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No18033 の記事


■18033 / )  Re[26]: クオリアと〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/27(Wed) 21:52:56)
    みのりさん、こんばんは。レスありがとうございます。

    No17935に返信(みのりさんの記事)
    > ゴウさんというのは、行者さんで仏教にとても詳しい方のようですから、私とは雲泥の差です。

    雲泥の差なんてことはないのですがゴウさんには感謝でいっぱいです。

    > でも、私としても、これまでなかなか対話が誰ともできなかった内容について、パニチェさんとやりとりできたのは、貴重です。

    そう言ってもらえると有難いです。
    〈私〉に関しての返信も妥協や忖度なしで返信させてもらいます。^^

    > 自らが世界を創造していけるのだ、という視点というか理想的な考え方に立てればその通りだと思います。
    > 困難、苦悩さえも成長の糧と前向きに考えられるような。
    > しかし、実際には、個人だけではなかなかどうすることもできない環境にいたり、問題を抱える人々がとても多く、苦悩が多いままで右往左往せざるを得ない人々が多いと思います。

    え〜っと多分ニーチェが言ってることはもっとシンプルだと思います。
    ニーチェは「人生は認識者にとって一個の実験でありうる(悦ばしき知識 第324番)」としていることから、そのことに気付いている、気付いていないはともかく、認識それ自体が価値を創出し続けているってことだと思います。認識する全てに価値を付与、あるいは創出しているのは生のど真ん中に存在する自己であり、これを突き詰めれば世界は自己によって創造されており、対立物など存在しないという主張ですね。

    > 非二元の視点では、不分離ゆえに個人は存在しない、すべては気づきなのだ( 気づきだけが実体であり、すべてのものは気づきに現れたイメージである )、と究極においては考えます。
    > ちなみに、私は、不分離ゆえに個人は存在しない、については実感としていますが、すべてのものは気づきに現れたイメージである、つまり、生死もイメージであるを含むと思うのですが、ここまでは実感できていないので、完全に底が抜ける状態を理解しているのではないと考えています。
    > 非二元って人によっては、虚無を感じるみたいなんですが、みのり的には究極の楽観性なんですね。
    > なので、ニーチェの厳しさと非二元の楽観性が合わさると、自分の中ではとても具合がいいのです。

    なるほど。ニーチェのニヒリズムとみのりさんの虚無は肯定的に捉えているところが共通してますね。
    ニヒリズムは無限の創造性に転ずるし、虚無も肯定的に捉えれば悲しむ主体(自己)が滅している楽観性になりうると思います。

    > 二つではないです。分かれてはいません。
    > 人間は、自分の視点から観る世界を生きることしかできないし、それで何の問題もないと言えば言えると思います。
    > ただ、その自分の視点からの世界の「影、裏、下」などと表現せざるをえないのですが、自分には知りえない膨大な物が関わり合い、絡み合いして、今の自分のその世界は成立している、というようなことです。
    > すべては、相互依存的に成り立っている、というようなことです。
    > こうしたことを、コインの裏としてみのり的には喩えました。
    > 表に見えているのは、まったく個別のものとして存在しているかのような、様々なものの喩えです。

    > 別の言い方をしてみます。 思考が立ち上がらないと、今、目の前に見えている様々な個別と通常考えられるもの達も「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」です。
    > これについては、『悟りを生きる』にも書かれている内容です。
    > 実体としての「私」がいて何かをする、という世界観ではなく、「今、している経験の中に溶けている私」それが当たり前という世界観です。
    > そう感じる時がある、ではなく、もともとそれが自然なのだけれど、「私」という思考が立ち上がることによって、「私」が○○している、となっている、ということ。
    > 包丁で肉を切っている時なら、肉と包丁と切る には当然分離がなく、それらのものと「私」と呼ばれるものも当然分離していなくて、「気づき」にただそれらが現れている。
    > こういうことになります。
    > 通常の主語に当たる「私」を主体とするのでなく、あえて言うならですが、「気づき」が主体とも言えると思います。
    > それが「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」の、もう一つの言い方になります。
    > そしてこの後の方の説明の仕方のほうが、本来の非二元の考え方に乗っ取ったものです。

    ここら辺は理屈では理解できますし、おそらく見性というか三昧というのはそういう状態だろうとは思います(想像します)。
    現時点でのパニチェの場合のリアルは三昧にあっても〈私〉は独在的な存在であり、世界には溶け込んでいません。

    > パニチェさんの〈私〉とクオリアは、無関係であると考えられているというのはわかりました。
    > 確認なのですが、みのりは、〈私〉とクオリアが同一でそのものである、とは考えていません。

    了解しました。

    > みのり的には、その二つの「あり方」が似ているのではないか、と考えたのです。

    〈私〉とクオリアは隣接しています。

    > 「あり方」とは、唯一無二性です。

    存在様相としての唯一無二性なら同意です。

    > それと、みのりが考えるみのりの〈私〉においては、何かしら関係があるように思えたので書いてみたのです。
    > なので、もしかしたらパニチェさんにも通じるところがあるかな、と。
    > ないのであればそれで了解です。
    > 前にも書きましたが、そもそも、〈私〉についての感覚が、パニチェさんとみのりで違いがあるのだと思います。
    > 昨年、教えていただいた時は、パニチェさんの〈私〉の要点を理解はしたと思うのですが、その後、みのり的なものにみのりの中で再編した感じです。
    > みのり的〈私〉には、「気づき」「真我」に当たるものは含まれていません。

    パニチェは真我や気づきを直接経験していないので、〈私〉とどう違うかは分かりません。

    > 「気づき」は、存在の基盤として考えていますが、位置などについてはお特定が不可能です。
    > おそらくですが、パニチェさん的〈私〉というのは、身体内に位置するものと考えられているのだと想像しています。(違っていたらすみません。)

    身体内かどうかはペンディングです。
    確実に言えることは世界内ではありませんね。

    > みのり的〈私〉というのは。
    > 刻々と世界と溶け合いながら変化していきつつ、個として掬い挙げられ考えられた時の「私」(この私は、他者から観ての私を含む)の、他者には知りえない私秘性を持つ、「私」の本質。
    > このような感じです。
    > こうしたことから、みのり的には、クオリアは〈私〉の一要素とも言えるのではと考えたのです。( あくまで、みのりの〈私〉においてです。唯一無二性に加えて、私秘性ということも足して。)
    > つまり、みのりにとっての〈私〉は、「自分」「私」というものについて、日常の中で考え出すと立ち現われてくる「私」の本質部分のようなものです。
    > 何気に世界に溶け合うように生活している際には、「私」も〈私〉も意識していません。

    パニチェが理解したみのりさんの〈私〉は阿頼耶識みたいなものに思えました。
    九識説の阿摩羅識が「気づき」や「真我」であるのに対し個としての種子を蓄える阿頼耶識です。
    ところが阿頼耶識も阿摩羅識も言語によって頽落(変質)するのでパニチェ的には〈私〉ではありえないのですが。。。
    この辺の関係性は、同じような感覚を共有できるクリアと、それが絶対に不可能な〈私〉の関係性に似ています。

    > スクリーンと映画の喩えの「映画」は、独在論的視点とも関わってくるのだろうな、とは思い、前の投稿でも出してみたりしたのですが、モデルとしてどうですか?、独在論的視点と重なるものでしょうか?
    > それともまったく違いますか?

    独在論的にはスクリーンに映る映画はたった一つであり、それが全てということになります。
    その背後(バックグラウンド)や想像上のことは思考の俎上に載せません。

    PS.このレス交換はいつでもペンディング(停止)してもらっても構いませんのでお気遣いなく。^^

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