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■12650 / inTopicNo.25)  pipitさんへ プロレゴーメナ
  
□投稿者/ うましか -(2021/05/15(Sat) 02:34:46)
    そういえば『純粋理性批判』(初版)の後にカントが著した『プロレゴーメナ』に興味がわいてきました。

    https://www.projekt-gutenberg.org/kant/prolegom/prolegom.html


    タイトルは、

    "Prolegomena zu einer jeden kuenftigen Metaphysik die als Wissenschaft wird auftreten koennen"


    pipitさんがNo.12586であげた御子柴『カント哲学の核心』p.22では、

    『学問として現れ得るだろう、将来のあらゆる形而上学のためのプロレゴーメナ』

    と訳されます。

    Meta-physik (形而上学)については、『カント哲学の核心』p.24〜p.27の御子柴の説明がわりとわかりすいかなー
引用返信/返信 削除キー/
■12668 / inTopicNo.26)  Re[19]: 形而上学的なもの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/15(Sat) 16:26:13)
    ■12644、pipitさま

    >悪魔ちゃんは形而上、と、形而上的なもの、とは区別する?<
    こう聞かれると、うん、区別することになるかな。「形而上」は〈神〉ってなるのかな。
    わたしのばあい“概念”を先にもってこようとしてるなかで(それに名前をつけるのは後でっていうこと)、わたしの概念からすると、それは「神」であるってしちゃうとちょっと違う感じ。だからわたしの概念に近いのは〈神的なもの〉。前に書いたと思うけど、「超越的」と「超越論的」の、前者は〈神的〉後者は〈神のような論的〉っていうのとちょっと似てる。こういうのって〈神対人間〉っていう構図が前提となっている気がするし、わたしのばあいこういうのは描いてない。

    形而上学も現象学絡みで、いろいろ調べて見たなかでのいまのところのまとめを書いて見ます。相互主観的なわたしの、ね。

    〈形而下的なもの〉
    およそこの世のありとあらゆるもの。
    〈この世〉?これに対して〈形而上的なもの〉は〈あの世〉ってなるのかな?ん〜んでもこういう言い方ってわたしにとっては、生きてる世界と死後の世界とか、現世と来世っていうイメージだから、〈形而下的なもの〉を、見えるものとしての〈この世界〉ってひとまずしてる。

    〈形而上的なもの〉
    形而下の上に君臨し、人間も含めてこの世のいっさいをつくり、それをすべて統一し支配しているようなもの。
    人間の感性的経験では知りえないもの。経験的現象の奥にあるもの。
    このようなものが存在するってして、神・霊魂・永遠の世界。
    簡単に、見えないものとして〈神的なもの〉ってひとまずしてる。
    もっとも「神」という語の概念が人それぞれだろうから問題あるけどね。

    わたしの、いまのところこんな感じので〜す。

    だから「形而上学」っていうのは、わたしのばあい、〈神的なものについての学〉ってなる。

    わたし「形而上学」を「形而上」と「学」に分けて見て、でわたし思ったのね。カントってこれまでの「形而上諸学」の〈形而上的なもの〉を批判しようとしたんじゃなくて、これまでの“「学」のやりかた”の方を批判したんじゃないかって。

    あ、ちょとお喋り過ぎちゃっかも。





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■12669 / inTopicNo.27)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/15(Sat) 16:28:22)
    うましかさん、こんばんは(^o^)/

    No12647

    > じつは、、、本日私はみずからの疑問を自分なりに解決したのです。
    >
    > 原佑訳の凡例を確認し、本日とどいた天野貞祐訳(一)の解説を読むことによって。<

    うましかさんは、ひらめきがよくあるのかもしれませんね。



    > けれども、御子柴善之『シリーズ◆世界の思想 カント 純粋理性批判』に書いてあったのですね! この本、私もってるんですが、まだ読まないと決めて温めていました(´;ω;`)ウッ… <

