(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 最新記事及び返信フォームをトピックトップへ ]

■12889 / inTopicNo.61)  Re[13]: pipitさまへ
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/20(Thu) 19:23:56)
    ■12882 、pipitさま、ありがとございます。

    もう一ついい?

    メルポンの『行動の構造』の訳注に、
    《カントの有名な言葉。直観に与えられる多様な表象が綜合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない、というわけであるkritik der reinen Vernunft,B.132」。」…》

    ってあっるんだけど、これほんとなのかしら?

    「演繹」より、こっちの方が気になるんで、もしよろしかったら、こっち先にしてもらうとありがたいんだけど。

    気が向いたら、で。


引用返信/返信 削除キー/
■12900 / inTopicNo.62)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/20(Thu) 21:06:29)
    おつかれ〜(^_^)

    No12889に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■12882 、pipitさま、ありがとございます。
    >
    > もう一ついい?
    >
    > メルポンの『行動の構造』の訳注に、
    > 《カントの有名な言葉。直観に与えられる多様な表象が綜合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない、というわけであるkritik der reinen Vernunft,B.132」。」…》
    >
    > ってあっるんだけど、これほんとなのかしら?
    >
    > 「演繹」より、こっちの方が気になるんで、もしよろしかったら、こっち先にしてもらうとありがたいんだけど。
    >
    > 気が向いたら、で。<

    りょうかい! 後で見てみるね〜 (^o^)/
引用返信/返信 削除キー/
■12907 / inTopicNo.63)  pipitさんへ 変化球→後逸(;´・ω・)?
□投稿者/ うましか -(2021/05/20(Thu) 21:22:31)
    こんばんは。pipitさん。
    おじゃまします。

    *******

    >なんとなく、仏教、というものを感じる

    ありがとうございます!
    でも、、、私には「仏教」ってぜんぜんわからないのです(´;ω;`)ウゥゥ

    しかもお坊さんや仏教研究者?の著したもの(新書レベルしか開いたことありませんけど^^;)に、正直いって現時点で魅かれるものはありません。

    というわけで、pipitさんが私とのあいだの、どのようなことについて「仏教、というもの」を感じられたのか、よくわからないのです。

    そこで、もしよろしければ、どのようなことについてそう思われたのか、またそれを「仏教」と表現された理由を教えてくだされば幸いです。

    とはいっても私自身はpipitさんの感性をだいじにしたいので、「だってそう感じたんだもん!」ということであれば後はスルーでも全然かまいません(;´・ω・)

    さて(今回の変化球の)本題にはいります。

    pipitさんは、カントのいう「経験」を仏教用語の「触(そく、巴: phassa, 梵: sparsa)」と置き換える試みをされています。

    「触」とは、

    >六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触

    とのこと。「触」は接触、つまり何らかの対象が感官と接すること、触れることと解してもよいでしょうか。これを「経験」と置き換えるのが可能と考えたのは、両者を同じ、あるいは類似と考えたからでしょうか。

    もちろん、上のような理由でなくとも置き換えること自体の自由やその楽しさはあるとおもいます。
    けれど私は「経験」という認識における或る種のプロセスと「接触」という点的な概念(※私なりの解釈です)とは区別したいなとおもいます。

    とはいえ、pipitさんの変化球を楽しんでもみたい(^^♪
    カント沼のカントさんに怒られるかもしれませんが、ちょっとイタズラしてみます。

    *******

    >あらゆる私たちの経験が『接触』でもって始まるということ、このことには全然疑いの余地はない。それゆえ、“時間的には“私たちの内なるいかなる経験も『接触』に先行することはなく、だからあらゆる経験は『接触』でもって始まる。

    >しかし、たとえあらゆる私たちの経験が『接触』”でもって”始まるにせよ、それだからといって、あらゆる私たちの経験が『接触』”から”発するのでは必ずしもない。

    >はたして、『接触』に依存せず、感官のあらゆる印象にすら依存しないそのような経験があるかどうか



    ???(-_-;)
    おしまーい


    それでは〜


引用返信/返信 削除キー/
■12918 / inTopicNo.64)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/20(Thu) 22:11:23)
    うましかさん、こんばんは〜

