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■17431 / inTopicNo.61)  Re[29]: 芸術の感動
  
□投稿者/ knowing itself -(2021/10/11(Mon) 14:56:27)
    パタキさん レスありがとうございます。

    > 以前はクラシックの良さがわからないのは残念なことだなあと思っていました。しかし、ボカロを聴いて「凄くいい!」と思うのとバッハに感動するのと果たしてどういう違いがあるのだろうか?と思うようになりました。何百年も残るのはバッハかも知れませんが、極論すればそれは一部のマニアの間だけの話です。

    どんな音楽も聴いた人の中に感動を引き起こすトリガーのようなもので、音楽そのものより、その人の中に生まれた感動が本体という考え方もありえます。

    先程とりあげたルパートスパイラはこの考え方を人間のすべての活動に当てはめる人です。宝くじに当たったり、ノーベル賞を取ったりの感動がいくら凄いものでも、本人にもともと(すべて人間にです)に備わっている、感動している状態を表に出す引き金に過ぎないとあう考え方です。宝くじやノーベル賞そのもの価値は、本人の感動に比べれば些末なこと。バッハやベートーヴェンの音楽を、rest of life、ずっと聴くこと以上に望ましいことはないと彼が言っているのも、バッハやベートーヴェンの音楽そのものの価値が素晴らしいからではなく、もともと自分にある、感動や至福や喜びを吐き出す引き金の役割をその音楽が果たすからという理由だと思います。ボカロでもその引き金になれば、バッハとの違いはないと思います。


    > 音楽の本質とは何か?ひょっとすると何でも入れる事の出来る丼本体のようなものかもしれません。丼が作り出す空間はそれを使う人によってバッハになったりローリングストーンズになったり美空ひばりになったり、チャーリーパーカーになったり。
    >
    > その丼自体が何で出来ているのかはわかりませんが、わからなくても取りあえず困ることはありません。
    >
    > と思う今日この頃です。

    丼本体の喩えは納得です。この丼は抽象的でよくわからないようでいて、人間が生きて体験するすべてを盛り込むことができるようです。人間が多様なジャンルの音楽にこれほど情熱を傾けることができるのは、そういうことなのかもしれません。
引用返信/返信 削除キー/
■17428 / inTopicNo.62)  Re[28]: 芸術の感動
□投稿者/ パタキ -(2021/10/11(Mon) 10:12:47)
    2021/10/11(Mon) 14:44:59 編集(投稿者)

    おはようございます、knowing itselfさん

    以前はクラシックの良さがわからないのは残念なことだなあと思っていました。しかし、ボカロを聴いて「凄くいい!」と思うのとバッハに感動するのと果たしてどういう違いがあるのだろうか?と思うようになりました。何百年も残るのはバッハかも知れませんが、極論すればそれは一部のマニアの間だけの話です。

    今でこそ沈魚落雁は美人の代名詞ですが、荘子はどんな美人も魚や鳥には通じないという意味で用いました。

    音楽の本質とは何か?ひょっとすると何でも入れる事の出来る丼本体のようなものかもしれません。丼が作り出す空間はそれを使う人によってバッハになったりローリングストーンズになったり美空ひばりになったり、チャーリーパーカーになったり。

    その丼自体が何で出来ているのかはわかりませんが、わからなくても取りあえず困ることはありません。

    と思う今日この頃です。

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■17426 / inTopicNo.63)  芸術の感動
□投稿者/ knowing itself -(2021/10/11(Mon) 07:31:53)
    https://youtu.be/SR5FCNYkcPI

    現代アドバイタシーンで最も影響力のある一人、ルパートスパイラです。

    質問者がサイケドラックドラックについて尋ねています。ルパートスパイラは飲んだこともないし、まったく興味もない。これから飲もうとも思わわないと答えています。

    ルパートスパイラは陶芸が得意だったことは知っていましたが、この動画の中でクラシック音楽に言及していたのが印象的です。

    生きている残り時間、バッハやベートーベンを聴いていてもよい、それ以上に望ましいことはない、といった趣旨のことを言っていました。

    ルパートスパイラの基本的な考え方は、人間は既に究極の至福や喜びの状態にあるのだから、それを外に探求することはない、いかなる探求も既にある至福や喜びに帰還して確認するだけのものだ、です。バッハやベートーベンの音楽は特にそういう性質をもっているので、いくら聴いて飽きない。そういう意味だと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■17420 / inTopicNo.64)  Re[26]: どうなんタロイモ
□投稿者/ パタキ -(2021/10/10(Sun) 21:30:07)
    パニチェさん、お返事ありがとうござい升酒。

