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Re[20]: 真我と〈私〉
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□投稿者/ みのり -(2021/10/21(Thu) 08:13:58)
| 2021/10/21(Thu) 09:21:15 編集(投稿者) パニチェさん、レスありがとうございます。
■No17801に返信(パニチェさんの記事) > 2021/10/20(Wed) 21:31:22 編集(投稿者)
> ■No17796に返信(みのりさんの記事) >>一つ質問があります。 >>パニチェさんは、自身の内に、自覚している自分とはまた違う、人格のない誰かのような存在を感じられたことはありますか? >>これはけして多重人格などの話ではなく、人格のない誰か、無色透明のような、それでいて何かを認識しているような何か、という感じです。 >>そういう存在みたいなのを感じられたことはありますか? >>というのが質問になります。 > > そういう存在はありますね。 > これって軽度の、言い換えれば、健全な多重人格性だと思います。 > 自分を第三者的視線で眺めているもう一人の自分、苦悩の中で逆にこの目線がなくなり、苦しむ自分一色に染まってしまう(視野狭窄)のは危険だと思います。
自分を第三者的視線で眺めているもう一人の自分、そうです、私が感じていたのもそうしたものです。 どんな危機の際にも、心が混乱している時にも「観てるやつ」です。 私は、昔は「観てるやつ」と呼んでました。(笑) この「観てるやつ」がぴったりと張り付いて存在を主張していた時期は、精神的に辛かったです。 言わば、見張られてる感でした。 10代からそれは「居た」ように思うのですが、存在感を露わにしたのは、40歳ぐらいからでした。 程よく働いてくれれば良いものだったのでしょうけれど、私の場合は、葛藤を引き起こす元でもありました。
> この度を越してしまうのが解離性同一障害(多重人格障害)でしょうね。 > 例えば幼児期に虐待を受け、逃れる術もなく自己を保つために別人格を作り出し、耐え難い経験や記憶を背負わせること(こんな辛い目にあっているのは自分ではないという逃避)によって自己崩壊を防ぐというある種の自己防衛機能です。
解離性同一性障害は、本人のみならず周りの人への影響も大きいと思いますし、何か効果的な治療法が出てくるといいですよね。 もちろん、虐待がなくなることも願いたいです。
> 〈私〉も無色透明でどんな作用も生じませんが「ただ見ている」、あるいは「感じている」だけの実存であり、これと上記が一致するのかどうかもペンディングです。 > ただ、無色透明であっても決して万人に共通するような主体ではなく、そういう意味では無色透明という独在論的な色を持つものですね。
そのようにパニチェさんは、考えられているのですね。 とても貴重なお話をお聞きしていると思います。 というのは、これまでネット上で、こうした話が通じる人というのは皆無だったのです。
みのりの感じですと・・。先ほど「観てるやつ」と書いたのは、きちんとした言い方だと「観照意識」です。人によっては、「観察者」とも言うようです。 去年も「観照」というので出させていただいたと思います。 こうした言葉も、探求をしだしてから知ったものです。
そしてこれが、以前は、身体の内にあるものと考えていたのですが、内外というのもそもそも思考が作り出しているいわば人間だけが持っている一種の独自の考えなのだ、と気づいた、ということなんです、 こういうのを非二元では、「観照の崩壊」と言います。 いわゆる、底が抜けたと同じ意味のようです。 ただ、私の場合、探求によってこれらを理解した部分が大きく、瞑想などによって爆発的な体験をしたとかではないですし、人格もなんら立派にはなってないです。 この「観照の崩壊」を理解できたのは、つい最近のことです。 これに至るまでに探求をなんとなくし始めてから、7年ぐらいかかったと思います。 観照意識が定着すれば、いつか大体は自然にそれは崩壊する、とは本で見ていたのですが、なかなかそれがやって来てはくれずにいました。
「気づき」「真我」(アドヴァイタ、非二元でよく使われる)というのは、それらの上で( そもそもそれらのある場所が特定できないので、上でとか内でとか言っても単なるイメージでしかないのですが )、個としての分離したものは何も存在せず、すべては途切れのない連続性である(溶けている<、と同じようなこと)という世界観においての唯一の意識のようなものです。 観照の崩壊によって、「気づき」に完全に移行できた実感はあります。
>>私はもうだいぶ前ですが、そういうものを感じ、それからそれは何なのだろう?というのが出てきて気になりだし、探求のようなことをする一つのきっかけになったように記憶しています。 >>今は、そういう存在は消えました。 > > それは気づきを体得してからですか?
まず、その「観てるやつ」=「観照意識」が存在感を押し出してしょうがなかったので、いろいろと葛藤とかする中で、それに次第に慣れるうちに存在感が消えていたのだと考えています。 それと、今、上に書いたように「観照の崩壊」というのにもよったと思います。
> > ■No17799に返信(みのりさんの記事) >>その存在みたいなのを感じるようになって以降、自分の思考・感情にとても気づきやすくなり、思考に関しては浮かべばすべてのように気づいているようになったんです。 >>でもそれは喜ばしいことばかりではなく、気づくからこそ逆に思考に振り回されることにもなりました。 >>こういう状態に数年間は苦悩しました。 > >>パニチェさんは、こうしたことはなかったですか? > > 私の場合は普段とか日常生活では消えています。 > 何かの苦悩や精神的に切羽詰まった状態(最近ほとんどありませんがw)や非常事態になれば自ずと生じますね。
それがおそらくですが、不分離、溶けている、というのですよね。
私も、普段は、思考や感情は「気づき」に勝手に現れて勝手に消えていくものなんですが、怒りを感じたりすると、「観てるやつ」風(昔の感じとは違い、葛藤は生まないですけど、なので「風」)が出てくる気はします。
> 子供頃、誰に教わったでもなく鏡を見ながら泣いた経験ってりますか?
ないです。
> 私は結構あって、あれって今から思えば泣いている自分を眺めるもう一人の冷静な自分を設定することによってバランスを保っていたのだと思います。
お〜、すごい。^^ もしかしたら、最初は偶然に鏡に映った泣いてる自分を見て・・、ってところから始まったのでしょうか。 ちなみに何歳ぐらいの時ですか?
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