| 2021/10/12(Tue) 07:52:44 編集(投稿者)
こんばんは、パタキさん。レスありがとうございます。
■No17420に返信(パタキさんの記事) > ウィトゲンシュタインは語り得ぬものの具体例としてどういうものを考えていたのですか? > 不立文字の方は悟りに関することではないかと思っています。
解説書によって異なりますがA・C・グレーリング著『ウィトゲンシュタイン』では「倫理的、宗教的にたいせつなことがら(P.67)」となっており、鬼界彰夫著『ウィトゲンシュタインはこう考えた』では「論理」や「形而上学的主体」または「哲学的自我」と呼ばれるものとしています。 パニチェ的は先のレスでカキコした「私」という語が指し示す対象である以下です。 パニチェはこれを「比類なき先言の<私>」と呼んでいます。
>> 例えばパタキさん(名前ではなくパタキさん自身)は他の誰にもあてはまらないところがあるからパタキさんなのであって、もしそうでなければこの世に沢山あるであろう自意識のどれがパタキさんかパタキさん自身も分からなくなります。そういうパタキさんの本質を言葉で語れるでしょうか? >> もし語ったとしても、それは世界のどこかにいるパタキさんではない人である可能性は払拭できなのではないでしょうか? >> 仏教の勝義諦(不立文字である真理)やウィトゲンシュタインの「語れ得ないもの」はそのようなもののことです。」
上記は仏教の悟りに隣接するものです。 補足:何故悟りが語りえないかと言うと「私」という語の指し示す対象を語れないからです。「私」という語が指し示す対象を探究するのが仏道であり、それはウィトゲンシュタインの語りえないもののひとつという意味です。
> ところでウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という主張は今の哲学界では当たり前田のクラッカーで、今更これに異議を唱える人なぞいないという状況なのでしょうか?
どうなんでしょうか。哲学界で当たり前かどうかは私はよく分かりませんが、語りえないことがあるのは当たり前だとは思ってます。
パタキさんの先のレスにあった「行間」もそうでしょうし、職人芸のうち感覚的なものは言語化(マニュアル化)できないから師匠は弟子に見て真似て覚えろというのでしょうし、これらは言語化可能な形式知に対して言語化不能ば暗黙知と言われています。
他にも例えば男は出産の激痛を言語化できないし、日常的にも言葉にした瞬間に「嘘だな」と思えるものの他の言葉では言い表せられないことは結構あるように思います。
PS.「比類なき先言の<私>」に関しては。。。 Panietzsche Room > 探究 > 〈私〉の哲学 にまとめてあります。 または過去ログの過去ログ1にある「〈私〉について5」のトピで、みのりさんに順を追って説明したレス交換があります。
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