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No17900 の記事


■17900 / )  Re[24]: クオリアと〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/23(Sat) 07:29:57)
    2021/10/23(Sat) 07:50:00 編集(投稿者)

    おはようございます、みのりさん。レスありがとうございます。
    パニチェにとってこれほど充実した〈私〉についてのレス交換できる対話者はゴウさん以来で感謝です。

    No17896に返信(みのりさんの記事)
    >>その場合、無数にある映画同士は不二ではないわけですよね。
    > そうです。 
    > その人その人の視点から観る世界、言わば、その人その人が主人公である映画と言ってもいいです。

    なるほど。

    >>すみません、ここちょっと分かりません。〈私〉のストーリーとは映画のことでしょうか?
    > 今、上に書いた
    > >>その人その人の視点から観る世界、言わば、その人その人が主人公である映画と言ってもいいです。<<
    > それと、補足になりますが、みのり的には、〈私〉のストーリーのところを「私」のストーリーとしても問題はないです。
    > むしろそのほうがすっきりと自分の中ではする感じがあります。
    >>一番興味があるのは底が抜けた後も独在論的な色が残るかどうかです。<
    > というパニチェさんの文章に答える形でのレスだったので(もともと)、〈私〉を使ってみたのでした。

    ありがとうございます、分かりました。

    >>もしそうだとすると「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」のはどこですか?
    > その人その人の視点から観る世界、言わば、その人その人が主人公である映画。
    > (私たちが生きている世界を映画として喩えているわけですが。)

    これニーチェの無垢なる子供にも相通じますね。

    「子供は無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動、一つの聖なる肯定である。(ツァラトゥストラ 三つの変化について)」
    「世界を『人間化する』こと、すなわち世界のうちで自分自身をますます主人と感じること──(力への意志 第614番)」

    自ら価値を創出した世界には自己と何ら対立するものなどなく忘我のうちに遊戯に高じる子供如くであり、世界の中心であり主人公にして世界の創造者でもありうる、みたいな。。。

    > しかし、この、その人にとっての映画(ストーリー)が成立するためには、本質的なところまで考えれば、その映画内だけには収まり切れない膨大な映画が下(裏でもいいです。)にはあると考えるのです。
    > なぜなら本来、世界は、「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」からです。
    > 個別に存在していると考えている個々の人間は、「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」世界から、自分にとっての世界を切り取る、掬い取るようにして生きているのだと考えています。
    > もちろん、こうしたことはなんら批判すべきことでもなんでもなく、そのようにしなければ、社会生活を送ることは不可能です。
    > 質問の、
    >>もしそうだとすると「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」のはどこですか?<
    > の答えは以下になります。
    > 喩えとして、「下」「裏」などを使っていますが、それは、具体的に「ここ」だと指定することはできないからです。
    > 大乗仏教の言葉で、「一即多・多即一」というのがありますよね、これなどは、「不分離の世界観」を表すものなのではないか、と考えています。

    スクリーンに映る個別の映画も世界ですよね?
    本来の世界、不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」世界と個別の世界は不二ではなく、本来の世界の部分ということでしょうか?

    > ピンと来ないですか〜。^^
    > 観方、感覚は人それぞれだと思うので。
    > もし、ピンと来なくてもそれはそれでとは思うのですが・・・。

    これね、結論から言えばパニチェの底が抜けてないからです。^^
    それを分かった上で駄々っ子のように質問してます、嫌じゃなければ母親のように答えてやって下さい(笑)


    > でも、クオリアというのは、ちょっとした思い付きで言ってみたようなものですし、クオリアというものの概念を正しく私が理解していないとも思うので(今、私がサラダを例に書いてみたようなことは、クオリアとは違うかもしれない、自信がないということ)ので、クオリアについてはここで終了とさせてください。

    嫌ですが(笑)無理強いはしません。が、以下の理由によって返信します。(爆)
    パニチェの編集とみのりさんの返信が前後してしまいましたが、先の返信でも追記したようにクオリアは「鋭い指摘だと思いますし、パニチェも〈私〉というクオリアではないか?と考察、探究したことがある」からです。
    もの凄く重要で〈私〉に関するパニチェの考察を深め、整理する意味でもカキコしてみます。

    > クオリアに対する見方が、パニチェさんと私とで違い、〈私〉についての見方も違うんだと思うのです。
    > (もちろん、私が正しいんですよ、なんては思ってないです。こういうの、馬鹿っぽいけど(笑)、けっこう大切かなとも思い、一応書かせてくださいね。)
    > 私はクオリアについてほとんど知らないです。
    > 個人個人が特有に感じる質感、こうしたものをクオリアと言うのだと、思っていました。
    > (でも、そういうことではないのかもしれないですね。)

    いえ、その通りです。
    厳密に言うとクオリアに関してもさまざまな議論があるので、少なくともこの対話でみのりさんとパニチェの共通の定義を上記としましょう。

    > 個人個人が特有に感じる質感。
    > 例えば、サラダを食べていて・・・レタスのシャキシャキした食感、キュウリのパリッとした食感、茹でたチキンの旨味・・・こうした食感みたいなものは、その人その人特有の質感、感じ方であって、その人が感じた質感そのものを他者がそのまままったく同じように味わうことは不可能だし、まるっきりそのままを伝えることも不可能だと、私は思うのですね。
    > つまり、唯一無二なのだろうと。
    > こうしたところが〈私〉と通じるのではないか、と考えたのです。

    上記の場合、シャキシャキした食感の対象はレタス、パリッとした食感の対象はキュウリですよね。
    〈私〉にはそういう対象がない。
    で、同じような感覚器官を持つ他者と、同じような(全く同一のものはありえないので)レタスやキュウリを味わうことで「シャキシャキ」や「パリッ」の“クオリア”が共有される。
    そしてそのクオリアを「シャキシャキ」や「パリッ」という言葉を交わす言語ゲームによってラベリングすることが(言語化することが)可能となるが〈私〉は言語化できない。

    実際、みのりさんとパニチェで「シャキシャキ」と「パリッ」でクオリアが共有されているし、そのクオリアを今想像することも可能です。
    これって言語で伝わっていることになりませんか?
    〈私〉はこのようには伝わりません。本質的に共有できないし、言語化できない。
    言い換えれば共有できない、言語化できないことが〈私〉の本質でもある、と。

    もちろん、上記の返信はスルーでも結構です。^^

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