    No12907に返信(うましかさんの記事)
    > こんばんは。pipitさん。
    > おじゃまします。
    >
    > *******
    >
    > >なんとなく、仏教、というものを感じる
    >
    > ありがとうございます!
    > でも、、、私には「仏教」ってぜんぜんわからないのです(´;ω;`)ウゥゥ
    >
    > しかもお坊さんや仏教研究者?の著したもの(新書レベルしか開いたことありませんけど^^;)に、正直いって現時点で魅かれるものはありません。
    >
    > というわけで、pipitさんが私とのあいだの、どのようなことについて「仏教、というもの」を感じられたのか、よくわからないのです。
    >
    > そこで、もしよろしければ、どのようなことについてそう思われたのか、またそれを「仏教」と表現された理由を教えてくだされば幸いです。
    >
    > とはいっても私自身はpipitさんの感性をだいじにしたいので、「だってそう感じたんだもん!」ということであれば後はスルーでも全然かまいません(;´・ω・)<

    勘違いすみませんでしたm(_ _)m
    では、どうしてそう思ったかは、スルーでお願いします。

    > さて(今回の変化球の)本題にはいります。
    >
    > pipitさんは、カントのいう「経験」を仏教用語の「触(そく、巴: phassa, 梵: sparsa)」と置き換える試みをされています。
    >
    > 「触」とは、
    >
    > >六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触
    >
    > とのこと。「触」は接触、つまり何らかの対象が感官と接すること、触れることと解してもよいでしょうか。これを「経験」と置き換えるのが可能と考えたのは、両者を同じ、あるいは類似と考えたからでしょうか。<

    カント哲学における『経験』と、仏教用語の『触』が類似と考えてるのではなく、
    うましかさんが引用してくださった文面での経験を、『触』のイメージで読めばわかりやすいかな、と、その時は考えました。


    > もちろん、上のような理由でなくとも置き換えること自体の自由やその楽しさはあるとおもいます。
    > けれど私は「経験」という認識における或る種のプロセスと「接触」という点的な概念(※私なりの解釈です)とは区別したいなとおもいます。<

    はい。


    > とはいえ、pipitさんの変化球を楽しんでもみたい(^^♪
    > カント沼のカントさんに怒られるかもしれませんが、ちょっとイタズラしてみます。
    >
    > *******
    >
    > >あらゆる私たちの経験が『接触』でもって始まるということ、このことには全然疑いの余地はない。それゆえ、“時間的には“私たちの内なるいかなる経験も『接触』に先行することはなく、だからあらゆる経験は『接触』でもって始まる。
    >
    > >しかし、たとえあらゆる私たちの経験が『接触』”でもって”始まるにせよ、それだからといって、あらゆる私たちの経験が『接触』”から”発するのでは必ずしもない。
    >
    > >はたして、『接触』に依存せず、感官のあらゆる印象にすら依存しないそのような経験があるかどうか
    >
    >
    >
    > ???(-_-;)
    > おしまーい<

    了解です!
    おつかれさまです。

    それでは〜
引用返信/返信 削除キー/
■12923 / inTopicNo.65)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/20(Thu) 23:38:15)
    今度は仏教用語なしで、今のところの私見書くことにチャレンジしてみますね(^_^)

    中山先生の001冒頭は、

    『わたしたちのすべての認識は経験とともに始まる。これは疑問の余地のないところだ。認識能力が対象によって呼び覚まされて活動し始めるのでなければ、そもそも何によって動き始めるというのであろうか。対象はわたしたちの感覚を触発するが(略)』
    『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p15より引用

    ですね。

    この文章においては、認識能力が対象によって呼び覚まされて活動し始めることを、経験とともに始まる、と、言っているのかな、と、わたしは思いました。

    カント哲学では、人間は、物自体に触発されて現象を得る、という構図になってると思っていますが、

    対象がわたしたちの感覚を触発することから、人間の認識能力が呼び覚まされる、

    そこから始まるものの、

    触発されて、わたしたちにどのような表象が現れるか、という主導権は、表象に関しては、対象によって呼び覚まされる・の・対象(物自体)が完全に握っているわけではなく、
    わたしたちがアプリオリに持つ認識の形式(感性における時空形式や思考における概念把握形式)【も】、わたしたちの実際に得る表象(現象)に関しては寄与している。

    そのことを、『すべての認識が経験から生まれるわけではない。』と言っているのかな、と、今のところ思いました。

    全ては経験から生まれるという経験論への反論も意識して、この文章を記述したのかな?とも思いました。

    いろいろ勘違いしててすみませんでしたm(_ _)m
    またまた勘違いしてたらすみません!