    めっちゃオススメですよ!と言っても、わたしもまだ、演繹論の部分をちょこちょこ読んでるくらいなんですけど(^^;


    > それよりも、今夜眠気が吹っ飛んだのは、カント自身が『純粋理性批判』(第二版)で「項」について言及していること。
    >
    >
    > これにはまいりました。
    > 教えてくださり、ありがとうございます<

    いいなぁ、わたしはその箇所読んでも、眠気が吹っ飛ぶ衝撃は受けなかったのですが、
    うましかさんには、その衝撃が来たのでしょうね。
    想像なんですが、!!!!となる瞬間ってあって、それって、めっちゃ、!!!!ですよね〜(なんちゅー表現力(~_~;))
    理解が差し込まれる、というか
    ひらめき、なのかなぁ
    人それぞれのタイミングで、人それぞれにとっての意義で、それぞれの縁で、閃くのかなぁと想像してます。
    眠気吹っ飛ぶ衝撃来て、よかったですね(#^.^#)


    > はやくカント沼でバタ足できるようにがんばりまーす!<

    もう全然泳ぎだしてるんじゃないですかね(^_^)
    この前思ってたんですけど、私たちの理解が変容することによって、
    泥沼(に見えたもの)が、透き通った美しい湖に変わるといいなぁ、って。

    お互い、それぞれに有意義な学びとなりますように。

    ありがとうございます!
引用返信/返信 削除キー/
■12670 / inTopicNo.28)  Re[19]: pipitさんへ プロレゴーメナ
□投稿者/ pipit -(2021/05/15(Sat) 16:33:45)
    No12650に返信(うましかさんの記事)
    > そういえば『純粋理性批判』(初版)の後にカントが著した『プロレゴーメナ』に興味がわいてきました。
    >
    > https://www.projekt-gutenberg.org/kant/prolegom/prolegom.html
    >
    >
    > タイトルは、
    >
    > "Prolegomena zu einer jeden kuenftigen Metaphysik die als Wissenschaft wird auftreten koennen"
    >
    >
    > pipitさんがNo.12586であげた御子柴『カント哲学の核心』p.22では、
    >
    > 『学問として現れ得るだろう、将来のあらゆる形而上学のためのプロレゴーメナ』
    >
    > と訳されます。
    >
    > Meta-physik (形而上学)については、『カント哲学の核心』p.24〜p.27の御子柴の説明がわりとわかりすいかなー<

    うましかさん、ありがとうございます!

    おお!読み直しましたが、この記述内容、思い出せてませんでした(汗)
    とても参考になります、教えてもらってありがとうございます!


引用返信/返信 削除キー/
■12672 / inTopicNo.29)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/15(Sat) 16:46:13)
    こんばんは、質問に答えてくれてありがとう!!

    No12668に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■12644、pipitさま
    >
    > >悪魔ちゃんは形而上、と、形而上的なもの、とは区別する?<
    > こう聞かれると、うん、区別することになるかな。「形而上」は〈神〉ってなるのかな。
    > わたしのばあい“概念”を先にもってこようとしてるなかで(それに名前をつけるのは後でっていうこと)、わたしの概念からすると、それは「神」であるってしちゃうとちょっと違う感じ。だからわたしの概念に近いのは〈神的なもの〉。前に書いたと思うけど、「超越的」と「超越論的」の、前者は〈神的〉後者は〈神のような論的〉っていうのとちょっと似てる。こういうのって〈神対人間〉っていう構図が前提となっている気がするし、わたしのばあいこういうのは描いてない。<

