたのです。
    > なので、もしかしたらパニチェさんにも通じるところがあるかな、と。
    > ないのであればそれで了解です。
    > 前にも書きましたが、そもそも、〈私〉についての感覚が、パニチェさんとみのりで違いがあるのだと思います。
    > 昨年、教えていただいた時は、パニチェさんの〈私〉の要点を理解はしたと思うのですが、その後、みのり的なものにみのりの中で再編した感じです。
    > みのり的〈私〉には、「気づき」「真我」に当たるものは含まれていません。

    パニチェは真我や気づきを直接経験していないので、〈私〉とどう違うかは分かりません。

    > 「気づき」は、存在の基盤として考えていますが、位置などについてはお特定が不可能です。
    > おそらくですが、パニチェさん的〈私〉というのは、身体内に位置するものと考えられているのだと想像しています。(違っていたらすみません。)

    身体内かどうかはペンディングです。
    確実に言えることは世界内ではありませんね。

    > みのり的〈私〉というのは。
    > 刻々と世界と溶け合いながら変化していきつつ、個として掬い挙げられ考えられた時の「私」(この私は、他者から観ての私を含む)の、他者には知りえない私秘性を持つ、「私」の本質。
    > このような感じです。
    > こうしたことから、みのり的には、クオリアは〈私〉の一要素とも言えるのではと考えたのです。( あくまで、みのりの〈私〉においてです。唯一無二性に加えて、私秘性ということも足して。)
    > つまり、みのりにとっての〈私〉は、「自分」「私」というものについて、日常の中で考え出すと立ち現われてくる「私」の本質部分のようなものです。
    > 何気に世界に溶け合うように生活している際には、「私」も〈私〉も意識していません。

    パニチェが理解したみのりさんの〈私〉は阿頼耶識みたいなものに思えました。
    九識説の阿摩羅識が「気づき」や「真我」であるのに対し個としての種子を蓄える阿頼耶識です。
    ところが阿頼耶識も阿摩羅識も言語によって頽落(変質)するのでパニチェ的には〈私〉ではありえないのですが。。。
    この辺の関係性は、同じような感覚を共有できるクリアと、それが絶対に不可能な〈私〉の関係性に似ています。

    > スクリーンと映画の喩えの「映画」は、独在論的視点とも関わってくるのだろうな、とは思い、前の投稿でも出してみたりしたのですが、モデルとしてどうですか?、独在論的視点と重なるものでしょうか?
    > それともまったく違いますか?

    独在論的にはスクリーンに映る映画はたった一つであり、それが全てということになります。
    その背後(バックグラウンド)や想像上のことは思考の俎上に載せません。

    PS.このレス交換はいつでもペンディング(停止)してもらっても構いませんのでお気遣いなく。^^

引用返信/返信 削除キー/
■18019 / inTopicNo.30)  Z 第一部 説話[15]
□投稿者/ みのり -(2021/10/27(Wed) 08:11:16)
    [15] 千一の目標について

    19〜27までの要点と思うことだけを簡単にまとめます。

    多数の者の利益であることを口実に、人間は民族ごとに善悪を決め、それに従い生きて来た。
    それらは、民族として生き残るために定められてきたものの名残であり、千の民族かあれば、千の価値観が存在してきたと言える。

    しかし、ツァラトゥストラは、「千の頸に投げかけるべき鎖がまだ欠けている、一つの目標が欠けている、人類にはまだ目標が欠けているのだ。」と言う。
    その目標とは、「こうあるべき、という共同体的倫理観に基づく与えられた行動規範を遂行するのではなく、自ら考え善とするものを選びそれをもとに行動していくこと」だと考えます。

    現代でこそ、こうした姿勢はさほど珍しいものではなく、各人の考えや意志が尊重され、それを遂行して自律して生きていかないと逆に生きにくい時代になっているとも私は考えます。

    しかし、ニーチェの時代には、まだ、因習や習慣には従うべきという風潮がかなりあったと思います。
    そうしたところから、切実な声としてツァラトゥストラに語らせたのだと考えます。