    ウィトゲンシュタインは語り得ぬものの具体例としてどういうものを考えていたのですか?
    不立文字の方は悟りに関することではないかと思っています。

    個人的な経験として音楽を挙げると、人は音楽に感動したりします。しかしながら同じ音楽に全く感動しない人もいます。クラシックには涙するけれどロックはただうるさいだけでどこが良いのかわからない人、反対にロックにはストレートに魂を揺さぶられるけれどクラシックはどこがいいのか全くわからないという人、こういうことを考えていると音楽の本質って何だろう?そもそも本質ってあるのかな?と思ったりします。

    ボクはクラシックを聴くといいなあと思いますが、それが何故いいのか人に説明できません。それが原理的にできないのかボクの言語能力が稚拙なためなのか、そこはわかりません。

    文学を読んで感動しますが、この感動は言葉から受けたものだと思います。言葉には言外の意味というものがあり、コバケンは行間を読んで下さい!と言います。そういうことを考えていると、言葉では語り得ぬものがあると結論付け、早々に思索を止めてしまうのは未だ手順を尽くしていない感はあります。

    ですのでパタキとしては今しばらくは特に「ものの本質」について言語で模索したいと思います。

    ところでウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という主張は今の哲学界では当たり前田のクラッカーで、今更これに異議を唱える人なぞいないという状況なのでしょうか?
引用返信/返信 削除キー/
■17396 / inTopicNo.65)  Re[25]: どうなんタロイモ
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/10(Sun) 10:42:52)
    No17394に返信(パタキさんの記事)
    > パタキはパーになった田秋どすえ〜

    ははは。^^

    > ウィトゲンシュタインの「語れ得ぬもの」や禅宗の「不立文字」と言うのは経験則なんでしょか?
    > そのココロは、もし証明されていないのなら研究が進み或いはスーパー大悪魔ちゃんみたいな超天才が現れ、「あ、語れちゃった・・・」とか「どうしよ、書けちゃったヨ」なんて日が来るかも!?

    スーパー大悪魔ちゃんが言葉を使って表現しようとするかぎり書けないと思いまする。
    言葉って固定化するし一般化(他人にも通用する表現になる)しますよね。

    コミュニケーションツールとして発達した言葉にはそういう原理的なところがあります。
    例えばパタキさん(名前ではなくパタキさん自身)は他の誰にもあてはまらないところがあるからパタキさんなのであって、もしそうでなければこの世界に沢山あるであろう自意識のどれがパタキさんかパタキさん自身も分からなくなります。

    そういうパタキさんの本質を言葉で語れるでしょうか?
    もし語ったとしても、それは世界のどこかにいるパタキさんではない人である可能性は払拭できなのではないでしょうか?
    仏教の勝義諦(不立文字である真理)やウィトゲンシュタインの「語れ得ないもの」はそのようなもののことです。

    どうでショウガ?

引用返信/返信 削除キー/
■17395 / inTopicNo.66)  存在の刻印
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/10(Sun) 10:31:51)
    No17392に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■17390、
    > わたしが読んでる『存在と時間』、第43節 現存在、世界性、および実在性
    > のところ読んで見ました。この訳書で、次のように訳されてるところかな?
    > 【存在の意味への問いがそもそも可能であるのは、存在了解内容といったようなものが存在しているときだけである。】

    そうそう。

    > ニーチェの、なんかそうなんかな。

    bwv602さんだったかな?誰相手だったか忘れたけど、以前にYahoo!textreamで「存在と時間」の読書会をしたことがあるねん。そこでわしが愚痴っぽく「なんでハイデッガーってこんな回りくどく分かりにくい表現をするのかな」ってレスしたことがあって、「多分、より厳密に表現しようとするからそうなるんだと思います」って返信に納得したことがあって、印象に残ってる。

    ハイデッガーにせよ、カント、ニーチェ、フッサール、メルポン、ウィトゲンシュタイン、みんな回りくどく分かりにくいのはこのためかな(笑)
    ちょい前置きが長くなったけど、以下は言うまでもなくわしの読解ね。

    先のハイデッガーの言わんとしているのは「存在の意味の問いが可能なのは、存在了解内容といったもの(イコール現存在=パニチェ的には〈私〉で、多分悪魔ちゃん的には「私」)が存在しているときだけである」ってことやと思う。つまり存在は〈私〉や「私」が存在することよって刻印されるようなものてあるってこと。

