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■12586 / inTopicNo.13)  Re[11]: 概念の分析論
  
□投稿者/ pipit -(2021/05/12(Wed) 17:17:57)
    2021/05/12(Wed) 17:21:56 編集(投稿者)

    御子柴善之先生は、形而上学的演繹に該当する箇所を、
    中山元先生よりもう少し広くとって考えられているようです。

    『「形而上学的演繹」(B159に見られる表現)と呼ばれる箇所(特に§9と§10)』
    と書かれており、(御子柴善之先生著、『カント哲学の核心 『プロレゴーメナ』から読み解く』NHK出版、p37参照)

    それを中山先生の通し番号に変換すれば、
    おそらくですが、
    103〜119(中山元先生訳『純粋理性批判2』カント、光文社古典新訳文庫、p53〜78)
    に相当するのではないかと思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■12591 / inTopicNo.14)  Re[10]: 概念の分析論
□投稿者/ おくたがわ -(2021/05/12(Wed) 19:01:36)
    No12584に返信(pipitさんの記事)

    こんばんは。
    別な訳も照らし合わせたいという気持ちが強くなって、平凡社の原佑訳をネットで注文してしまいました。調べたところ評判も上位で自分の目的にも合いそうと思い。あと、英訳のものはやはり信頼度高いとされてるみたいですね。
    訳を見たいところがあれば引用しますと以前言っていただきましたが、見たいところが多すぎなので。
    なんでこんなに純粋理性批判に入り込んでるのか分かりませんが自分(´Д`ι)
    そして早く見たいと楽しみにしている。こういうのは久しぶり。

    > その前の記述、中山先生の通し番号102「知性と判断」の箇所(第二巻p49〜52)の箇所を理解したい。
    > おくたがわさんが書き込んでくださっていたところですね(^_^)

    英訳と中山さんでかなり違う部分について原文まで調べていただいてありがとうございました。やはり英訳が直訳に近く、中山さんがかなり意訳のようでしたね。
    そういうところも原さんたちはどう訳しているか見るのが楽しみです。

    あと、その部分に出てくる「わたしたちが経験するさまざまな現象(phenomena)」についての自分の解釈は間違っていたらしいと、ほかの部分を見ていて思いました。もっと全体を理解してから投稿しないといけないなと。
引用返信/返信 削除キー/
■12596 / inTopicNo.15)  Re[11]: 形而上学的演繹
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/12(Wed) 19:39:59)
    pipitさま、お邪魔するね。

    カントさんが使う「形而上」とか「演繹」っていう用語、カントさんのはどういう意味で使ってるのか、なんか言ってる?




引用返信/返信 削除キー/
■12606 / inTopicNo.16)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/12(Wed) 22:39:51)
    おくたがわさん、書き込みありがとうございます!

    No12591に返信(おくたがわさんの記事)
    > 別な訳も照らし合わせたいという気持ちが強くなって、平凡社の原佑訳をネットで注文してしまいました。調べたところ評判も上位で自分の目的にも合いそうと思い。あと、英訳のものはやはり信頼度高いとされてるみたいですね。
    > 訳を見たいところがあれば引用しますと以前言っていただきましたが、見たいところが多すぎなので。
    > なんでこんなに純粋理性批判に入り込んでるのか分かりませんが自分(´Д`ι)
    > そして早く見たいと楽しみにしている。こういうのは久しぶり。<

    いいなぁ、私も買おうかなぁ
    天野貞祐先生訳の第一巻は電子版で持っているのですが、原先生の訳本は持っていないんです。

    J. M. D. Meiklejohnさんの英訳は、原文に素直に訳してそうですよね。
    Google翻訳でも、カント原文→英訳の方が、カント原文→日本語訳よりも自然な訳になってそうな印象で、言語的に文法の作りなどが近いのかなあ?とか想像してます。