    おつかれさまです(^_^)
引用返信/返信 削除キー/
■12925 / inTopicNo.66)  経験論に対して
□投稿者/ pipit -(2021/05/21(Fri) 00:13:13)
    すべての認識は経験から生まれるという経験論に対して、

    経験に出自を持たない認識がある。

    そしてその認識が、経験を成り立たせているのである。

    とするのが、カント哲学なのかなあ?

    と思いました。

    間違えてたらすみません〜

    みなさま、おやすみなさーい ☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■12986 / inTopicNo.67)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/21(Fri) 22:00:22)
    No12889に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■12882 、pipitさま、ありがとございます。
    >
    > もう一ついい?
    >
    > メルポンの『行動の構造』の訳注に、
    > 《カントの有名な言葉。直観に与えられる多様な表象が綜合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない、というわけであるkritik der reinen Vernunft,B.132」。」…》
    >
    > ってあっるんだけど、これほんとなのかしら?
    >
    > 「演繹」より、こっちの方が気になるんで、もしよろしかったら、こっち先にしてもらうとありがたいんだけど。
    >
    > 気が向いたら、で。<

    こんばんは〜
    what でも引用したけど、
    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p116より引用
    『わたしは考えるということは、わたしが心の中で思い描くすべての像に伴うことができるのでなければならない。(略)すべての思考に先立って与えられうる像は直観と呼ばれる。だから直観に含まれるすべての多様なものは、この多様なものが発生する主体におけるわたしは考えるということと、必然的に結びついている。』
    引用終了。

    だね。


引用返信/返信 削除キー/
■12987 / inTopicNo.68)  演繹
□投稿者/ pipit -(2021/05/21(Fri) 22:12:47)
    演繹という言葉をカントが自分で説明してる箇所は、

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p91.92より引用。
    『法学の理論書においては、権限と越権について論じるときに、ある訴訟について何が合法的に認められているか(権利問題)と、事実はどうであるか(事実問題)を区別し、それぞれについて証明を求めるのである。そして権利問題については権限の証明や権利要求の証明を根拠づけ[=演繹]と呼ぶのである。』
    引用終了

    です。
引用返信/返信 削除キー/
■12989 / inTopicNo.69)  Re[16]: 演繹
□投稿者/ pipit -(2021/05/21(Fri) 22:56:10)
    No12987に返信(pipitさんの記事)
    > 演繹という言葉をカントが自分で説明してる箇所は、
    >
    > 『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p91.92より引用。
    > 『法学の理論書においては、権限と越権について論じるときに、ある訴訟について何が合法的に認められているか(権利問題)と、事実はどうであるか(事実問題)を区別し、それぞれについて証明を求めるのである。そして権利問題については権限の証明や権利要求の証明を根拠づけ[=演繹]と呼ぶのである。』
    > 引用終了
    >
    > です。

    ちょっとこれだけやと、???やよね?(^^;

    また、調べて自分なりにもう少しわかるように書こうかな、と、思ってます。

    今日はごめんね(?)、眠くて眠くて、おやすみ〜〜☆彡 (( _ _ ))..zzzZZ
引用返信/返信 削除キー/
■12990 / inTopicNo.70)  Re[17]: 演繹
□投稿者/ pipit -(2021/05/21(Fri) 23:01:48)
    No.12989
    改めて、読んで、
    わたしの引用不足やと思う。ごめん。
    またちゃんとわかるように、引用する箇所、他のところも探してみるね!
引用返信/返信 削除キー/
■13004 / inTopicNo.71)  pipitさんへ 
□投稿者/ うましか -(2021/05/22(Sat) 09:07:03)
    おはようございます。pipitさん。
    おじゃまします。

    >すべての認識は経験から生まれるという経験論に対して、経験に出自を持たない認識がある。そしてその認識が、経験を成り立たせているのである。とするのが、カント哲学
    No.12925

    (;゚Д゚)
     
    pipitさんのまとめ力、すごいなあ!

