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Re[43]: 〈私〉についての議論
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□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/01(Mon) 17:45:56)
| パニチェさん
ご承知だと思いますが、 『論考』における“私の世界”とは、“私の言語”が語る世界です。 「語りえぬ世界」というのは語義矛盾です。 したがって、世界とは本質的に言語世界(言語によって語られる世界)のことです。 だからこそ、 言語の論理=世界の論理 のわけです。
ところで、『論考』の独我論は、その要として 私は私の世界である と言われていますから、前述の意味で、 私は私の言語世界である ということになります。 当然、〈私〉が存在するときは言語世界が存在します。 ゆえに、 〈私〉が存在するとき、常に既に、言語が存在します。
というわけで、少なくとも『論考』の〈私〉は、「先言の〈私〉」と同じものではありません。 というより、『論考』の思想によれば世界は本質的に言語世界なので、「言語以前の(言語が存在しない)世界」は語義矛盾であり、(超越論的意味での)言語以前のいかなるものも、思考不可能・言語表現不可能です。 それゆえ、“先言の〈私〉”なるものは、意図されているところでは言語の限界どころか言語を超越していることになると思われますので、だとしたらそれは当然言語によって語りも示しもできません。 よって、「先言の〈私〉」という記号列は端的に無意味であり、言語表現ではありえません。 したがって、この“先言の〈私〉”についての言説は、宗教的言語ゲームではありえても、哲学ではありません(一応、『論考』T.6.53で推奨されている哲学的実践のつもりです)。 そしてもし、それが「言語習得以前の主体」であるのなら、それは発達心理学などの対象になる、語りうる世界内存在者にすぎず、少なくとも『論考』の〈私〉とは何の関係もありません。 ************* 以上です。 歯に衣着せぬ物言い、ご容赦くださいm(__)m
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