    純粋理性批判、やばいですよね。
    なんか魔法にかけられてるような。。。
    目を覚ました方がいいのか、自分!?
    みたいな。。。

    おもしろいんですけど。。。


    >>その前の記述、中山先生の通し番号102「知性と判断」の箇所(第二巻p49〜52)の箇所を理解したい。
    >>おくたがわさんが書き込んでくださっていたところですね(^_^)
    >
    > 英訳と中山さんでかなり違う部分について原文まで調べていただいてありがとうございました。やはり英訳が直訳に近く、中山さんがかなり意訳のようでしたね。
    > そういうところも原さんたちはどう訳しているか見るのが楽しみです。<

    たしか、第一版と第二版が並べられてるとうましかさんがおっしゃってたような?
    いいなぁ
    充実してそうだなぁ

    カント先生は幸せ者ですよね、あんなにひどい!!(愛も含めた表現)文章なのに、、、みんな丁寧に理解するよう(読者側が)努力してる。。。

    > あと、その部分に出てくる「わたしたちが経験するさまざまな現象(phenomena)」についての自分の解釈は間違っていたらしいと、ほかの部分を見ていて思いました。もっと全体を理解してから投稿しないといけないなと。<

    わたしはおくたがわさんのその時の考え方を知って、ああ、そういう見方もあるのか、と新鮮でした。
    いろんな可能性を考えるのは、、、おくたがわさんとの会話だからか、この言葉が浮かんでしまうのですが、【空(くう)】を感じるようで、自分にとってはとても新鮮です。
    まわりまわって、この見方もいけるな、かもしれませんし、もし修正するにしても、きっと何も無駄にならないですよね!

    ものごとを抽象する、ということは、ものごとを捨像することと二側面、みたいな解説内容を中山先生の解説(今の話題とは別箇所かもですが)で読んだ記憶が。。。
    (すみません、自分の文脈の中で、おくたがわさんのコメントから得られたものについて語っているので、伝わらないかも(^^;)

    まぁ、言いたいことはですねぇ、、、、ありがとうございますです!!\(^^)/♪

引用返信/返信 削除キー/
■12608 / inTopicNo.17)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/12(Wed) 22:48:24)
    悪魔ちゃん、こんばんは!(^o^)/♪

    No12596に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさま、お邪魔するね。<

    いつでも大歓迎だよ〜(o^^o)

    > カントさんが使う「形而上」とか「演繹」っていう用語、カントさんのはどういう意味で使ってるのか、なんか言ってる?<

    ちょっと調べてみるね!
引用返信/返信 削除キー/
■12617 / inTopicNo.18)  pipitさんへ 形而上学的演繹の箇所等
□投稿者/ うましか -(2021/05/13(Thu) 21:17:45)
    こんばんは。pipitさん。
    おじゃまします。

    御子柴善之『カント哲学の核心 『プロレゴーメナ』から読み解く』(NHKブックス)、私も持っていました〜 \(^^)/

    それにしてもpipitさんの引き出しはすごいですね!

    *******

    >御子柴善之先生は、形而上学的演繹に該当する箇所を、
    >中山元先生よりもう少し広くとって考えられているようです。
    >『「形而上学的演繹」(B159に見られる表現)と呼ばれる箇所(特に§9と§10)』と書かれており
    → No.12586

    ありがとうございます!
    毎回とても参考になりますm(__)m

    「“形而上学的“演繹」といわれた箇所が具体的にどこに該当するのかという問いについては、中山が§10の一部(※中山元訳2、p.66〜p.73、中山による通し番号では【109】〜【115】に該当)と考えているのに対して、pipitさんのご指摘によれば、御子柴はもう少し広い範囲(※中山による通し番号で【103】〜【119】に該当)を想定しているということですよね。

    ちょっと気になったのは、御子柴は「形而上学的演繹」の箇所を「特に、§9、§10」(御子柴、p.37)と書いているので、§9、§10に限らず、もう少し広くとらえているのではないかとおもいました。pipitさんもこうおっしゃっていたように、