    「経験論」を、カント哲学が一刀両断ってかんじですね。

    それにくらべて私はというと、霧中で棒切れを振り回している。。。

    *******

    ああ、pipitさん!(´;ω;`)ウッ…
    私はまさに今カント沼でおぼれています。

    というのも、カントのいう「経験」ってなに?と考えていたら、
    そもそもカントはなんで「認識」なんだろう?なんてことを考えだしてしまった!

    ※ちなみに、「経験」については、今、中山元訳1、p.275〜を読んでいます。中山はカントのいう「経験」を日本語の文脈で理解するなと注意してくれてました〜m(__)m


    とにかく、まずは序論(第二版)の冒頭を引用してみます。


    >第1節 純粋な認識と経験的な認識の違いについて
    わたしたちのすべての認識は経験とともに始まる。これは疑問の余地のないところだ。認識能力が対象に呼び覚まされて活動し始めるのでなければ、そもそも何によって働き始めるというのだろうか。対象はわたしたちの感覚を触発するが、対象みずからが感覚のうちに像を作りだすか、人間の知性のもつ能力に働きかけるのである。働きかけられた知性は、対象の像を比較し、これらを結びつけたり分離したりすることで、感覚的な印象という生の素材から、対象の認識そのものを作りあげるのであり、この活動が経験と呼ばれる。だからわたしたちの認識において、時間的に見て、経験に先立つものは何もない。すべてが経験とともに始まるのである。
    このようにわたしたちのすべての認識が経験とともに始まるとしても、すべての認識が経験から生まれるわけではない。<
    → 中山元訳1、p.15〜p.16、※ただし[]内は省略

    >I. Von dem Unterschiede der reinen und empirischen Erkenntnis
    Dass alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anfange, daran ist gar kein Zweifel; denn wodurch sollte das Erkenntnisvermoegen sonst zur Ausuebung erweckt werden, geschaehe es nicht durch Gegenstaende, die unsere Sinne ruehren und teils von selbst Vorstellungen bewirken, teils unsere Verstandestaetigkeit in Bewegung bringen, diese zu vergleichen, sie zu verknuepfen oder zu trennen, und so den rohen Stoff sinnlicher Eindruecke zu einer Erkenntnis der Gegenstaende zu verarbeiten, die Erfahrung heisst? Der Zeit nach geht also keine Erkenntnis in uns vor der Erfahrung vorher, und mit dieser faengt alle an.
    Wenn aber gleich alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anhebt, so entspringt sie darum doch nicht eben alle aus der Erfahrung. <
    https://www.gutenberg.org/cache/epub/6343/pg6343.html

    >I. Of the difference between Pure and Empirical Knowledge
    That all our knowledge begins with experience there can be no doubt. For how is it possible that the faculty of cognition should be awakened into exercise otherwise than by means of objects which affect our senses, and partly of themselves produce representations, partly rouse our powers of understanding into activity, to compare to connect, or to separate these, and so to convert the raw material of our sensuous impressions into a knowledge of objects, which is called experience? In respect of time, therefore, no knowledge of ours is antecedent to experience, but begins with it.
    But, though all our knowledge begins with experience, it by no means follows that all arises out of experience.<
    https://www.gutenberg.org/files/4280/4280-h/4280-h.htm#chap33


    カントのいう "Erfahrung"は、"experience"と英訳され、和訳では「経験」と訳されてます。

    カントのいう"Erkenntnis"、 和訳では「認識」とされるものが、英訳では、"knowledge"と訳されたり、別の英訳では、"cognition"と訳されています。

    独英辞書でしらべるとどちらもオッケーなんだけど、カント哲学としてはどちらがより適切なんだろう?



    うーん、つかれた!

    とりあえずここまで〜






引用返信/返信 削除キー/
■13009 / inTopicNo.72)  決めた! こうなったら一点集中( ;∀;)
□投稿者/ うましか -(2021/05/22(Sat) 13:01:23)
    カント沼でバタ足ができるようになるために、非力な私は「序論 Einleitung」(第一版、第二版)にしぼってチャレンジすることにしま〜す(´;ω;`)ウゥゥ

    『純粋理性批判』翻訳書は、おもに原佑訳上巻p.77〜p.142を読んでいきます。

    参考文献はたとえば、
    ◇中山元訳1、p.271〜p.314
    ◇御子柴善之『カント 純粋理性批判』p.53〜p.81




引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>

[このトピックに返信]
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -