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■18192 / inTopicNo.13)  pipitさんへ
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/02(Tue) 21:52:13)
    2021/11/02(Tue) 21:53:12 編集(投稿者)

    No18191に返信(pipitさんの記事)
    > 像というより、
    > 表象(感性で捉えられる表現)が現れるシステム がなんかある。
    > は、どうでしょう?

    はい、あると思いますし、私は脳科学的なシステムだと思っています。
引用返信/返信 削除キー/
■18191 / inTopicNo.14)  Re[48]: パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/02(Tue) 21:48:26)
    像というより、

    表象(感性で捉えられる表現)が現れるシステム がなんかある。

    は、どうでしょう?
引用返信/返信 削除キー/
■18190 / inTopicNo.15)  pipitさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/02(Tue) 21:47:41)
    2021/11/02(Tue) 21:49:34 編集(投稿者)

    No18189に返信(pipitさんの記事)
    > 返信ありがとうございます!
    > 嬉しいです (#^.^#)♪

    どういたしまして。
    なんか前回〈私〉に関するレス交換は私の方から一方的に取りやめてしまって申し訳なかったですね。
    言い訳ですが、あの時点ではパニチェの能力で〈私〉をpipitさんに指し示すことができないと思ったので、あんな中途半端な結果に終わってしましました。
    ごめんちゃい♪

    > 像が現れるシステム自体、という表現はどう思われますか?

    答える前に確認させて下さい。
    これってどこで使われる表現でしょか?
    像って何の像のことでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■18189 / inTopicNo.16)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/02(Tue) 21:41:39)
    返信ありがとうございます!
    嬉しいです (#^.^#)♪

    No18188
    >>わたしは、感じたものを知性で理解して知識としてると今のところ思っています。
    >>例えば、わたしは地図の緯度経度とかで大阪府の位置の規定ができるように、
    >>人間パニチェさんの位置規定も知識としては出来ると思ってるのですが、パニチェさんはどう思われてますか?
    >>感じるを成り立たせているもの(感じるの原因)の位置規定ではなく、
    >>感じたものを知性で組み立てた知識として、人間パニチェさんの空間内での位置規定は可能と思われてますか?
    >
    > はい、人間パニチェは時空間で位置は特定できます。<

    了解です、ありがとうございます。


    >>※ちなみに私はウィトゲンシュタインの本も解説本も読んだことないです。
    >>形而上学的主体という言葉は、私の中で考えて述べました。
    >>単純に、感性に現れるものを超えてるから『形而上学的』、行為の主体だから『主体』をくっつけて述べました。
    >
    > 形而上とか形而下とか、超越的とか超越論的とか、この手の西洋哲学的な表現はややこしいですよねぇ〜。
    >
    > 例えば「感性的経験でも知り得る。有形無形の現象世界の起点にある、究極的な存在」を形而上と呼ぶか、形而下と呼ぶかとか。。。<

    像が現れるシステム自体、という表現はどう思われますか?
引用返信/返信 削除キー/
■18188 / inTopicNo.17)  pipitさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/02(Tue) 21:33:44)
    2021/11/02(Tue) 21:34:37 編集(投稿者)

    こんばんは、レスありがとうございます。
    以下は端的に答えますので、さらさなる質問も歓迎します。

    No18187に返信(pipitさんの記事)

    > わたしは、感じたものを知性で理解して知識としてると今のところ思っています。
    > 例えば、わたしは地図の緯度経度とかで大阪府の位置の規定ができるように、
    > 人間パニチェさんの位置規定も知識としては出来ると思ってるのですが、パニチェさんはどう思われてますか?
    > 感じるを成り立たせているもの(感じるの原因)の位置規定ではなく、
    > 感じたものを知性で組み立てた知識として、人間パニチェさんの空間内での位置規定は可能と思われてますか?

    はい、人間パニチェは時空間で位置は特定できます。

    > ※ちなみに私はウィトゲンシュタインの本も解説本も読んだことないです。
    > 形而上学的主体という言葉は、私の中で考えて述べました。
    > 単純に、感性に現れるものを超えてるから『形而上学的』、行為の主体だから『主体』をくっつけて述べました。

    形而上とか形而下とか、超越的とか超越論的とか、この手の西洋哲学的な表現はややこしいですよねぇ〜。

    例えば「感性的経験でも知り得る。有形無形の現象世界の起点にある、究極的な存在」を形而上と呼ぶか、形而下と呼ぶかとか。。。
引用返信/返信 削除キー/
■18187 / inTopicNo.18)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/11/02(Tue) 21:14:57)
    こんばんは!
    パニチェさんの考え方が知りたいと思い、質問させてください。

    わたしは、感じたものを知性で理解して知識としてると今のところ思っています。
    例えば、わたしは地図の緯度経度とかで大阪府の位置の規定ができるように、
    人間パニチェさんの位置規定も知識としては出来ると思ってるのですが、パニチェさんはどう思われてますか?

