| 市場のハエで(しつこい) 『君の無言のプライドは、いつも連中の趣味に反する。君が謙虚になって、虚栄心のあるところを見せてやれば、連中は小躍りして喜ぶ。』 ニーチェ.ツァラトゥストラ(上)丘沢静也訳(光文社古典新訳文庫)
この「謙虚になって」が自力では分からなかった。吉沢の方の注釈を辿ると「人間と交わるための賢さについて」の注で、 「虚栄心の強い者は、その心の奥底で、自分は何ものでもないと感じている点で、つまり何らの自己確信も持たず、その意味で全く無私である点で、謙虚である。」
この注がある部分を引用すると(丘沢訳「処世知について」) 『それから、虚栄心の強い人間の謙虚さがどんなに深いものか、誰が測れるのだろう!その謙虚さゆえに俺は、連中に好意をもち、同情を寄せている。虚栄心の強い人間は、自分を信じることを君たちから学ぶつもりなのだ。君たちの視線を栄養にし、君たちの拍手をがつがつ食べる。虚栄心の強い人間は、嘘でも君たちにほめてもらうと、嘘を信じてしまう。虚栄心の強い人間は心の奥底で、「自分なんて大したことないんだ!」とため息をついているのだから。 自分のことを知らないということが正しい徳であるなら、虚栄心の強い人間は、自分が謙虚であることを知らないのだ!』
この「自分なんて大したことないんだ!」が吉沢では「自分は何ものでもない」と訳され、上記の注の表現に。
虚栄を見せるのは、本心では自信を持てないからなので、それは実は謙虚であるのだと。 しかも、意識的でなく自然に発している徳こそが真の徳ならば(18世紀の英国のモラリストの考え方、と吉沢注)、自分が謙虚であることを自覚せずに謙虚である虚栄者たちは、真の徳を発露しているのだ。 (2番めのセンテンスは、丘沢・吉沢ともに、そのままではこうは読めず、私の解釈になります。) めちゃくちゃ面白し。こういう話を普通に仕掛けてくる人間が知り合いにいたら楽しそう。
逆に謙虚に振舞う人間が、本心では実際の自分はそれなりに何らかのものであるという自信があるから謙虚に振舞えるのであるなら、本当は謙虚でないと。その中で、自分が本当に謙虚であると思ってしまっている人がもしいるなら、真の徳には欠ける人であると。 これはニーチェが書いているのではなく、私が勝手に裏返しただけです。
このように他の節と関連付けないと読み取れない、もしくはニーチェの個性に通じないと分からない部分が多いとしたら、私のようなつまみ食いにはあまり意味が無いか。
吉沢の注釈を利用しながら、丘沢訳を引用するのは、kindleでコピーできるからという自己都合です、紛らわしかったらすいません。
(この内容はパニチェさんの最新の投稿を見る前に書いたもので、同投稿とは一切関係ありません。)
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