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No17935 の記事


■17935 / )  Re[25]: クオリアと〈私〉
□投稿者/ みのり -(2021/10/24(Sun) 07:50:57)
    2021/10/25(Mon) 18:06:00 編集(投稿者)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    No17900に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/10/23(Sat) 07:50:00 編集(投稿者)

    > パニチェにとってこれほど充実した〈私〉についてのレス交換できる対話者はゴウさん以来で感謝です。

    ゴウさんというのは、行者さんで仏教にとても詳しい方のようですから、私とは雲泥の差です。
    でも、私としても、これまでなかなか対話が誰ともできなかった内容について、パニチェさんとやりとりできたのは、貴重です。

    > >>もしそうだとすると「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」のはどこですか?
    >>その人その人の視点から観る世界、言わば、その人その人が主人公である映画。
    >>(私たちが生きている世界を映画として喩えているわけですが。)
    >
    > これニーチェの無垢なる子供にも相通じますね。
    >
    > 「子供は無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動、一つの聖なる肯定である。(ツァラトゥストラ 三つの変化について)」
    > 「世界を『人間化する』こと、すなわち世界のうちで自分自身をますます主人と感じること──(力への意志 第614番)」
    >
    > 自ら価値を創出した世界には自己と何ら対立するものなどなく忘我のうちに遊戯に高じる子供如くであり、世界の中心であり主人公にして世界の創造者でもありうる、みたいな。。。

    自らが世界を創造していけるのだ、という視点というか理想的な考え方に立てればその通りだと思います。
    困難、苦悩さえも成長の糧と前向きに考えられるような。
    しかし、実際には、個人だけではなかなかどうすることもできない環境にいたり、問題を抱える人々がとても多く、苦悩が多いままで右往左往せざるを得ない人々が多いと思います。

    非二元の視点では、不分離ゆえに個人は存在しない、すべては気づきなのだ( 気づきだけが実体であり、すべてのものは気づきに現れたイメージである )、と究極においては考えます。
    ちなみに、私は、不分離ゆえに個人は存在しない、については実感としていますが、すべてのものは気づきに現れたイメージである、つまり、生死もイメージであるを含むと思うのですが、ここまでは実感できていないので、完全に底が抜ける状態を理解しているのではないと考えています。
    非二元って人によっては、虚無を感じるみたいなんですが、みのり的には究極の楽観性なんですね。
    なので、ニーチェの厳しさと非二元の楽観性が合わさると、自分の中ではとても具合がいいのです。

    >>しかし、この、その人にとっての映画(ストーリー)が成立するためには、本質的なところまで考えれば、その映画内だけには収まり切れない膨大な映画が下(裏でもいいです。)にはあると考えるのです。
    >>なぜなら本来、世界は、「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」からです。
    >>個別に存在していると考えている個々の人間は、「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」世界から、自分にとっての世界を切り取る、掬い取るようにして生きているのだと考えています。
    >>もちろん、こうしたことはなんら批判すべきことでもなんでもなく、そのようにしなければ、社会生活を送ることは不可能です。
    >>質問の、
    > >>もしそうだとすると「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」のはどこですか?<
    >>の答えは以下になります。
    >>喩えとして、「下」「裏」などを使っていますが、それは、具体的に「ここ」だと指定することはできないからです。
    >>大乗仏教の言葉で、「一即多・多即一」というのがありますよね、これなどは、「不分離の世界観」を表すものなのではないか、と考えています。
    >
    > スクリーンに映る個別の映画も世界ですよね?

    そうです。

    > 本来の世界、不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」世界と個別の世界は不二ではなく、本来の世界の部分ということでしょうか?

    二つではないです。分かれてはいません。
    人間は、自分の視点から観る世界を生きることしかできないし、それで何の問題もないと言えば言えると思います。
    ただ、その自分の視点からの世界の「影、裏、下」などと表現せざるをえないのですが、自分には知りえない膨大な物が関わり合い、絡み合いして、今の自分のその世界は成立している、というようなことです。
    すべては、相互依存的に成り立っている、というようなことです。
    こうしたことを、コインの裏としてみのり的には喩えました。
    表に見えているのは、まったく個別のものとして存在しているかのような、様々なものの喩えです。

    別の言い方をしてみます。 思考が立ち上がらないと、今、目の前に見えている様々な個別と通常考えられるもの達も「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」です。
    これについては、『悟りを生きる』にも書かれている内容です。
    実体としての「私」がいて何かをする、という世界観ではなく、「今、している経験の中に溶けている私」それが当たり前という世界観です。
    そう感じる時がある、ではなく、もともとそれが自然なのだけれど、「私」という思考が立ち上がることによって、「私」が○○している、となっている、ということ。
    包丁で肉を切っている時なら、肉と包丁と切る には当然分離がなく、それらのものと「私」と呼ばれるものも当然分離していなくて、「気づき」にただそれらが現れている。
    こういうことになります。
    通常の主語に当たる「私」を主体とするのでなく、あえて言うならですが、「気づき」が主体とも言えると思います。
    それが「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」の、もう一つの言い方になります。
    そしてこの後の方の説明の仕方のほうが、本来の非二元の考え方に乗っ取ったものです。