    で、ニーチェの先のアフォリズムは「生成に存在の刻印をすることが権力への最高の意志」つまり〈私〉や「私」が価値付与する諸価値のなかでも最高形式っていう意味やと思う。
    これに続いて「過去には二重のでっちあげが行われた。ひとつは普遍的なものや固定的なもの(イデアとか背後世界)が存在の根本とされ、むしろ生成・変化。消滅するような動的なものは根本的存在ではないと断罪された。そうではなく認識、たとえそれが誤謬や誤解であっても認識主体=〈私〉や「私」」から刻印されるのが存在であり、それが常に上書きされるような普遍的ではなく、固定的でもない動的なものであっても、刻印されることによって生成・変化・消滅するような対象や刻印そのものが存在(の性質)であるということ。」みたいな意味やと思う。

    つまりハイデッガーもニーチェも〈私〉や「私」の外になるような絶対的存在なんてものがあるのではなく、〈私〉や「私」が存在を可能せしめる存在であるってことやないかな。


引用返信/返信 削除キー/
■17394 / inTopicNo.67)  どうなんタロイモ
□投稿者/ パタキ -(2021/10/10(Sun) 10:28:49)
    パタキはパーになった田秋どすえ〜

    ウィトゲンシュタインの「語れ得ぬもの」や禅宗の「不立文字」と言うのは経験則なんでしょか?
    そのココロは、もし証明されていないのなら研究が進み或いはスーパー大悪魔ちゃんみたいな超天才が現れ、「あ、語れちゃった・・・」とか「どうしよ、書けちゃったヨ」なんて日が来るかも!?
引用返信/返信 削除キー/
■17392 / inTopicNo.68)  Re[23]: 現存在と存在
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/10(Sun) 09:24:07)
    ■17390、
    わたしが読んでる『存在と時間』、第43節 現存在、世界性、および実在性
    のところ読んで見ました。この訳書で、次のように訳されてるところかな?

    【存在の意味への問いがそもそも可能であるのは、存在了解内容といったようなものが存在しているときだけである。】

    ニーチェの、なんかそうなんかな。


引用返信/返信 削除キー/
■17390 / inTopicNo.69)  現存在と存在
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/10(Sun) 08:26:42)
    2021/10/10(Sun) 08:29:39 編集(投稿者)

    No17373に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > わたしがしりたかったのは、「ハイデッガー全集の第6−1巻&U巻」に書かれてることについてだったんだけど。
    > ■17371、
    > それにしてもパニさん、ニーチェについての「知識」いっぱいあるね。

    なんせハンドルが「パァ〜になったニーチェことパニチェ」やからね(笑)。
    先のニーチェのアフォリズムと関連する「存在と時間」は例えば以下のようなところかな。(例えばというのは以下の箇所だけではないという意味ね)

    『それにしても、現存在が──すなわち、存在了解の存在的可能性が──存在しているかぎりでのみ、存在が<<与えられている>>のである。現存在が実存していないならば、そのときには「独立性」も「存在」しないし、「自体」も「存在」もしない。そのときには、そのようなことは了解可能でも了解不可能でもない。そのときには、内世界的存在者も、発見可能でもなく、また蔽われ隠れていることもありえない。そのときには、存在者が存在するとも、存在者が存在しないとも言うことができない。もっとも、いまは存在了解が存在し、したがって客体制の了解も存在するかぎり、存在者はそのときになお存在するであろうと言うことができるのである。(ちくま学芸文庫「存在と時間 上巻 第六章 第四三節 現存在、世界性および実在性(c)実在性と関心」より』


引用返信/返信 削除キー/
■17373 / inTopicNo.70)  Re[21]: 権力への意志とエリーザベト
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/09(Sat) 20:11:33)
    ■17368、
    >違うねん。ちくま学芸文庫のニーチェ全集第13巻「権力への意志下巻」からの引用です。<
    了解で〜す。

    わたしがしりたかったのは、「ハイデッガー全集の第6−1巻&U巻」に書かれてることについてだったんだけど。
    パニさんのは、
    >個人的にはニーチェが出版を断念した「力への意志」を主著とするハイデッガーの見解には同意できないが、「力への意志」がある種の世界原理のような形而上学的なものとなってしまったことについてはハイデッガーの指摘通りだと思う。形而上学的なものやイデア的なものを否定し糾弾したニーチェが新たな形而上学的な概念をでっちあげてしまうことを危惧し出版を取りやめたのだろう。<
    で、了解で〜す。