    感じるを成り立たせているもの(感じるの原因)の位置規定ではなく、
    感じたものを知性で組み立てた知識として、人間パニチェさんの空間内での位置規定は可能と思われてますか?

    ※ちなみに私はウィトゲンシュタインの本も解説本も読んだことないです。
    形而上学的主体という言葉は、私の中で考えて述べました。
    単純に、感性に現れるものを超えてるから『形而上学的』、行為の主体だから『主体』をくっつけて述べました。
引用返信/返信 削除キー/
■18185 / inTopicNo.19)  ウィトゲンシュタインの独我論
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/02(Tue) 20:35:30)
    2021/11/02(Tue) 22:51:58 編集(投稿者)

    こんばんは、ザビビのふくろうさん。ポイントだけ反論させてもらいます。
    Yahoo!でもよくいましたが、どうも印象操作のようなカキコがあったり、架空の賛同者を想定したりしているところは気に入りませんが(笑)、私はそういうことなしに正面から反論します。
    気が向いたら返信下さい。もちろんスルーでも結構です。

    以下はウィトゲンシュタインの論考解釈についての反論です。
    ザビビのふくろうさんのウィトゲンシュタイン解釈の土台が揺らぐ(笑)ような点に絞ります。
    〈私〉に関しては横に置きます。ザビビのふくろうさんが理解できているとは到底思えませんし、理解しようとしない人に説明するのは時間と労力の無駄だと思いますので。

    No18151に返信(ザビビのふくろうさんの記事)
    > ところで、『論考』の独我論は、その要として
    >  私は私の世界である
    > と言われていますから、前述の意味で、
    >  私は私の言語世界である
    > ということになります。
    > 当然、〈私〉が存在するときは言語世界が存在します。
    > ゆえに、
    >  〈私〉が存在するとき、常に既に、言語が存在します。

    論考は言語と論理を世界の写像(写像理論)として論じていることは同意いただけますよね?
    「私は私の言語世界である」「私が存在するときは言語世界が存在する」なんてことはウィトゲンシュタインは論考では述べておりません。もし述べているならNoを示して下さい。

    仮に「私は私の言語世界である」とするなら私は言語空間でもある世界内に位置することになります。
    では、何故ウィトゲンシュタインは「5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。」「5.633世界のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。」と述べているのでしょうか?
    そもそも言語とともにある私が何故形而上学的主体なんでしょうか?
    ご説明下さい。

    ザビビのふくろうさんの主張「私」は形而上学的主体のことであり、「私」が存在するときは言語世界が存在するなら、「私」が世界の限界に位置したり、世界に属さないというのは矛盾します。
    この矛盾はザビビのふくろうさんのウィトゲンシュタイン解釈の誤解から生じているというのが私の主張(反論)です。

引用返信/返信 削除キー/
■18183 / inTopicNo.20)  Re[47]: 〈私〉についての議論
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/02(Tue) 20:23:01)
    ■18175、ふくろうさん、
    >“先言の〈私〉”<
    ありがとございま〜す。

    ニーチェクラブのPanietzsche Room、探究。〈私〉の哲学によると、

    〔…永井氏はこれを「〈私〉の存在の比類なさ」と呼び、私はこれを「比類なき先言の〈私〉」と呼ぶ。前者は「存在の比類なさ」に焦点が当てられており、後者は「比類なき〈私〉」をフォーカスする。「存在」と「〈私〉」が同一平面であるかどうかは定かではないが、「比類なき存在」と「比類なき〈私〉」は同一平面上のテーマであることだけは他の誰が否定しようが、この私は知っており、この世界でもっとも自明な事柄でもある。「比類なき先言の〈私〉」という呼び名は、Yshoo!掲示板のKIDAMASA氏による。〕
    このようなこも含めて、パニさんのは、ウィットちゃんのとかや永井ちゃんのとか”パニさんの”になってるんじゃないかな〜、ってわたしには見えるんね。

