| 2021/10/21(Thu) 22:11:26 編集(投稿者)
こんばんは、みのりさん。レスありがとうございます。
■No17815に返信(みのりさんの記事)
> 自分を第三者的視線で眺めているもう一人の自分、そうです、私が感じていたのもそうしたものです。 > どんな危機の際にも、心が混乱している時にも「観てるやつ」です。 > 私は、昔は「観てるやつ」と呼んでました。(笑)
「観ているやつ」ですか。。。しっくりきますね、その表現。^^
> この「観てるやつ」がぴったりと張り付いて存在を主張していた時期は、精神的に辛かったです。 > 言わば、見張られてる感でした。 > 10代からそれは「居た」ように思うのですが、存在感を露わにしたのは、40歳ぐらいからでした。 > 程よく働いてくれれば良いものだったのでしょうけれど、私の場合は、葛藤を引き起こす元でもありました。
私は逆ですね。「観ているやつ」に助けられていました。 いつも「観ているやつ」がいることで冷静な自分を保てたということです。 私の場合は幼稚園ぐらいからです(笑)
>>〈私〉も無色透明でどんな作用も生じませんが「ただ見ている」、あるいは「感じている」だけの実存であり、これと上記が一致するのかどうかもペンディングです。 >>ただ、無色透明であっても決して万人に共通するような主体ではなく、そういう意味では無色透明という独在論的な色を持つものですね。
> そのようにパニチェさんは、考えられているのですね。 > とても貴重なお話をお聞きしていると思います。 > というのは、これまでネット上で、こうした話が通じる人というのは皆無だったのです。
私もリアルでこの話が通じた人はいませんね。 Yahoo!掲示板からニークラ、ネットで知り合った人はおそらく数百人に及びますが「観てるヤツ」や〈私〉に関してレス交換できた人は4人だけです。 そのうちの3人がニークラメンバーですから驚きです。
> みのりの感じですと・・。先ほど「観てるやつ」と書いたのは、きちんとした言い方だと「観照意識」です。人によっては、「観察者」とも言うようです。 > 去年も「観照」というので出させていただいたと思います。 > こうした言葉も、探求をしだしてから知ったものです。
なるほど、そうなんですね。 「観照意識」や「観察者」はよ〜く分かります。 アートポットさんの返信で触れた解離性同一障害(多重人格障害)治療のために役立つ主人格、内的自己救済者(Inner Self Helper)とも多少、あるいは一部のかぶるところがあるかもしれません。解離性同一障害で現れる人格はある人格が別の人格を知っていたり、知らなかったりしますが、内的自己救済者は全人格を知る観察者でもあります。
> そしてこれが、以前は、身体の内にあるものと考えていたのですが、内外というのもそもそも思考が作り出しているいわば人間だけが持っている一種の独自の考えなのだ、と気づいた、ということなんです、 > こういうのを非二元では、「観照の崩壊」と言います。 > いわゆる、底が抜けたと同じ意味のようです。
私のイメージ通りですね。もちろん未だ底は抜けてませんが。 一番興味があるのは底が抜けた後も独在論的な色が残るかどうかです。
> ただ、私の場合、探求によってこれらを理解した部分が大きく、瞑想などによって爆発的な体験をしたとかではないですし、人格もなんら立派にはなってないです。
「観照の崩壊」はあったんですね、それは凄い! ちなみに底が抜けた人、つまり覚者が必ずしも人格者とは限らないと思いますよ。 四苦(生苦・老苦・病苦・死苦)からは解放されるし、感情が流れる水のようにサラサラと後を引かないってのはあるようですが性格とか人格は別でしょうね。 だから覚者イコール聖者みたいなイメージではない、と、私は考えています。
> この「観照の崩壊」を理解できたのは、つい最近のことです。 > これに至るまでに探求をなんとなくし始めてから、7年ぐらいかかったと思います。 > 観照意識が定着すれば、いつか大体は自然にそれは崩壊する、とは本で見ていたのですが、なかなかそれがやって来てはくれずにいました。 > 「気づき」「真我」(アドヴァイタ、非二元でよく使われる)というのは、それらの上で( そもそもそれらのある場所が特定できないので、上でとか内でとか言っても単なるイメージでしかないのですが )、個としての分離したものは何も存在せず、すべては途切れのない連続性である(溶けている<、と同じようなこと)という世界観においての唯一の意識のようなものです。 > 観照の崩壊によって、「気づき」に完全に移行できた実感はあります。
なるほど。やっぱ個としての分離したものは何も存在しないのですね。 でも、それを体験というか実現しているのは個としての主体ですよね?その辺はどう折り合いがついていますか?
>>それは気づきを体得してからですか?
> まず、その「観てるやつ」=「観照意識」が存在感を押し出してしょうがなかったので、いろいろと葛藤とかする中で、それに次第に慣れるうちに存在感が消えていたのだと考えています。 > それと、今、上に書いたように「観照の崩壊」というのにもよったと思います。
なるほど。
>>■No17799に返信(みのりさんの記事)
>>私の場合は普段とか日常生活では消えています。 >>何かの苦悩や精神的に切羽詰まった状態(最近ほとんどありませんがw)や非常事態になれば自ずと生じますね。 > それがおそらくですが、不分離、溶けている、というのですよね。
おそらく何かに集中している時とか、または何かに同化しているかのような時は思いっきり不分離で溶けているとは思うのです。 ところが先にも述べましたがそれはあくまでも個としての主体の直接経験であって、隣の人や万人も同時に同じ直接経験をしているわけではないので、無色透明ではあるが独在論的な色?匂い?は残していると考えています。
> お〜、すごい。^^ もしかしたら、最初は偶然に鏡に映った泣いてる自分を見て・・、ってところから始まったのでしょうか。 > ちなみに何歳ぐらいの時ですか?
幼稚園から小学校の低学年までですね、泣いていたのは。 それから、歳をとったつい最近まではほとんど泣いてません(笑)。
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