    >体裁の整え方、変更箇所などについて、各研究者によって、実に様々な解釈があるようです。
    No.12559

    このあたりも、専門家、研究者間で相違があるのかもしれませんね!
    どんな解釈があるのかは、今後の楽しみに残しておきます(^^)
    カントが「形而上学的な根拠づけ」と名づけたくなかったなんて話しもとびだしてビックリ…(中山元訳2、p.410参照)


    そういえばNo.12554において、私は「形而上学的な根拠づけ(演繹)」という言葉は、第一版(初版)では出てこないと書きました。そのときもうひとつ気になったことなのですが、第一版の「純粋悟性概念の演繹」ではそもそも第〇項(§〇)とされていないのです(原佑訳上巻、p.249〜参照)。もしかしたら、§〇で分ける方法というのは、第二版のときに新たに導入したものかなとおもいました。

    ささいなことですが^^;


    それでは〜

引用返信/返信 削除キー/
■12622 / inTopicNo.19)  悪魔ちゃんへ 形而上学
□投稿者/ pipit -(2021/05/14(Fri) 10:28:34)
    No12596に返信
    悪魔ちゃん、こんばんは!
    簡単に考えてたら、いざ探そうとすると、私には超巨大な質問だったよ。(^◇^;)

    文脈によって、いろんな使われ方がしてそうなんだけど、
    とりあえず、【初版の序文】の冒頭のまとまりが、『この果てしない闘争の場こそ、形而上学と呼ばれるのである。』(中山元先生訳)という言葉でまとめられる箇所となってるので、そこを引用するね。
    初版の序文の冒頭だから、しょっぱな中のしょっぱなだね!

    ================

    『純粋理性批判1』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p199と200より引用。

    (引用開始)
    『人間の理性のある種の認識には、特別な宿命のようなものがある。
    理性は拒むことのできない問いに悩まされ続けているのである。
    この問いは、理性の本性そのものから課された問いでありながら、理性はそれに答えることができない。
    それが人間の理性のすべての能力を超えた問いだからである。

     この苦境に陥ったのは、理性の責任ではない。
    理性が手始めに利用する原則は、経験において十分に確証されているものである。
    そして理性はこの原則を使用しながら、ますます高みに上昇し(高みに上昇することは、理性の本性なのである)、遠くかけ離れた条件にまで到達するのである。

     しかしこのような形では問いそのものがなくなることはないので、人間の理性は自分の仕事に終わりがないことに気づく。
    そこで理性は、ありうるすべての経験的な使用を超越してはいるが、それでいて人間の常識的な理性でも了解することができるため、それほど疑わしいと思われないような原則に逃避する必要があると感じるのである。

     しかし理性はそのために曖昧さと矛盾のうちに陥ることになる。
    理性はどこかに誤謬がひそんでいるに違いないと推定することはできるのだが、それを発見することはできない。
    理性が使用している原則が、すべての経験の境界の外に出ているために、経験という〈試金石〉をもはや認めなくなるからである。

    この果てしない闘争の場こそ、形而上学と呼ばれるのである。』
    (引用終了)

    ================

    pipitの感想
    わたしはなんで存在してるんかなあ?
    神様がいるんかなあ?
    宇宙ってどうなってるんかなあ?
    端っこあるんかなあ?
    などの、理性の問いに答えるため、
    理性自身が考える原則(仮説)は、自己の経験の境界をでてることが一般的であり、そこでは科学原則(仮説)のように実験して確かめるという試金石が存在しないことも一般的である。
    だから、仮説だらけになって、だれが正しいのか(試金石もないのに)、の、闘争が生じる。
    それが、カントがその時代に経験してた、『形而上学』という領域だったのかな?
    と思いました。

    ※※※※※※※※

    とりあえず、『形而上学』について、たくさんある記述の中の一つを引用しました。
    いつでも、どんなことでも、聞いてくれるのは、こちらはかまわないから気軽に書き込んでね(^_^)(答えたくなーい、答えられなーい、だったら、答えないから安心してね!)