    そして「先言の〈私〉」についてパニさんのは、
    〔比類なき先言の〈私〉(=言語に先立って既に有り言語学習を可能とした主体、他とは類なき存在であるところの私〕
    っていうことみたい。

    〈言語に先立って〉っていうことだけを見たとき、フッサールの「前述語的世界」とかメルポンの「言葉のざわめきの下」って言うのわたし思い出しちゃうのね。
    このような意味で、ふくろうさんの、
    >それが「言語習得以前の主体」であるのなら、それは発達心理学などの対象になる、語りうる世界内存在者にすぎず<
    がちょっと気になったのね。
    〈それは発達心理学などの対象になる〉っていうのなんかわたしどうも引っかかてる。でも〈語りうる世界内存在者〉で、「世界内存在」じゃなくて、「世界内存在者」ってしてるところはわたしスルーできる。

    つい、思ったこと書きたくて書いちゃたけど、議論好きの人に、議論嫌いなわたしがお邪魔しちゃって、ごめんね。
    言いたいこと言ったから失礼するね。









引用返信/返信 削除キー/
■18181 / inTopicNo.21)  Re[48]: 現象
□投稿者/ pipit -(2021/11/02(Tue) 19:25:42)
    現れた、が、静止画像として自分への認識として作られたもの、が、一点を占める

    写真にすれば、一点を占める

    そんなイメージです。

    テキトーイメージすぎて、伝わらないかなぁ(^◇^;)
引用返信/返信 削除キー/
■18179 / inTopicNo.22)  現象
□投稿者/ pipit -(2021/11/02(Tue) 19:20:28)
    ザビビのふくろうさん、こんばんは!

    No18177
    >>pipitさんへ
    今回のレスは、私が勝手に擁護しただけで、あなたにとって言わずもがななことを述べて、あなたを困らせることは全く本意ではありません。全く空気を読まない奴でほんとうにすみませんm(__)m
    だから、仮に読んだとしても、レスは要りません。完全スルーでけっこうですよ!<

    もともとの私の興味を書きますね。私も完全スルーでいいですよ!
    ふくろうさんにお任せしますー

    現象に現れるものって、空間の座標として、一点ものだなー
    おもしろいなー、って思ってました。

    伝わるかな?

    ふくろうさんの書き込み読めて嬉しかったですよ!




引用返信/返信 削除キー/
■18177 / inTopicNo.23)  Re[46]: 〈私〉についての議論
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/02(Tue) 18:52:14)
    以下は、主にパニチェさん以外に私のレスを読んでくださっている方(がいるとして)に向けて、少し補足しておきます。
    私が今回、どうせ理解されないだろうな〜という思いをもちながらレスしてしまったひとつの要因は、パニチェさんとpipitさんとの、このトピにおけるやりとりを読んだからです。

    パニチェさんは、pipitさんの理解が得られないことについて次のように述べています。

    No17554
    > 余計なお世話かもしれませんが、ありとあらゆる先入観や想像を取っ払ったところからでないと〈私〉を知ることは厳しいと思います。
    >普通は言葉の言い換えや未知のものを既知にあてはめて理解しようとしますが、〈私〉に関してはそうすればそうするほど遠のいていくような存在です。

    このpipitさんの無理解について、私は異なる意見をもっています。
    どういうことか説明します。
    例えば、やりとりにおける次のパニチェさんの発言を見てください。

    No17546
    >> 〈私〉は、パニチェさんの意識から論理的に導かれた、形而上学的主体ではないのですか?
    >いえ、意識から論理的に導き出すような存在ではないです。
    導き出す必要も、見出す必要もない、もともとあるがままにあるものです。
    >「形而上学的主体」という表現はパニチェ的には〈私〉には合いません。
    >あくまでも形而下的存在、存在者の存在そのものです。

    No17539
    >〈私〉は位置情報によっても指定は不可能です、そもそも〈私〉は日常的に使う世界の中には含まれませんから、〈私〉の位置は世界の中にはなく世界の外になります。

    パニチェさんは、一方で〈私〉は世界の外に位置すると言い、他方で、「形而上学的主体」ではなく、形而下的存在、存在者の存在であると述べています。
    きちんと哲学を勉強された方ならわかるように、これは明らかに不整合な発言です。
    辞典を見てもらえば明らかですが、形而下的存在、存在者の存在であれば、時空内存在を意味しますし、時空を超えた存在であれば、形而上的存在です。
    先に引用した
    >言語学習をする主体者にして、言語学習以前に存在する〈私〉のこと
    というのも明らかに時空内存在です。
    後で引用する文章では「世界の端っこに位置し」ているとされています。
    「部屋の端っこ」って、「部屋の外」でしたかね?