    次回から、「隣人愛について」です。
引用返信/返信 削除キー/
■18018 / inTopicNo.31)  思ったこと
□投稿者/ みのり -(2021/10/27(Wed) 07:45:29)
    映像で観ていたとても可愛らしかった小さい頃の彼女が、大人の女性になって、自分で選んだ好きな人と結婚した。
    世間からはいろいろな指摘や批判、誹謗中傷も受けてしまう結婚になってしまったけれど、二人で幸せになってほしいなと、これはなんだか自分の娘を思うような気持ちに近いかもしれない。

    天皇制には私は、反対も賛成もない。
    でも、その仕組みによって様々な苦悩が内部の人たちにもたらされ、現に苦悩しているとするならば、段階的に無くしていく方向もあっていいのではないか、と思う。
    もし、そのような意見が出され始めたとしても、議論は尽きることがないぐらいされ続け、国民の多くと皇室関係者のどちらもが納得のいく道が選ばれるには相当の時間を要するだろう。
引用返信/返信 削除キー/
■18007 / inTopicNo.32)  Re[30]: クオリアと〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/26(Tue) 22:04:36)
    No18006に返信(みのりさんの記事)

    > お手数をおかけしてしまってすみませんでした。<(_ _)>

    いえいえ、とんでも有馬温泉♪
引用返信/返信 削除キー/
■18006 / inTopicNo.33)  Re[29]: クオリアと〈私〉
□投稿者/ みのり -(2021/10/26(Tue) 21:52:27)
    No18003に返信(パニチェさんの記事)
    > ■No17999に返信(みのりさんの記事)
    >>17935は、2021/10/25(Mon) 18:06:00 編集(投稿者)で編集してありますよ。
    >
    >>月曜日の夕方に編集したのが最終です。
    >
    >>おそらく、編集前の投稿を保存されていて、それに返信してくださったんですね。
    >
    > そうです。
    >
    >>編集したことを新投稿で記しておけばよかったんでしょうけれど、返信がまだのようなので、返信いただく際に見てもらえばわかるだろう、と思ったんです。
    >
    >>編集した分への返信をどうされるかは、お任せします。
    >>(終わっていただいてもかまわないです。)
    >
    > ごめんなさい。
    > 明日以降にもう一度返信します。^^


    返信ありがとうございます。

    お手数をおかけしてしまってすみませんでした。<(_ _)>

引用返信/返信 削除キー/
■18003 / inTopicNo.34)  Re[28]: クオリアと〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/26(Tue) 21:37:36)
    No17999に返信(みのりさんの記事)
    > 17935は、2021/10/25(Mon) 18:06:00 編集(投稿者)で編集してありますよ。

    > 月曜日の夕方に編集したのが最終です。

    > おそらく、編集前の投稿を保存されていて、それに返信してくださったんですね。

    そうです。

    > 編集したことを新投稿で記しておけばよかったんでしょうけれど、返信がまだのようなので、返信いただく際に見てもらえばわかるだろう、と思ったんです。

    > 編集した分への返信をどうされるかは、お任せします。
    > (終わっていただいてもかまわないです。)

    ごめんなさい。
    明日以降にもう一度返信します。^^
引用返信/返信 削除キー/
■17999 / inTopicNo.35)  Re[27]: クオリアと〈私〉
□投稿者/ みのり -(2021/10/26(Tue) 20:49:25)
    17935は、2021/10/25(Mon) 18:06:00 編集(投稿者)で編集してありますよ。

    月曜日の夕方に編集したのが最終です。

    おそらく、編集前の投稿を保存されていて、それに返信してくださったんですね。

    編集したことを新投稿で記しておけばよかったんでしょうけれど、返信がまだのようなので、返信いただく際に見てもらえばわかるだろう、と思ったんです。

    編集した分への返信をどうされるかは、お任せします。
    (終わっていただいてもかまわないです。)
引用返信/返信 削除キー/
■17996 / inTopicNo.36)  (削除)
□投稿者/ -(2021/10/26(Tue) 20:36:16)
    この記事は(投稿者)削除されました
引用返信/返信 削除キー/

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