    悪魔ちゃんは、カントに関する解説などより、カント本人の文章が一番わかりやすい、みたいなことを書いてくれたね。
    悪魔ちゃんに答えるために引用した記事を読み返すと、(あら?カントの文章、もしかしてわかりやすい???)って私もそんな気になるよ。
    普段めちゃめちゃ苦労してるんだけどね。

    わたし、を、軸にするとわかりやすくなるのかな。
    わからんけど、、、不思議。

    ありがとうです!
引用返信/返信 削除キー/
■12623 / inTopicNo.20)  日記
□投稿者/ pipit -(2021/05/14(Fri) 10:41:16)
    No.12622
    > この果てしない闘争の場こそ、形而上学と呼ばれるのである。』
    (引用終了)<

    この闘争、は、自分 対 他人
    だけでなく、
    自分1人の中でも闘争や葛藤になることもあるかもしれないなぁと思いました。

    悪魔ちゃんの『演繹』についての質問は、また後ほど〜

    うましかさんも、すごくおもしろそうな内容のコメントをありがとうございます!
    読み込むの楽しみ〜(*^o^*)

    とりあえず用事してきまーす♪


引用返信/返信 削除キー/
■12635 / inTopicNo.21)  Re[16]: 形而上的なもの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/14(Fri) 19:09:25)
    ■12622、pipitさま

    ありがとございま〜す。

    >こちらはかまわないから気軽に書き込んでね<
    おことばに甘えて、

    わたしね、〈形而上的なもの〉と「形而上学」は区別して見てます。
    〈形而上的なもの〉に関する「学」が「形而上学」ね。
    上があるんだから下もあるはず、で〈形而下的なもの〉。

    でね、カントさんは〈形而上的なもの〉について、なんか言ってる?
    気が向けば、でいいよ。


引用返信/返信 削除キー/
■12644 / inTopicNo.22)  Re[17]: 形而上的なもの
□投稿者/ pipit -(2021/05/14(Fri) 22:16:03)
    No12635に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■12622、pipitさま
    >
    > ありがとございま〜す。
    >
    > >こちらはかまわないから気軽に書き込んでね<
    > おことばに甘えて、
    >
    > わたしね、〈形而上的なもの〉と「形而上学」は区別して見てます。
    > 〈形而上的なもの〉に関する「学」が「形而上学」ね。
    > 上があるんだから下もあるはず、で〈形而下的なもの〉。
    >
    > でね、カントさんは〈形而上的なもの〉について、なんか言ってる?
    > 気が向けば、でいいよ。<

    こんばんは!
    りょうかい〜(^o^)/

    調べて何か書ければ書こうと思うのだけど、その前に、
    悪魔ちゃんは形而上、と、形而上的なもの、とは区別する?
    それぞれ、どんな事柄と考えているのか聞いてもいいかな?

引用返信/返信 削除キー/
■12646 / inTopicNo.23)  うましかさんへ §について
□投稿者/ pipit -(2021/05/15(Sat) 00:14:09)
    うましかさん、こんばんは〜(^_^)

    No12617
    > 「“形而上学的“演繹」といわれた箇所が具体的にどこに該当するのかという問いについては、中山が§10の一部(※中山元訳2、p.66〜p.73、中山による通し番号では【109】〜【115】に該当)と考えているのに対して、pipitさんのご指摘によれば、御子柴はもう少し広い範囲(※中山による通し番号で【103】〜【119】に該当)を想定しているということですよね。
    >
    > ちょっと気になったのは、御子柴は「形而上学的演繹」の箇所を「特に、§9、§10」(御子柴、p.37)と書いているので、§9、§10に限らず、もう少し広くとらえているのではないかとおもいました。<

