□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/21(Thu) 18:59:03)
| ちょっと、お邪魔しとくね。
No17814、なんだけど、 >私は、ニーチェの訳書に「現存在」が出てるって知らないのよ< ん?わたしみのりさまが何言ってるのか意味わかんない。 たしか、 No17761で、 >16 評価することによって、初めて価値が存在する。かくて、評価することがなければ、現存在のクルミはうつろであることだろう。それを聞け、きみら創造する者たちよ!・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫p107より引用< って書いてあるよね。ここに「現存在」って書いてあったから、ニーチェもその語を使っているのかな〜、っ思ったのね。
カントのに「現存在」が出てきてるのは、pipitさまの抜粋、 >(カントの文章の和訳の引用) 『実際、私たちが感官の対象を、正当にも、たんなる現象と見なすとき、私たちはそれによって同時に次のことを告白する。現象には根拠として物それ自体が存する、と。もっとも、私たちは物それ自体について、それがそれ自体としてどのような性質をしているかを知らず、私たちが知っているのは、その現象だけであり、私たちの感官がこの未知の何ものかによって触発されているそのあり方だけなのである。したがって、悟性は、まさに現象を〔それとして〕認めることによって、物それ自体の現存在をも容認する。そして、その限りで、私たちは次のように言うことができる。諸現象の根拠として存するような何らかのものの表象、したがって、たんなる悟性体の表象は、たんに認められるのみならず不可避である、と。(Ak314-315、中公102-103、岩波134-135)』< にも「現存在」っていう訳語出てきてるじゃん。 カントの「現存在」については、ハイデガーの『存在と時間』のなかにも書かれているのがあって、【差しあたってはっきりと注意すべきは、カントが、「現存在」といいう術語を、…】。
カントもニーチェもドイツ語なんかな?[Dasein]を日本語に訳すと「現存在」ってなるんかな?もしそうだとしたら、カントもニーチェも[Dasein](現存在)っていう語を使ってなんか言ってるってくことになるんかな、ってわたし見てるのね。
>な〜んかいやらしい雰囲気って? もしかして、ハイデガーがパクったんちゃうか? みたいな?< なんだけど、うん、そういうことじゃなくて〜、
哲学者って、なんか或る「語」をけっこうその人なりのいみで、それ、使ってるかんじしてるのね。たとえば「現存在」っていう語(訳し方の問題もあるのかもしれないけど)の意味、おそらく、カント、ニーチェ、ハイデガーでは違うんじゃないかって、こういう雰囲気をわたし感じてるんね。その語の意味をとらえようとするわたしにとって、その語を、哲学者によって違う意味で使われちゃったんじゃ、たまったもんじゃない。わたし困るのね。そういうのって、いやらしいじゃん。 こういう意味で、<な〜んかいやらしい雰囲気が漂ってる感じ〜>、ね。
わたしのは言ったから、これで了解してもらえたら、■17800の、終わりでいいよね。
「私が私を見ることができる」、っていう話題みたいだけど、見るだけにしとく。
|
|