    このような指摘に対して、仮に
    >普通は言葉の言い換えや未知のものを既知にあてはめて理解しようとしますが、〈私〉に関してはそうすればそうするほど遠のいていくような存在です。

    などと言ったところで、無理というものです。
    つまり、パニチェさんの言説は、重要なポイントで不整合な発言が多いわけです。
    したがって、理解不能なのは、当然至極なのです。
    理解できないpipitさんに罪は全くありません。
    もし仮に罪があるとしたら、pipitさんが、パニチェさんの考えが整合的であろうという前提で解釈しようとしたことにあります。
    そうではないのです。
    パニチェさんの述べておられるのは不整合きわまりないしろものであり、本来、「原理的に理解不可能」なのです。
    ……あれ?パニチェさん自身がまさにそう言ってたっけ?(笑)

    >pipitさんへ

    今回のレスは、私が勝手に擁護しただけで、あなたにとって言わずもがななことを述べて、あなたを困らせることは全く本意ではありません。全く空気を読まない奴でほんとうにすみませんm(__)m
    だから、仮に読んだとしても、レスは要りません。完全スルーでけっこうですよ!

    *******************

    この文章を読んでくださっている方の参考になるように、もうひとつおまけ。
    次はパニチェさんの主張です。

    ><私> の哲学
    >11.頽落
    >『私が存在している地点は、世界の他のどの地点と比較することもできないような特異点である。(パニチェ)』

    >地点とは時間的な地点と空間的な地点の両方を含みます。
    >私が特異点に存在する理由のひとつとして、他者も物質も(私の手足や胴体も)私から見た世界の中に位置するが、私自身は世界の中には位置しておらず、(私の目や、世界を感じ取る主体は)世界の端っこに位置し、そこから世界を見たり五感を通して感じている。

    『論考』の命題 T.5.63-5.634 を素直に読んでみられれば、
    まさに、上の引用に示された考えが否定されていることがわかるでしょう。

引用返信/返信 削除キー/
■18176 / inTopicNo.24)  Re[45]: 〈私〉についての議論
□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/02(Tue) 18:48:35)
    No18159
    >まず結論から言うと今回のザビビのふくろうさんのレスまたは反論はあまり刺激になるような内容ではなく、足元の地面が揺るぐような批判(笑)ではなかったです。

    そうですか。残念ではありますが、まあ予想されたことでもあるので仕方ありません。
    せめてロムされている方の刺激になればと期待します。

    >ザビビのふくろうさんも補足されているように。。。
    >> ただ、パニチェさんが、ご自身の考えとウィトゲンシュタインの考えとの異同をどう考えてらっしゃるのかが未だ把握できていないので、そのあたり、的外れになったら申し訳ありません。
    >上記に尽きると思います。

    ああ、やっぱりね。すみません。
    私としては『論考』の示される独我論的「私」、またふくろうの解釈によるとそれは「形而上学的主体」と呼ばれているものでもありますが、それを〈私〉と表記しました。
    議論の背景から十分理解してもらえると思ったのですが、ミスリーディングでしたかね。

    ただ、私の主張は,簡単に言うと、
    1. パニチェさんの「比類なき先言の<私>」は、『論考』で示されるとされる独我論的「私」とは全く異なるものである。
    2. パニチェさんの「比類なき先言の<私>」についての言説は、無意味である

    というものですので、1 に関して認めておられるのであれば、私としては何も問題ありません。
    また、私としては、この2点について、簡潔、かつ、決定的に示す議論ができたと自己満足していますので(笑)、パニチェさんは認められないでしょうが、読む人が読めば私の主張の正しさが理解されると私は思っています。

    なので、次には同意できません。

    >何が言いたいのかというと、上記のザビビのふくろうさんの反論はウィトゲンシュタインと永井哲学とパニチェが探究しているテーマが混在しており、これを混同した上での反論や批判、つまり藁人形論法になっているということです

    私の前レスではポイントを絞り、「先言の<私>」という概念に関してのみ批判しました。
    パニチェさんの言説のまさに要となる概念であり、その無意味さを示すには、前レスに示した議論で十分だからです。
    もちろん、パニチェルームの「〈私〉の哲学」「独我論」の文章はざっとではありますが、読んだ上での判断です(このトピでのpipitさんとの議論も目を通しました)。

    >そしてもし、それが「言語習得以前の主体」であるのなら、それは発達心理学などの対象になる、語りうる世界内存在者にすぎず、少なくとも『論考』の〈私〉とは何の関係もありません。

    という見解については、次のようなパニチェさんの発言を念頭においていました。
    問題があるとは全く思えませんが。
    引用しなかったのが問題なのであれば、それは謝罪します。申し訳ありませんでした。
    *******************
    No17554
    >> 直知の対象があるから、直知する主体がある、という因果関係の思考ではないのですか?