    ほんとですね、特に、ということは、その他も考慮に入ってそうな表現ですね。


    > カントが「形而上学的な根拠づけ」と名づけたくなかったなんて話しもとびだしてビックリ…(中山元訳2、p.410参照)<

    わ〜、その文章は見落としてました(゚Д゚)
    注かぁ、うましかさんは見逃さないですね〜
    どんな記述か読みたいけど、立て込みすぎてて手が出せないかな(^^;

    > そういえばNo.12554において、私は「形而上学的な根拠づけ(演繹)」という言葉は、第一版(初版)では出てこないと書きました。そのときもうひとつ気になったことなのですが、第一版の「純粋悟性概念の演繹」ではそもそも第〇項(§〇)とされていないのです(原佑訳上巻、p.249〜参照)。もしかしたら、§〇で分ける方法というのは、第二版のときに新たに導入したものかなとおもいました。<

    その通りみたいです。
    御子柴善之先生の『シリーズ 世界の思想 カント 純粋理性批判』御子柴善之先生著、p105に、
    『(1)『純粋理性批判』には「超越論的感性論」から「超越論的分析論」の途中まで、§1から§27までの区分がありますが、これは第二版で挿入されたものです。初版にこのような区分はありませんでした。』
    と載っていました。

    この項目分けをやめる時のカントによる文章が、中山先生訳本の第二巻p178に載っています。
    また、この項目分けについて、中山先生が奇妙に思われる点を、第一巻p253の、訳注(17)で書かれています。

    好き勝手な想像なんですけど、初版を出版した時に、理解してもらえてないのにめちゃめちゃ批判されたりしたので、他人に説明しやすいようにとか、わかりやすくなるように、とか考えた、カント先生なりの努力なのかなぁと妄想しました。

    書き込みありがとうございます(^o^)/



引用返信/返信 削除キー/
■12647 / inTopicNo.24)  Re[14]: うましかさんへ §について
□投稿者/ うましか -(2021/05/15(Sat) 01:42:38)
    こんばんは。pipitさん。
    おじゃまします。

    今夜は、pipitさんに脱帽です!

    *******

    >>そういえばNo.12554において、私は「形而上学的な根拠づけ(演繹)」という言葉は、第一版(初版)では出てこないと書きました。そのときもうひとつ気になったことなのですが、第一版の「純粋悟性概念の演繹」ではそもそも第〇項(§〇)とされていないのです(原佑訳上巻、p.249〜参照)。もしかしたら、§〇で分ける方法というのは、第二版のときに新たに導入したものかなとおもいました。<

    >その通りみたいです。
    御子柴善之先生の『シリーズ 世界の思想 カント 純粋理性批判』御子柴善之先生著、p105に、
    『(1)『純粋理性批判』には「超越論的感性論」から「超越論的分析論」の途中まで、§1から§27までの区分がありますが、これは第二版で挿入されたものです。初版にこのような区分はありませんでした。』
    と載っていました。

    >この項目分けをやめる時のカントによる文章が、中山先生訳本の第二巻p178に載っています。
    >また、この項目分けについて、中山先生が奇妙に思われる点を、第一巻p253の、訳注(17)で書かれています。


    *******

    じつは、、、本日私はみずからの疑問を自分なりに解決したのです。

    原佑訳の凡例を確認し、本日とどいた天野貞祐訳(一)の解説を読むことによって。

    けれども、御子柴善之『シリーズ◆世界の思想 カント 純粋理性批判』に書いてあったのですね! この本、私もってるんですが、まだ読まないと決めて温めていました(´;ω;`)ウッ… しかもp.85の註(1)という分かりづらさ。

    pipitさんの読み込みはていねいですね(私がおおざっぱなだけかな^^;)

    それよりも、今夜眠気が吹っ飛んだのは、カント自身が『純粋理性批判』(第二版)で「項」について言及していること。



    これにはまいりました。
    教えてくださり、ありがとうございます!


    はやくカント沼でバタ足できるようにがんばりまーす!

    それでは〜
引用返信/返信 削除キー/

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