    >>でも、クオリアというのは、ちょっとした思い付きで言ってみたようなものですし、クオリアというものの概念を正しく私が理解していないとも思うので(今、私がサラダを例に書いてみたようなことは、クオリアとは違うかもしれない、自信がないということ)ので、クオリアについてはここで終了とさせてください。
    >
    > 嫌ですが(笑)無理強いはしません。が、以下の理由によって返信します。(爆)
    > パニチェの編集とみのりさんの返信が前後してしまいましたが、先の返信でも追記したようにクオリアは「鋭い指摘だと思いますし、パニチェも〈私〉というクオリアではないか?と考察、探究したことがある」からです。
    > もの凄く重要で〈私〉に関するパニチェの考察を深め、整理する意味でもカキコしてみます。

    はい。

    >>クオリアに対する見方が、パニチェさんと私とで違い、〈私〉についての見方も違うんだと思うのです。
    >>(もちろん、私が正しいんですよ、なんては思ってないです。こういうの、馬鹿っぽいけど(笑)、けっこう大切かなとも思い、一応書かせてくださいね。)
    >>私はクオリアについてほとんど知らないです。
    >>個人個人が特有に感じる質感、こうしたものをクオリアと言うのだと、思っていました。
    >>(でも、そういうことではないのかもしれないですね。)
    >
    > いえ、その通りです。
    > 厳密に言うとクオリアに関してもさまざまな議論があるので、少なくともこの対話でみのりさんとパニチェの共通の定義を上記としましょう。

    はい。

    >>個人個人が特有に感じる質感。
    >>例えば、サラダを食べていて・・・レタスのシャキシャキした食感、キュウリのパリッとした食感、茹でたチキンの旨味・・・こうした食感みたいなものは、その人その人特有の質感、感じ方であって、その人が感じた質感そのものを他者がそのまままったく同じように味わうことは不可能だし、まるっきりそのままを伝えることも不可能だと、私は思うのですね。
    >>つまり、唯一無二なのだろうと。
    >>こうしたところが〈私〉と通じるのではないか、と考えたのです。
    >
    > 上記の場合、シャキシャキした食感の対象はレタス、パリッとした食感の対象はキュウリですよね。
    > 〈私〉にはそういう対象がない。
    > で、同じような感覚器官を持つ他者と、同じような(全く同一のものはありえないので)レタスやキュウリを味わうことで「シャキシャキ」や「パリッ」の“クオリア”が共有される。

    > そしてそのクオリアを「シャキシャキ」や「パリッ」という言葉を交わす言語ゲームによってラベリングすることが(言語化することが)可能となるが〈私〉は言語化できない。

    > 実際、みのりさんとパニチェで「シャキシャキ」と「パリッ」でクオリアが共有されているし、そのクオリアを今想像することも可能です。
    > これって言語で伝わっていることになりませんか?
    > 〈私〉はこのようには伝わりません。本質的に共有できないし、言語化できない。
    > 言い換えれば共有できない、言語化できないことが〈私〉の本質でもある、と。

    パニチェさんの〈私〉とクオリアは、無関係であると考えられているというのはわかりました。

    確認なのですが、みのりは、〈私〉とクオリアが同一でそのものである、とは考えていません。
    みのり的には、その二つの「あり方」が似ているのではないか、と考えたのです。
    「あり方」とは、唯一無二性です。
    それと、みのりが考えるみのりの〈私〉においては、何かしら関係があるように思えたので書いてみたのです。
    なので、もしかしたらパニチェさんにも通じるところがあるかな、と。
    ないのであればそれで了解です。

    前にも書きましたが、そもそも、〈私〉についての感覚が、パニチェさんとみのりで違いがあるのだと思います。
    昨年、教えていただいた時は、パニチェさんの〈私〉の要点を理解はしたと思うのですが、その後、みのり的なものにみのりの中で再編した感じです。
    みのり的〈私〉には、「気づき」「真我」に当たるものは含まれていません。
    「気づき」は、存在の基盤として考えていますが、位置などについては特定が不可能です。
    おそらくですが、パニチェさん的〈私〉というのは、身体内に位置するものと考えられているのだと想像しています。(違っていたらすみません。)

    みのり的〈私〉というのは。
    刻々と世界と溶け合いながら変化していきつつ、個として掬い挙げられ考えられた時の「私」(この私は、他者から観ての私を含む)の、他者には知りえない私秘性を持つ、「私」の本質。
    このような感じです。
    こうしたことから、みのり的には、クオリアは〈私〉の一要素とも言えるのではと考えたのです。( あくまで、みのりの〈私〉においてです。唯一無二性に加えて、私秘性ということも足して。)
    つまり、みのりにとっての〈私〉は、「自分」「私」というものについて、日常の中で考え出すと立ち現われてくる「私」の本質部分のようなものです。
    何気に世界に溶け合うように生活している際には、「私」も〈私〉も意識していません。


    スクリーンと映画の喩えの「映画」は、独在論的視点とも関わってくるのだろうな、とは思い、前の投稿でも出してみたりしたのですが、モデルとしてどうですか?、独在論的視点と重なるものでしょうか?
    それともまったく違いますか?

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