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No17896 の記事


■17896 / )  Re[24]: クオリアと〈私〉
□投稿者/ みのり -(2021/10/23(Sat) 06:17:49)
    2021/10/23(Sat) 06:20:57 編集(投稿者)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>一つのスクリーンに無数かつ唯一無二の映画が上映され続ける、ということなので、独在論的〈私〉の世界というのは、保たれるのではないでしょうか。
    >>そしてこのことは、すべては不分離であるというのとも矛盾しないと私の中では考えています。
    >
    > その場合、無数にある映画同士は不二ではないわけですよね。

    そうです。 
    その人その人の視点から観る世界、言わば、その人その人が主人公である映画と言ってもいいです。

    >>〈私〉のストーリーとなっているけれど、その下(わかりやすくするために下と喩えます)には不分離の世界が途切れなのない連続性としてある、と思うのです。
    >
    > すみません、ここちょっと分かりません。〈私〉のストーリーとは映画のことでしょうか?

    今、上に書いた
    >>その人その人の視点から観る世界、言わば、その人その人が主人公である映画と言ってもいいです。<<

    それと、補足になりますが、みのり的には、〈私〉のストーリーのところを「私」のストーリーとしても問題はないです。
    むしろそのほうがすっきりと自分の中ではする感じがあります。

    > 一番興味があるのは底が抜けた後も独在論的な色が残るかどうかです。<
    というパニチェさんの文章に答える形でのレスだったので(もともと)、〈私〉を使ってみたのでした。


    > もしそうだとすると「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」のはどこですか?

    その人その人の視点から観る世界、言わば、その人その人が主人公である映画。
    (私たちが生きている世界を映画として喩えているわけですが。)

    しかし、この、その人にとっての映画(ストーリー)が成立するためには、本質的なところまで考えれば、その映画内だけには収まり切れない膨大な映画が下(裏でもいいです。)にはあると考えるのです。
    なぜなら本来、世界は、「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」からです。
    個別に存在していると考えている個々の人間は、「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」世界から、自分にとっての世界を切り取る、掬い取るようにして生きているのだと考えています。
    もちろん、こうしたことはなんら批判すべきことでもなんでもなく、そのようにしなければ、社会生活を送ることは不可能です。

    質問の、
    > もしそうだとすると「不分離の世界が途切れなのない連続性としてある」のはどこですか?<
    の答えは以下になります。

    喩えとして、「下」「裏」などを使っていますが、それは、具体的に「ここ」だと指定することはできないからです。
    大乗仏教の言葉で、「一即多・多即一」というのがありますよね、これなどは、「不分離の世界観」を表すものなのではないか、と考えています。


    > >>でも、それを体験というか実現しているのは個としての主体ですよね?その辺はどう折り合いがついていますか?
    >
    >>全体性と個別性は、どちら側から観るかの違いがあるだけで、一枚のコインの裏表のようなものと思うのです。
    >>なので、私の中では矛盾はないです。
    >
    > 全体性と個別性は表裏というのが私的にはピンと来ないんですねぇ〜。
    > その理由はクオリアのところでも述べてみます。

    ピンと来ないですか〜。^^
    観方、感覚は人それぞれだと思うので。
    もし、ピンと来なくてもそれはそれでとは思うのですが・・・。

    >>別の投稿で少し書いたのですが、クオリアはどうでしょう?
    >>〈私〉とも関わるもののように感じるのですが。
    >
    > パニチェが思うところのクオリアと〈私〉が根本的に異なる点は次の二点です。
    >
    > まず一点目は、クオリアは経験に基づいたものであるのに対して〈私〉は経験には基づかない。
    > 質感にせよ、鮮やかな色彩にせよ、かつての経験があって成立する。例えば新雪や綿のフワフワはその感触を経験していないと生じません。
    > ところが〈私〉は経験の元となるような記憶も経験もありません。
    >
    > 二点目は、他者とも共有可能であるために言語化可能であること。逆の言い方をすれば言語によってその質感や色彩やその他の感覚を教わる後に生じます。
    > そういう意味では痛みに近い。母親から「痛いよね」と言われて、この泣いている不快な感覚が「痛み」であると子供が知ることに似ています。
    > これに対して〈私〉は他者と共有可能どころか、他者と異なる、あるいは隔絶しているところがその本質であるということです。

    クオリアに対する見方が、パニチェさんと私とで違い、〈私〉についての見方も違うんだと思うのです。
    (もちろん、私が正しいんですよ、なんては思ってないです。こういうの、馬鹿っぽいけど(笑)、けっこう大切かなとも思い、一応書かせてくださいね。)

    私はクオリアについてほとんど知らないです。
    個人個人が特有に感じる質感、こうしたものをクオリアと言うのだと、思っていました。
    (でも、そういうことではないのかもしれないですね。)

    個人個人が特有に感じる質感。
    例えば、サラダを食べていて・・・レタスのシャキシャキした食感、キュウリのパリッとした食感、茹でたチキンの旨味・・・こうした食感みたいなものは、その人その人特有の質感、感じ方であって、その人が感じた質感そのものを他者がそのまままったく同じように味わうことは不可能だし、まるっきりそのままを伝えることも不可能だと、私は思うのですね。
    つまり、唯一無二なのだろうと。
    こうしたところが〈私〉と通じるのではないか、と考えたのです。

    でも、クオリアというのは、ちょっとした思い付きで言ってみたようなものですし、クオリアというものの概念を正しく私が理解していないとも思うので(今、私がサラダを例に書いてみたようなことは、クオリアとは違うかもしれない、自信がないということ)ので、クオリアについてはここで終了とさせてください。



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