    >そうではないと思います。
    >因果関係もそうですが、思考って言語的になされますよね?
    >〈私〉は言語に先んじて(言語を覚える前から)存在する主体です。
    >これなくして言語の習得や普遍文法の習得はありえません。

    <私> の哲学
    13.無我説と〈私〉
    >先言の〈私〉は言葉に先立つ〈私〉。
    >つまり、言語学習をする主体者にして、言語学習以前に存在する〈私〉のこと。
    *********************
    >3、先のレスから「ウィトゲンシュタイン(特に『論考』)解釈においては、アンチ永井均の立場」というところが見えませんし、「そ〜と〜な永井嫌い」である理由も分かりません。ウィトゲンシュタイン解釈についてのアンチ永井であるとしても、永井氏の主要テーマである「〈私〉の存在の比類なさ」をザビビのふくろうさんが理解されているとは(先のレスからして)到底思えず、この理解なしに「ウィトゲンシュタイン解釈においては、アンチ永井均の立場」というのはナンセンスであると思います。

    私が永井嫌いであることを述べたのは、永井の考えの内容を知っている人には、私がその考えに反対の考えを持っている人間であるという情報が手っ取り早く伝わり、かつ、永井に共感されているパニチェさんの立場にも反対の立場であろうことが、ある程度予想可能だと思ったからです。べつに深い意味はありません。

    >主要テーマである「〈私〉の存在の比類なさ」をザビビのふくろうさんが理解されているとは(先のレスからして)到底思えず、

    というのは、「(先のレスからして)」なぜそういうことになるのかわかりませんが、まあ、それはいいとしましょう。
    ただ、私が理解していないという判断はパニチェさんの勝手ではありますが、この議論を読んでくださっている人に私がそれを認めていると誤解を与えてもいけませんので、少し付言しておきます。
    私は永井の独在論には関心がありませんから全部をフォローしてはいませんが、『ウィトゲンシュタイン入門』を始め、初期の勁草書房から出版されている諸著作、複数の研究者によるウィトゲンシュタイン哲学についての論文集に永井が寄稿した論文等、相当数の著作は読んでいます。なので、永井のウィトゲンシュタイン解釈(とくに『論考』解釈)については私なりに一応理解しているつもりです。言ってみれば、一方的な仮想論敵です(笑)むろん、自分なりの批判的見解ももっています。ただ、今回のパニチェさんとの議論とは切り離せますし、自分にとって永井の考えなどどうでもよいのでわざわざ述べる気はありません。まあ、私が自分で言ってるだけなんで、信用するもしないも読む方のご自由ですが、一応、言っておきます。
    *************************
    >ウィトゲンシュタインが述べているのは「5.6言語の限界が私の世界の限界を意味する」あるいは「5.62世界が私の世界であることは、唯一の言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに、示されいる。」であって、「私は私の世界である」あるいは「私は私の言語世界である」とは微妙にニュアンスが違います(ウィトゲンシュタインがここでスポットを当てているのは、ザビビのふくろうさんが主語としている「私」でなはく「私の世界」です)。

    ん? 事実誤認があるように思いますが?
    まあ、その当否はおくとして、とにかく、「私は私の世界である」は、ウィトゲンシュタイン自身が述べています。

    5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)

    このパニチェさんの発言を読んで、私の議論の理解はとうてい望めないことはわかりました。
    まあそれは仕方ありませんし、さっきも書きましたが、私としては目的とする議論をきちんと提示できたと思っているので、わかる人にはわかるということで、これ以上は言わないことにしておきます。
    ただ、『論考』解釈において、これだけ理解が得られないまま『「個人的経験」および「感覚与件」について P.323』より』の引用文――永井がまるで自分しか真意を理解したものはいないかのように取り上げたことで有名な文章ですね(笑)――の解釈を議論しても無駄だと思いますので、やめておきましょう。

    というわけで、
    パニチェさん、お邪魔しました。
    刺激になれずに申し訳ありません。
    レスをわざわざありがとうございました。

引用返信/返信 削除キー/

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