    そうなんやー、そういうふうに考えてるんやね!
    教えてくれてありがとう

    > 形而上学も現象学絡みで、いろいろ調べて見たなかでのいまのところのまとめを書いて見ます。相互主観的なわたしの、ね。
    >
    > 〈形而下的なもの〉
    > およそこの世のありとあらゆるもの。
    > 〈この世〉?これに対して〈形而上的なもの〉は〈あの世〉ってなるのかな?ん〜んでもこういう言い方ってわたしにとっては、生きてる世界と死後の世界とか、現世と来世っていうイメージだから、〈形而下的なもの〉を、見えるものとしての〈この世界〉ってひとまずしてる。
    >
    > 〈形而上的なもの〉
    > 形而下の上に君臨し、人間も含めてこの世のいっさいをつくり、それをすべて統一し支配しているようなもの。
    > 人間の感性的経験では知りえないもの。経験的現象の奥にあるもの。
    > このようなものが存在するってして、神・霊魂・永遠の世界。
    > 簡単に、見えないものとして〈神的なもの〉ってひとまずしてる。
    > もっとも「神」という語の概念が人それぞれだろうから問題あるけどね。
    >
    > わたしの、いまのところこんな感じので〜す。<

    そうかぁ
    すべての原因、すべての根本、みたいなかんじなのかなぁと思ったよ。


    > だから「形而上学」っていうのは、わたしのばあい、〈神的なものについての学〉ってなる。
    >
    > わたし「形而上学」を「形而上」と「学」に分けて見て、でわたし思ったのね。カントってこれまでの「形而上諸学」の〈形而上的なもの〉を批判しようとしたんじゃなくて、これまでの“「学」のやりかた”の方を批判したんじゃないかって。<

    そうだね、最後の行、わたしも悪魔ちゃんと同じ意見だよ。

    なるほどー。

    また、後で、カントの文章探してみるよ!
    いったん離れるねー
    おつかれさま〜(^o^)/

引用返信/返信 削除キー/
■12673 / inTopicNo.30)  Re[20]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/15(Sat) 17:34:07)
    ■12672、
    >そうかぁ<
    そうよ。
    わたしのはね。

引用返信/返信 削除キー/
■12728 / inTopicNo.31)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/16(Sun) 13:20:06)
    悪魔ちゃん、こんにちは。

    カントの念頭には、《形而上学》という対象が強固に存在するようで、見つける文章は、今のところ、「形而上」ではなく、「学」のくっついた《形而上学》という言葉ばかりなんだよ〜。

    悪魔ちゃんは
    No.12668で、形而上的なもの、の説明の中で、

    >人間の感性的経験では知りえないもの。経験的現象の奥にあるもの。<

    と、書いてくれたね。
    わたしは、カントにとっての「形而上」も、そのような理解でいいのではないかと思ってるんよ。

    悪魔ちゃんの定義のとき、形而上についてのアレコレは、考えることでしか得られないよね。
    「人間の感性的経験では知り得ないもの。」についての考察なんだから(非・感性的経験)、頭で考えた概念で知るしかない、と、わたしは思うんだけど、悪魔ちゃんはどう思う?

    カントは、第二版の序文で次のように言ってる。
    『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p154より引用。

    (引用開始)
    『しかし形而上学は、まったく孤立した思考による理性認識であるから、経験が教えることをまったく超越して、たんなる概念だけによって認識するものである(これが、概念を直観に適用して認識する数学との違いである)。』
    (引用終了)

    カントが、第二版序論で、形而上的なものの例示としてあげてるのが、【神、自由、不死】で、その部分を引用させてもらうね。[ ]は中山先生による補足です。

    中山元先生訳、同上本、p26より引用

    (引用開始)
    『純粋理性にとって避けることのできない課題とは、神、自由、[霊魂の]不死である。
    この課題を究極の目的として、すべての準備をそなえて、ひたすらこの課題の解決を目指す学問を形而上学と呼ぶ。
    この学のとる方法は、最初は独断論的である。
    すなわち、理性にこのような大事業を実行するだけの能力がそなわっているかどうかをあらかじめ吟味せずに、確信をもってこの事業を遂行しようとするのである。』
    (引用終了)

    人間に形而上学は可能なのか?