    ■17371、
    それにしてもパニさん、ニーチェについての「知識」いっぱいあるね。
引用返信/返信 削除キー/
■17371 / inTopicNo.71)  権力への意志とエリーザベト
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/09(Sat) 18:58:57)
    2021/10/09(Sat) 19:01:31 編集(投稿者)

    ごめん誤入力で妹はエリザベートやなくてエリーザベトね。

    No17370に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■17368、パニさん、ありがとございます。

    どういたしまして。

    >> ちくま学芸文庫のニーチェ全集第13巻「権力への意志 下巻」からの引用です<
    > 了解で〜す。
    > なんか、ニーチェに関して、>妹のエリザベート<って、なんかある感じなんだけど、ま、これは関係ないね。

    せっかくの機会なのでちょい妹のエリーザベトと「権力への意志」に関してのカキコをしておきますが興味ないならスルーしてや。
    以下はPanietzsche Room > ニーチェU > 第十二章 力への意志 > 4.改竄 > からの転記

    ************************************

    ニーチェは友人のオーヴァベック氏、母と妹に次のような手紙を送り主著への意気込みを伝えていた。
    【私のツァラトゥストラによって私の<哲学>のための玄関ホールを建てたので、いよいよこの<哲学>の竣功に次の五年間を費やす決心がついた…。(1884年4月7日、オーヴァべックへの手紙)】

    【今後4年のうちということで、四巻からなる主著の完成が予告されます。その表題だけでも人を怖れさすに足るもので、<力への意志──あらゆる価値転換の試み>というものです。(1886年9月2日、母と妹への手紙)】

    また1887年に刊行された『道徳の系譜 第三論文 27番』では「目下準備中の著作」として『権力の意志 あらゆる価値の価値転換の試み』が紹介されている。

    しかし1888年に入るとこの主著の執筆を中断し、「ワーグナー事件」「ディオニソス頌(賛)歌」「偶像の黄昏」「アンチクリスト」「この人を見よ」「ワーグナー対ニーチェ」を執筆する。
    そして1889年1月3日にトリノのアルベスト広場で昏倒し、二日二晩の昏睡から覚醒したニーチェは既に狂気の闇に沈んでいた。
    その後、約10年間の狂気の闇につつまれた生活が続き、1900年8月25日に死去する。

    一方、ニーチェの妹であるエリーザベトは夫のベルンハルト・フェルスターとともに反ユダヤ主義者、国粋主義者として活動していた。
    パラグアイの山中に「新ゲルマニア」という民族国家を作るための入植者をつのった事業は夫の自殺によって失敗に終わり、ニーチェの発狂後の1893年にエリーザベトは帰国している。

    ニーチェの死後、友人のペーター・ガストの協力を得て1901年に出版された「権力の意志・習作と断片」というタイトルの本は、ニーチェ自身が破棄したり、別のところで用いたメモや、関連のない走り書きや手記、箴言を寄せ集め、そこにあるはずのない秩序をもたせたものでしかなかった。

    後年にはさらに断片が追加され「権力への意志──すべての価値の価値転換」というタイトルに改められ出版された。
    これらの本はアルフレッド・ローゼンベルクやフリッツ・キーゼなどのナチスの御用達理論家によってドイツ「第三帝国」の危機を救済するための全体主義を肯定、合理化する反動理論の提供者としての哲学に仕立てられた。

    ヒットラーはニーチェの死後、エリーザベトによって設立されたワイマルのニーチェ文庫を表敬訪問している。
    現在ではこれらの1880年代の遺稿はすべて年代順に並べられ「遺された断想」として収録されている。

    1930年代後半に、これらの遺稿を手がかりにハイデガーが行った<ニーチェ講義>を自ら編集し出版(ハイデッガー全集 第6−1・6−2 ニーチェ)したことによって、ニーチェの未完の主著である「力への意志」に関する思想が再構成されたとも言われている。

    参考:清水書院刊「人と思想」、大和書房刊「目からウロコが落ちるニーチェ入門」、新書館刊「マッハとニーチェ 世紀転換期思想史」

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■17370 / inTopicNo.72)  Re[19]: ハイデッガーによるニーチェ解説書
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/09(Sat) 18:41:21)
    ■17368、パニさん、ありがとございます。

    >ちくま学芸文庫のニーチェ全集第13巻「権力への意志 下巻」からの引用です<

    了解で〜す。

    なんか、ニーチェに関して、>妹のエリザベート<って、なんかある感じなんだけど、ま、これは関係ないね。

引用返信/返信 削除キー/

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