    形而上学とは、純粋(非経験的)な理性認識(考えて結論を出すこと)

    形而上学を構築する純粋理性を、【批判(能力の吟味)】する目的で書かれたのが、『純粋理性批判』だと思ってます。

    なぜ、このような予備学(批判)を行ったのか。
    それは、カントが【形而上学】を棄ててないから。
    形而上学が、智慧であり得る可能性をもつと考えているから、だと、わたしは思いました。

    智慧とは、生きている上で何をすべきか、何をすべきでないのか、を理解し実行できる能力かなぁ
    ここらへんは、まだわかんないです。

    悪魔ちゃんの問いかけに、ズバリと呼応した書き込みになってないと思うんだけど、ごめんね。


引用返信/返信 削除キー/
■12730 / inTopicNo.32)  形而上、と、形而上学
□投稿者/ pipit -(2021/05/16(Sun) 14:03:00)
    んー、
    No.12650で、うましかさんが、 

    > Meta-physik (形而上学)については、『カント哲学の核心』p.24〜p.27の御子柴の説明がわりとわかりすいかなー<

    と書いてくださってて、その文章を読んでいて思ったことは、
    もしかしたら、メタ・フィジック、は、形而上、とも、形而上学とも両方どちらの訳でもいけるのかなー、とも思うんだよねー。

    『カント哲学の核心『プロレゴーメナ』から読み解く』御子柴善之先生著、NHK出版、p26.27から引用します。

    (御子柴善之先生の解説文章)
    『(略)このような問題意識は私たちを、自分が見たり聞いたり触ったりしている領域『形而下の領域)から、見ることも聞くことも触ることもできない領域(形而上の領域)へと連れ出す。
    これはフィジックス(自然学)の領域からメタ-フィジックス(超-自然学)の領域への移行である。
    かくして、私たちは移ろいやすい世界を超えたところに移ろわざるものを考えることになる。
    ここに「形而上学(metaphysics,Metaphysik)」と呼ばれる学問が成立するのである。』
    (引用終了)
引用返信/返信 削除キー/
■12734 / inTopicNo.33)  『学』についてのカントの言説
□投稿者/ pipit -(2021/05/16(Sun) 14:18:31)
    前に投稿したものを再引用します。

    No.12096

    >カントの『純粋理性批判』のかなり最後の方に、この『学』についてのカントの考え方が記されてるみたい。

    光文社古典新訳文庫の中山元先生訳では、第7巻のp225(B860あたり)〜

    で、少しだけ中山先生の訳文を抜粋引用するね。

    『このような体系的な統一があってこそ、一般的な認識を初めて〈学〉に構築することができるのであり、』

    『体系とは、多様な認識が一つの理念のもとで統一されることを意味する。』

    『すべての部分は、この目的における統一にかかわるのであり、この目的理念においてたがいに関連しあう。』

    『だからこの全体的な体系はたんに集積されたものではなく、内的な構造をもつものである。』

    『これは動物の身体のようなものであり、成長するときに新たな肢体が追加されることはなく、[それぞれの肢体の]比率を変えずに、それぞれの肢体がその目的に合わせて、さらに強くなり、逞しくなるだけなのである。』

    『あらかじめ一つの理念を根拠とせずに、学を構築しようと試みた者はいない。しかし学が構築されてみると、そうした図式が、学を構築しようと試みた者の理念と一致していることは、さらに最初に示した定義と一致していることは、きわめて稀である。というのはこの理念は、理性のうちに萌芽のように存在するものであり、この萌芽においてはすべての部分はまだ十分に発達しないままに秘して蔵されていて、顕微鏡で調べてみても、見分けることができないほどに隠されているからだ。』

    『きわめて残念なことなのだが、わたしたちが学の理念を明るい光のうちで初めて眺めることができ、その学の全体を理性の目的にしたがって、建築術的に設計できるようになるまでは、長い時間がかかる。わたしたちは自分のうちにひそんだままになっている理念の指示に導かれて、関連のある多数の認識を断片的に寄せ集め、さらに長い時間をかけて、技術的に組み立てた後で、やっと建築術的に学を設計できるようになるものである』

    『わたしたちはここでは、自分の仕事、すなわち純粋理性に基づいて、すべての認識を設計するための建築術を構想するという仕事を完成することだけで満足しよう。』<


    今のところの私見

    形而上についてのあれこれの認識を、
    目的理念のもとに統一的、有機的に体系化する。

    まるで智慧という一個体の生命体のように

    それが、カントの目指した、形而上学なんだろうか、と、うっすら思いましたが、
    全然違うかもです m(_ _)m

引用返信/返信 削除キー/
■12735 / inTopicNo.34)  pipitさんへ 「経験」をめぐるあれこれ
□投稿者/ うましか -(2021/05/16(Sun) 14:34:33)
    こんにちは。pipitさん。
    おじゃまします。

    *******

    pipitさんの問い「形而上学的演繹と超越論的演繹の位置関係」について、まだカントの本文もろくに読まないうちから興味がわいたのはよいのですが、カントの言葉(翻訳ですが)のあまりの分かりづらさに一時は途方にくれていました。

    しかしpipitさんからいただいたいろいろなヒントなどを参考に、資料をコツコツ集め、とりあえず外堀を埋めている感じです。

    No.12322
    No.12327
    No.12329
    No.12332

    あらためて『純粋理性批判』そのものにふれるにつれ最近とくに感じるのは、カントは「経験 Erfahrung」、「経験的 empirisch」と相対するとおもわれる表現を幾通りにもつかっており、慣れない私にとってこれらが読みづらさの原因になっています。

    対処療法としてカントがいう定義めいた言葉で当てはめて読めばいいだけじゃないの?という声もありそうですが、私の場合それではたりない。というわけで、今後はこうした私にとっての厄介ごとについて考えていきたいとおもいます。

    まずはこれら厄介な表現をおもいつくままに。

    ◇ a priori   
    ◇ rein   
    ◇ transzendent、transzendental

    ついでに、

    ◇ metaphysisch、Metaphysik

    も。

    https://www.linguee.com/


    たとえば、カントははやくも序論 Einleitung (第二版)の冒頭でつぎのようにいうわけですが、いまだにしっくりこないわけですね(´;ω;`)ウゥゥ


    >あらゆる私たちの認識が経験でもって始まるということ、このことには全然疑いの余地はない。<
    >それゆえ、“時間的には“私たちの内なるいかなる認識も経験に先行することはなく、だからあらゆる認識は経験でもって始まる。<

    >しかし、たとえあらゆる私たちの認識が経験”でもって”始まるにせよ、それだからといって、あらゆる私たちの認識が経験”から”発するのでは必ずしもない。<

    >はたして、経験に依存せず、感官のあらゆる印象にすら依存しないそのような認識があるかどうかは、<
    >そうした認識は、”ア・プリオリ”と名づけられ、<

    →原佑訳上巻、p.77〜p.82参照

    *******


    まずはここまで〜 つかれた(;゚Д゚)


    それでは〜

引用返信/返信 削除キー/
■12739 / inTopicNo.35)  pipitさんへ カントにそくして
□投稿者/ うましか -(2021/05/16(Sun) 15:20:23)
    こんにちは。pipitさん。
    こちらに追記しておきまーす。

    *******

    黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』(講談社選書メチエ)は持っておられますか?

    同書p.93〜p.94で、カントの「形而上学」に対する「二つの方向への関心」が簡潔にまとめられています。

    持っておられなかったら、いってくださいませm(__)m
    引用します(^^)/



    それでは〜
引用返信/返信 削除キー/
■12744 / inTopicNo.36)  うましかさんへ 「経験」をめぐるあれこれ
□投稿者/ pipit -(2021/05/16(Sun) 18:03:19)
    こんばんは♪
    うましかさん、、、いろいろ理解はやすぎ!!でびっくりしてますよーΣ(゚д゚lll)


    No12735に返信(うましかさんの記事)
    > こんにちは。pipitさん。
    > おじゃまします。
    >
    > *******
    >
    > pipitさんの問い「形而上学的演繹と超越論的演繹の位置関係」について、まだカントの本文もろくに読まないうちから興味がわいたのはよいのですが、カントの言葉(翻訳ですが)のあまりの分かりづらさに一時は途方にくれていました。<

    やゃ、、、超速に思えるのは、私が遅いから、相対的にそう思えるのでしょうか?
    ((((;゚Д゚)))))))


    > しかしpipitさんからいただいたいろいろなヒントなどを参考に、資料をコツコツ集め、とりあえず外堀を埋めている感じです。
    >
    > →No.12322
    > →No.12327
    > →No.12329
    > →No.12332
    >
    > あらためて『純粋理性批判』そのものにふれるにつれ最近とくに感じるのは、カントは「経験 Erfahrung」、「経験的 empirisch」と相対するとおもわれる表現を幾通りにもつかっており、慣れない私にとってこれらが読みづらさの原因になっています。<

    普通、最初はそこに引っかかることもできないのではないかと思うわたしでありました。
    え〜?
    哲学は、カントの他には興味持って触れたものありますか?
    (スルーでもいいですよ(^_^))
    わたしがカントに最初に触れた時は、本当にちんぷんかんぷんだったなぁ

    > 対処療法としてカントがいう定義めいた言葉で当てはめて読めばいいだけじゃないの?という声もありそうですが、私の場合それではたりない。というわけで、今後はこうした私にとっての厄介ごとについて考えていきたいとおもいます。<

    わたし自身はまだ理解できてないのですが、
    「経験」をめぐるあれこれは、カント哲学を理解するための、ちょーーー重要ポイントになりそうですよね。
    御子柴善之先生の『カント哲学の核心』では、p119〜(知覚判断と経験判断(§18、§19))とか、
    中山先生訳の第二巻『純粋理性批判2』p291〜の解説(知覚判断と経験判断)なんかが把握できたらいいなとは思うものの、まだ読み込めてません(OvO)
    遠い〜〜〜

    > まずはこれら厄介な表現をおもいつくままに。
    >
    > ◇ a priori   
    > ◇ rein   
    > ◇ transzendent、transzendental
    >
    > ついでに、
    >
    > ◇ metaphysisch、Metaphysik
    >
    > も。
    >
    > https://www.linguee.com/
    >
    >
    > たとえば、カントははやくも序論 Einleitung (第二版)の冒頭でつぎのようにいうわけですが、いまだにしっくりこないわけですね(´;ω;`)ウゥゥ
    >
    >
    > >あらゆる私たちの認識が経験でもって始まるということ、このことには全然疑いの余地はない。<
    > >それゆえ、“時間的には“私たちの内なるいかなる認識も経験に先行することはなく、だからあらゆる認識は経験でもって始まる。<
    >
    > >しかし、たとえあらゆる私たちの認識が経験”でもって”始まるにせよ、それだからといって、あらゆる私たちの認識が経験”から”発するのでは必ずしもない。<
    >
    > >はたして、経験に依存せず、感官のあらゆる印象にすら依存しないそのような認識があるかどうかは、<
    > >そうした認識は、”ア・プリオリ”と名づけられ、<
    >
    > →原佑訳上巻、p.77〜p.82参照<

    言葉で自分の考えてることを伝えるのって、すごく難しく思う時があります。
    伝える、という時、少なくとも二者いて、言葉についての共通の認識を持つ努力をしなくてはならない。
    おもしろい、と、大変、の裏表を思います。
    カント先生は、一所懸命努力してるとは思うんですけど、
    なかなかわたしはわかってあげれなーい σ(^_^;)


    > まずはここまで〜 つかれた(;゚Д゚)
    >
    >
    > それでは〜<

    うましかさん、すごすぎません ?

    読解、おつかれさま !!
引用返信/返信 削除キー/

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